第4話 雨宿りの二人
志鷹が道場を施錠し、ようやく帰る準備が整った所で、空を埋め尽くしていた鈍色の雲から雨が降り始めた。今はまだポツポツとまばらに降るばかりだが、すぐにでも本降りになるのは目に見えていた。
「まだいけるか?」
それでも志鷹はまだ幾ばくかの猶予が残されていると感じているようだった。もっとも、傘を持っていない彼からすれば、そんな希望的観測を持つしかないような気もするが。
「よしっ!」
志鷹は気合いを入れると、落とさないように鞄と道着袋をしっかり握り、すぐ近くの自転車置き場に駆けだした。
「じゃあまた明日な!」
佳月にそう告げ、すぐに志鷹は自転車を走らせた。在らん限りの力で自転車を漕ぐ志鷹の姿は、正門を出るとすぐに曲がって見えなくなった。
「そういえば、僕も傘、なかったな……」
そう呟いたのを合図にしたように、雨脚が急速に強まった。歩いて十分はかかる最寄駅には、どれだけ早く走ったところで無事に着けそうにない。それに、着いた所で終わりではなく、そこから先に乗り継ぎ込みの一時間は掛かる電車通学路が待っている。ずぶ濡れのままこれをこなすのがどれだけ他人にも自分にも迷惑なのかは想像に難くない。
見た所、通り雨というには少々腰を据えて降っているようで、とても数分で収まりそうにもない。しばらく待つ、となれば、
「……図書室、か」
佳月はポツリと呟くと、校舎から道場に向かう際に使われる渡り廊下に向かうべく雨の中へと駆け出していった。数秒くらいなら、許容範囲だった。
この
蔵書が置いてある部屋は一つだけで、その上特筆して広いわけでもなく、珍しい蔵書が置いてあるという話も無い。テスト期間中と大学入試直前辺りになって一時的に利用者が増えることはあるが、そういった事情が絡まなければ基本的に閑散としていた。
自分から積極的に人と関わろうとしない佳月には、人が少なく静かなこの場所は、お気に入りの場所だった。
終業式というイベントが終わってしまえば、もはや用無しの学校。他に人などいるはずもない。佳月はまだ施錠されていないのを確認して、図書室の古びて所々ペンキの剥げた木の扉を開けて中に入った。
雨曇に覆われているせいで室内は昼間だが薄暗く、がらんとしていた。人気のない図書室は佳月の貸切状態、ではなかった。
見れば窓際の席に一人、生徒が座っていた。佳月が来たことを気にも止めず、静かに手元の本を読み続けていたのは、佳月のよく知る人物だった。
「陽香?」
よほど集中しているのか、陽香は名前を呼ばれても気付かなかった。薄暗いため間違えたとも思った。終業式の後、陽香は先に帰ると言っていたから。疑問を確かめるため、佳月ははっきりと顔が見える距離まで歩み寄ってみる。
やはり陽香だった。口元に薄らと笑みを浮かべて、一心不乱に文字を追っている。余程内容が面白いのだろうか。
楽しみを邪魔しても悪いと思い、佳月は陽香の斜向かいの椅子を努めて音を立てないように引き、腰を下ろすと、同じように音を立てないように勉強道具を広げ、自分のやることをやり始めた。
「ふぅっ……」
しばらく時間が経ち、読み終えた本をパタリと閉じると傍らに置いて、陽香は一つため息をついた。長いこと同じ姿勢で読んでいて身体が凝っていたのだろう。手を組んで大きく伸びをする。
と、その時ようやく陽香は佳月の存在に気が付く。佳月も陽香の様子に気付いたのか、手元の宿題から視線を上げており、バッタリと視線があった。
「お疲れ」
「わ、わあっ!? わああぁぁっ!??」
不意のことに飛び上がるほど驚いたのか、陽香は背もたれ側に仰け反った拍子に、椅子ごと後ろに倒れてしまった。
「陽香っ!?」
突然のことに佳月も驚愕し、すぐさま席から立ち上がり、陽香の側にかけ寄る。
「大丈夫!?」
「ご、ごめん……。少し、驚いちゃっただけ……。だ、大丈夫、だから……」
佳月に助け起こされ立ち上がると、陽香はスカートのほこりを払い、大きめに息を吸い呼吸を整え、佳月の方を見る。大きく見開かれた目が少し潤んでいるように見えた。
「えっと、その。ぶ、部活は、どうしたの……?」
「終わったよ」
「え……!?」
