第7話 霧の森と狼
玄関の戸が開き、カランとドアベルの音が響いた。
ドアの前には、三つの人影があった。
一つは、大人の女性のものだ。ドアを開けた本人であり、少しの間固まっていたが、そろそろと家の中へ入っていった。周囲を見回し、なにかを確かめているようだった。
もう一つは、少年のものだ。女性に続いて、慣れた足取りでスッと玄関へ入っていった。
そして最後の一つは、少女のものだ。しかし少女の足は、敷居の前で止まって動かなかった。じっと家の中を見つめるその姿は、どうしていいかが分からず途方に暮れているように見えた。
「おいで」
家の中から少年が少女へと手を差し伸べた。
「ここが僕らの家。もう、大丈夫だから」
そう言う少年の手に、躊躇いがちに少女の手が重ねられた。
「おかえり、陽香」
少年の手に引かれるまま、少女は敷居を越えて家の中へと入っていった。そして三人が入り終えると同時に、ドアは静かに閉められた。
「か……、はぁっ!」
喉に詰まった空気の塊をまるで吐き戻すように咳き込みながら、佳月は遠き日の夢から目を覚ました。
佳月がいたのは、夢とは打って変わって暗くひんやりとしていて、それでいて凍えるほど寒くはない場所だった。薄暗く周りはよく見えなかったが、佳月の身体の下には踏み固められていない枯草がクッションのように積もっていた。どうやら、森の中にいるようだ。
「陽香」
うわごとのように佳月は呟く。そしてすぐに立ち上がると辺りの様子を伺った。目が慣れて来たためか、段々と状況がはっきりしてきていた。頭上は陽の光も差さないほどにぎっしりと茂った葉に覆われており、昼か夜かの区別も付かないほどだ。そして、肝心の妹の姿はどこにもない。
「陽香っ!」
声を上げ、妹の名を呼んでみる。しかし帰ってくる声は無かった。
相変わらず森はしんとしており、近くに誰かがいるようには思えない。今聞こえているのは、佳月自身の荒い息遣いだけだった。
「……っ」
あまりの状況に二歩三歩よろめくように佳月が後ずさりをすると、岩のような何かが背中に当たる感覚があった。振り向くと、先ほどまでと同じように巨大な木が立っていることに気が付いた。氷原で見た大樹ほどではないが、空戸神社の御神木よりも大きく荘厳な気配を纏っていた。佳月は大樹の方へ向き直るやいなや岩肌のような樹皮に掴みかかった。
「お願いだ、戻してくれ!」
あらん限りの声で佳月は大樹に呼びかけた。傍から見れば奇怪に映っただろうが、この短時間に同じような状況で二度も不可思議な体験をしている今、この行動も無理からぬことだった。
しかし佳月の必死の呼びかけは大樹に何の変化も起こさなかった。ただ静かに、そこにあるだけだった。
「陽香がいたかもしれないんだ!」
年月を経て頑強に固まった樹皮を何度も力強く叩いて、佳月は呼びかけ続けた。
「お願いだから、お願いだから! もう一度あの場所に僕を送ってくれっ!!」
必死に佳月は大声を張り上げ続けた。なんとしても自分の願いを聞き届けてもらおうと。しかし大樹の様子は何も変わらない。返ってくるのは、鬱蒼とした葉が擦れる、僅かばかりの音だけだった。
「くっ……! うううっ!!」
呼びかけに答えない大樹を感情の赴くまま、力任せに殴りつけながら、佳月は言葉にすらならない呻き声をあげていた。何度も殴りつけたために皮が剥けボロボロになった手は血塗れになっていた。
「はる、か……!」
何をしても変わらない現状に無力感を覚えた佳月は、ぐったりとうなだれて力なく大樹にもたれかかった。途方に暮れるように当てもなく顔を上げた目には、薄らと涙で濡れていた。しかし今、佳月には悲しむ時間すら許されていなかった。
霧が辺りを漂っていた。
ついさっきまでの森は、暗くはあっても霧などなかった。しかもそれは、成り行きを見ている間にも濃くなっていることが分かる程の急速な変化だった。明らかに異常であり、このままでは霧に巻かれて立ち往生するだろうことは容易に想像がついた。現在の佳月の持ち物はスマートフォンのみであり、画面には『圏外』の文字が映っている。役に立ちそうにない。飲み水や食料は近辺には無く、あるのは枯草や枯れ枝ばかりだ。森から出られなければ命は無いことは明らかだった。陽香の心配をしている場合ではないことを、佳月も理解せざるを得なかった。
だが。
「まだだ……!」
佳月は自分自身に言い聞かせるように呟いて立ち上がった。自分の危険など、陽香の危険と比べるべくもない。
佳月は再び大樹に向き直ると、表面を触りだした。何かしら仕掛けが無いかを調べるために、目を皿のようにしながら、樹皮の隙間まで一片の見落としも無いようにへばりついて調べた。
「なにか、なにかきっと、あるはずだ!」
今までに二度も起きていることだ、三度目だってあるはずだと、根拠のない理屈の元、佳月は必死に大樹を調べていた。先程の氷原の過酷さは身に染みて分かっている、一刻の猶予も無い、諦めれば全てが終わる。その焦燥が佳月を駆り立て、大樹へ集中させていた。だから全く気付かなかったのだ。佳月に近づく音があったことに。
重いものが地面を擦る時に出る、腹の底に響く低い音、余程の重量があるせいか大きな音と共に地面が少し揺れていた。少なくとも人が歩いて出せる音ではない。
音は確実に佳月に近づき、急速に音量を上げていく。木の枝が震え、幹が震え、大地が震え始める。
急に自分の手元が暗くなったことでようやく、佳月は異変に気付いた。耳元に届く刺すような甲高い音に、背筋が凍り付く。内蔵を鷲づかみにされたような感覚の中、佳月は恐る恐る振り向いた。
そこには、途方も無い大きさの蛇の姿があった。
巨大な丸太のような胴体は佳月をそのまま轢いてしまえそうな程に太く、淡い黄色をした腹側に朽葉色をした背という色合いをした身体は、大樹を一巻き出来そうなほどの長さが既に見えているにも関わらず、未だ森の中に身体が隠れており全貌が分からないほどだった。
同じく朽葉色をした大蛇の双眸は既に佳月を見据えており、無機質な視線であっても、そこに明確な敵意が宿っていることは嫌でも理解できた。依然シューシューと噴気音を上げながら舌を震わせて威嚇する大蛇を前に、佳月は動けなかった。下手に動けばその瞬間に襲われると、本能的に危険を感じていた。
幾筋もの冷や汗が佳月の頬を流れていく。終わりの見えない緊迫の中、不意にどこかで枝が落ちてパサリと小さく乾いた音がした。その音に、佳月は小さく身体を震わせ、ほんのわずかに視線が大蛇から逸れた、その瞬間だった。
身体をくねらせて溜めていたバネを解き放ち、佳月の立っていた場所に、口を開けた大蛇が突撃してきた。
すんでの所で横に飛び、なんとか佳月は突撃を躱す。しかし、突撃を避けられた大蛇はすぐにまた佳月を襲えるように体制を整えようとしていた。
一刻の猶予も無いタイミングでのこの襲撃に、佳月は焦りを感じていた。もしあの氷の世界に陽香が閉じ込められているなら、少しの時間も無駄には出来ない。だがこの大蛇がいる今、大樹に近づくのは不可能だ。
しかし逆に、この余りにも出来過ぎた襲撃は、ある突飛な考えを佳月に抱かせた。
――この大蛇が大樹を守っているのではないか、という考えだ。
現に佳月に襲い掛かった大蛇は、攻撃を避けた佳月よりも突撃の際にぶつかった大樹の様子を気にしており、それが攻撃の手を遅らせていた。
やはり、この大樹には何かがある。佳月は確信めいたものを感じていた。
自身の突進が大樹に被害を与えていないことが分かった大蛇は、再び佳月に狙いを定める。先程以上に身体をくねらせ、全身から敵意を溢れ出させる。先程の攻撃は大樹を巻き込まないように本気を出してなかったのかもしれない。次に仕掛けられたら躱せるかどうかは分からない。それでも――
「なんとか、しなくちゃ……!」
ここで逃げれば、もう二度と陽香を助けるチャンスは訪れない。それは絶対避けなければならない。たとえ――命に代えてでも。
『逃げろ!』
そんな無謀な佳月の耳に、小さく声が届く。女性の声だと佳月は感じた。口調は強いがどこか落ち着く低めの響きをしており、思わず背筋がスッと伸びてしまうような凜とした声だった。
「誰っ!?」
思わず佳月は辺りを見渡すが、どこにも人の姿など無く、自分以外にいるのはあの大蛇だけだった。
『早く!』
再び声が届く、今度は先程よりも声が大きく、語気も強まっていた。
「でも!」
『その先には何もいない! 無駄死にする気か!』
「……!」
その言葉はある種の誘惑の様に、佳月には聞こえた。『氷原には誰もいない』そうならば、今佳月が取るべき行動はたった一つだ。自分自身、さっきからそうしたくて仕方がない。でも、この言葉は、本当に信じられるのか?