陽香は慌てた様子でスカートのポケットからスマホを取り出す。画面に表示された時刻はもうすぐ四時になろうとしていた。佳月が部活を終えてからは既に一時間が経とうとしていた。
愕然とした陽香はすぐさま立ち上がると、手元の本をまとめ始める。
「ご、ごめんなさい! すぐに帰りの支度を……!」
「今雨降ってるから、帰ると濡れちゃうよ」
「あっ……」
佳月に言われて陽香はようやく雨が降っていることに気付いたようだった。未だ雨は降り続いており、止む気配を見せない。
「陽香も傘、持ってなかったよね? もう少しゆっくりしていこう」
抱えていた本を机に置くと、陽香は力なく椅子に座り直す。
「……本当に、ごめんなさい」
沈痛な面持ちの陽香の姿に、佳月の方も申し訳なくなってしまう。
「気にしなくていいよ」
「でも、今日は兄ちゃんの誕生日で! あたし、ちゃんとお祝い、したかったのに……!」
俯く陽香の声は少し震えていた。責任感の強い彼女のことだから、相当責任を感じているのだろう。
「止むまで待とう? 濡れたくないし、ね?」
「……はい」
「本、面白かった?」
「その、少しだけのつもり、だったんだけど……」
陽香は申し訳なさそうに手元の本に目を落とす。本のタイトルを見るに、どうやらファンタジー小説のようだった。小さな文庫本ではあったが、そこそこ厚みのある長編に見える。しかし趣味として娯楽本を読むことが無い佳月には見覚えの無いタイトルだった。
「陽香は本当に本が好きになったね」
「……変、だよね」
「ううん。陽香は陽香だよ。やりたいこと、好きなことをすればいいんだよ」
「……うん」
陽香の趣味を褒めてはみたものの、陽香の表情は依然暗いままだった。
「……あれ?」
手元にあるいくつかの本の中に、読書家の陽香にしては――先入観から佳月はそう思ってしまったのだが、少々似つかわしくないように思える本が混ざっていた。
「日本、昔話?」
流石にこれは佳月も知っていた。少し古ぼけた昔話のまとめ本のようで、厚さも他の本に比べて薄かった。
「……ねえ、兄ちゃん」
「なに?」
「鶴の恩返しって物語、知ってる?」
「鶴の恩返し?」
思いがけない質問に佳月は少し戸惑う。読書家の彼女がわざわざ聞く『鶴の恩返し』と、自分の知っている『鶴の恩返し』は同じものなのだろうか? と。
「一応、知ってるはず、だけど」
「あの物語の続きって、知ってる?」
「鶴の恩返しの続き?」
今まで考えてみたこともない話だった。
何か試されているのかと思い、陽香の様子を伺ってみるが、向けられた視線は真剣そのもので、ただただ答えを求めているだけのようだった。
「……ごめん。僕は知らない」
手当たり次第自身の記憶を漁ってはみたが、やはり心当たりは無かった。
「……。そう、だよね」
一瞬の沈黙の後、陽香はふっと息をこぼし、表情を緩めた。
「ごめんね。変な質問して」
「こっちこそ、期待に添えなくてごめん」
「いいの、気にしないで」
そう言うと陽香は手元の本を積み重ね抱えると立ち上がる。本棚に本を片付けに行くようだ。
「兄ちゃんは、いつもどんな本を読むの?」
「僕?」
「うん」
本を片付けながら、陽香は本棚の陰から佳月に問いを投げかける。佳月は、恥ずかしくなり目を泳がせながら小さく頬をかいた。
「実は、あんまり本読まないんだ」
「そう、なの?」
それは陽香にとって意外な返答だったらしく、本棚の向こうから聞こえてきた声は少し上擦っていた。
「参考書とか、教科書とか、あとは読書感想文の時に有名な本を少し読んだりするくらいで、陽香みたいに趣味で本を読んだりすることは無くって」
「そうだったんだ……」
本棚越しでも落ち込んでいることが分かるほどに陽香の声はトーンダウンしていた。何かうまく話を続けたいと思い、佳月は話題を捻り出す。
「えっと……、おすすめの本、陽香はどんな本が好きなの?」
「あたし? あたしは……、物語ならどんなものでも好きかな。あ、でも童話とかファンタジーとか、そういう本を読むことが多いかも」
「ファンタジー?」