『今は、生きろ!』
自分の弱さが生み出した幻聴で、まやかしではないのか?
「っ、ぁ」
逃げていいのか?
「あああああああッ!」
佳月は声を振り切るように雄叫びを上げると、大蛇へ向けて走り出した。これと言った策も無く、ただ拳を固く握り絞め、真っ直ぐに、我武者羅に、突っ込んでいく。そんな蛮勇が功を奏するはずも無く、大蛇は先程の様に突撃を繰り出した。飲み込むまでもないと思ったのか、まずは動けなくしてから確実にと思ったのか、牙は剥かず頭突きを繰り出し、難なく佳月の腹部を撃ち抜いた。
「ぐぅっ!?」
丸太のような頭部を腹部に食らい、身体をくの字に折って吹き飛ばされる。受け身を取ることも出来ないまま佳月は地面を転がった。
「がっ、はぁっ……!」
衝撃に呼吸もままならず横たわったまま呻く佳月に、大蛇は悠然と近寄ってくる。そして鋭い牙を見せつけるように口を開き、舌をチラつかせる。唾液に濡れた牙が、生々しい。命運が尽きることを突き付けているように見えた。
三度大蛇は佳月に飛び掛かった。もう動けないと踏んでか、先程までのような勢いを持ったものではない。実際、佳月は動けなかった。足に力が入らず、立ち上がることさえ出来なかった。
だが、大蛇の牙は空を切った。
佳月は、大蛇が空を食らう様を横から見ることになった。
当の佳月でさえ理解が追い付かなかったが、自分が何かにぶら下がっていることに気が付いた。
「なっ、なに……!?」
見れば、シャツの背中側の襟元を何者かに咥えられていた。ぶら下がっているように感じたのはこのせいだ。そして、佳月を咥えていたのは――
「おお、かみ……?」
艶めかしい漆黒に染まった体毛に、ぽっかりと星が浮かぶように澄んだ青い瞳が輝いていた。長く尖った口元には鋭く生え揃った牙が覗き、力強く大地を掴む四肢には黒い鉤爪が鈍く輝いている。三角に尖った耳は、如何なる音も逃すまいと今尚ピクピクと動いていた。その精悍な姿は犬の持つ柔和さからはかけ離れており、ほとばしるほどの力強さを感じさせた。
大蛇に食われる直前に感じた引っ張られるような力の正体はこの狼だったのだと、そこでようやく佳月は理解した。
狼の大きさは、160㎝にいかないほどだろうか、身長170㎝ほどの佳月より一回りくらい小さいが、それでも結構な大きさだ。
「うわっ……!」
息つく間もなく佳月は再び狼に引きずられた。経験は無いが急発進する車に引っ張られるとこうなるのだろうか、成すすべなく吹き飛ぶように身体が飛んでいった。凄い力だと、こんな極限状況下にも関わらず佳月は呑気に考えていた。
一拍置いて、大地を振るわせる轟音が先程まで佳月たちのいた場所を通り過ぎていった。大蛇が再び突撃をしていたのだ。狼が引きずってくれなければ、間違いなく餌食になっていただろう。
「君は……」
佳月が狼に声を掛けようとしたとき、狼は佳月のシャツの襟首を噛み直して力を込めると、思い切り振り上げた。ビリビリとシャツが破れる鈍い音が佳月の耳に響く。
「うわっ!」
振り上げられた佳月は宙で半回転しうつ伏せのような形になる、それを狼が背中で受け止め、結果佳月は狼の背に乗った形となる。佳月が背中に乗ったことを確認した狼は、そのまま大蛇を背にして全速力で逃げ始めた。
「ちょっと、待って! 止まって! 止まってってば!」
狼は佳月の懇願を全く意に介さず走って行く。それはまるで、霧に覆われた森の中が見えているかのようだった。
細かい木の根、巨大な倒木なんのその、ひたすら真っ直ぐに、風のように走って行く。
走る狼から解放されようと佳月は何度か飛び降りを図ろうとしたが、狼は木の隙間を縫うように走っており、飛び降りようものなら木に激突して大怪我をすることは明白で、反射的に身を竦めてしまっていた。そうして佳月が降りるに降りられない状況の中、狼は霧を突き抜けて着実に森の出口へと進んでいた。
気付けば霧は晴れ、明るい光の差す穏やかな森へと変わっていた。
大蛇はいつの間にか追撃を諦めたらしく、既に地を振るわす轟音は聞こえなくなっていた。
「ぐっ……!」
木がまばらになってきたところでようやく佳月は狼の背から飛び降りることが出来た。身を投げ出した佳月は小さく呻き声を漏らすと、慣性のまま枯れ葉の上を十数メートル転がって静止した。
「くぅっ……!」
かなりの衝撃だったのだろう。顔をしかめながら佳月はふらふらと立ち上がると、今しがた狼が走って来た方向へ向けて、覚束ない足取りで歩き出した。
しかし狼は、それを見過ごさなかった。佳月が飛び降りたと分かるや否や、急ブレーキをかけてすぐに、佳月の目の前へと回り込んだ。そして牙を剥き出しにし耳を寝かせ、姿勢を低くし佳月を睨みつけると、恐ろしい唸り声を出し始めた。
「邪魔を、しないで……! あの大樹の先に、妹が、いるんだ……!」
しかし佳月も譲らず、鋭い牙を見せつけている狼に向かって、一歩、また一歩と距離を詰めていった。その先に陽香がいると信じている今の佳月にとっては、相手が危険な肉食動物だろうと関係なかった。あまりの迫力に圧されたのか、威嚇している狼の側がじりじりと後退していた。未だ唸り声を止めようとはしていなかったが、深い青色をした狼の双眸には困惑の色が浮かんでいるように見えた。
「お願いだ」
道を譲らない狼の目を見据えて、佳月は告げる。
「君のおかげで、助かったとは思ってる。でも、大切な家族を助けないといけないんだ。だから、道を空けて欲しい」
傍目から見れば狼に交渉するという奇妙な光景ではあった。だが、先程からの一連の流れに加え、今こうして正対してみて、更なる確信が得られたことがあった。狼は、大粒の青く丸い宝石が目を引くネックレス状の首輪をしていたのだ。
この狼は、人との交流がある。ともすれば、人に飼われているのかもしれない。今こうして道を譲らないのも、佳月という人間を先程の死地へと向かわせない為だろう。分かっているから、そうしているのだ。だからこそ、自分の言葉はこの狼にきっと伝わる、そう思っての行動だった。
ジッと見つめられて気圧されたのか、狼はその青い双眸を佳月の視線から逸らすと、言葉が通じたのか、狼はうなり声を上げるのを止め、スッとその場から立ち上がると落ち込んだように尻尾を下げ、森へ向けてトボトボと歩き始めた。
「……はは」
思った通り、意志が通じたのだ。佳月の熱意が狼の心を動かし、再び道を開いたのだった。
「ありが――」
そう思われた直後、くるりと反転すると、狼はありったけの勢いを付けて弾丸のように佳月に向かって突進してきた。不意を突かれた佳月は躱すことも出来ず、無防備なまま頭突きをまともに食らってしまう。
「カはッ――」
大蛇の攻撃でダメージを負っていた鳩尾を再び打ち抜かれた佳月は、ロクに声を上げることも出来ないまま、速やかに闇の底へと意識を沈めていった。
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