「色んな種族が住んでいたりする世界が舞台の物語で、魔法を使ったりして冒険するの。読んでるとドキドキして、凄く面白いんだ」
「そうなんだ」
「最近読んでいた本もそんな話で、世界を滅ぼしかねない力を秘めた宝物を、主人公は世界の果てに捨てるために旅に出るの。でも旅は一筋縄では進まなくて、宝物を巡る争いに巻き込まれる内に主人公は仲間との離別や裏切りを経験して深く傷ついて、挫折したりするんだ。でも、それでも仲間の支えを受けて、立ち上がって、今までいがみ合っていた種族も一つにまとまっていって、それで、それでようやく旅の目的を果たすの。すごく設定が緻密で、まるで本当に、そこにもうひとつの世界があるみたいで、私、――」
興奮した様子で息つく暇もなく喋っていた陽香は、そこでハッと我に返る。
「ご、ごめんなさい! あたしばっかり話してて……」
「ううん、気にしないで」
穏やかな笑顔で佳月は応じる。
「本当に、本が好きなんだね」
「……うん」
目を閉じ自分の胸に手を当てて、陽香は胸の内に浮かんだ思いを大切に紡ぐように口を開く。
「本を読むと、私の世界が広がっていく気がするの。一つの物語に一つの世界があって、その物語を読んでいくと、私も同じ景色を見ることが出来る。そうやって一緒の思い出を作ったら、少しだけ遠くに行ける。そんな気がするんだ」
そこまで言うと、本棚の陰から陽香が顔を覗かせる。気恥ずかしかったのか、顔が少し赤らんでいるように見えた。
「きゅ、急にこんな話、ごめんね」
「いや、良い話を聞かせてもらったよ」
屈託のない笑顔を浮かべる佳月。
「今の陽香も、本当に好きなものを見つけられたってことが分かったから」
「っ……!」
その一言に陽香は息を呑み、雷に打たれたような驚愕の表情を浮かべる。
「そ、れは……」
「……あっ!」
掠れたように声を漏らす陽香を見た佳月は自分が失言をしたことに気が付き、慌てて腰を浮かせる。
「き、気にしなくていいよ!」
ショックを受けた陽香に、佳月は励ましの言葉をかけ続ける。
「新しく見つけた大切なものと一緒に、また前に進んでいけるんだからっ! ねっ!?」
「……う、うん……」
「……あっ! ほら、雨も上がったみたいだよ!」
佳月がすがるように窓の外を見ると、先程までの激しさが嘘のように雨は上がっていた。
「それじゃ、帰ろう! ねっ!」
「……うん」
なんとか励まそうとする佳月に、陽香は力なく返事をし、帰り支度を始める。
支度はすぐに済み、二人は帰りの電車に乗るべく図書室を後にしたが、その足取りはどこか重々しかった。
「さっきまでの雨が嘘みたいだ」
電車に揺られ、虹居駅まで帰ってきた頃には、日暮の赤はまだ長く尾を残しており、空は夜闇に染まりきっていなかった。既に輝く星と月の存在もあり、気味良い明るさを感じていた。
「すぐに夕飯作るから、少しだけ待っててね」
失言はあったが、どうやら陽香は気を取り直したらしく、今ややる気に満ちていた。汚名を返上したいであろうことも、想像に難くない。
「そんなに慌てなくてもいいからね」
「そうはいかないよ。誕生日のケーキだってしっかり焼いてみせるから待っててね!」
陽香に元気よく宣言され、佳月は自分の頬が緩むのを感じた。
「――」
その時、佳月は『声』をかけられたように感じた。実際にはどんな音だったかも理解していないのだが、『声』であることにはなぜか確信を持っていた。
今の声は、どこから――?
佳月が辺りを見回す。そして、あるものが視線に止まる。
空戸神社の存在を示す看板。
そこには階段があり、その先には境内が広がっている。佳月の視線は、森の奥に隠れている境内を見据えていた。
「兄ちゃん?」
陽香の声が聞こえ、佳月はハッと我に帰る。陽香はこちらを心配そうに見つめていた。
「なんでもない。なんでもないよ。さ、行こう」
今し方向けられた『なにか』を意識の外に追い出して、佳月は再び帰路に着く。
そうだ。今大切なのは、兎にも角にも陽香だ。そう自分に言い聞かせながら一歩、また一歩と、空戸神社から遠ざかっていった。
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