第4話 雨宿りの二人

 志鷹が道場を施錠し終え帰ろうかという所で、既に空はいっぱいの雲で覆いつくされていた。雨はまだ降っていないが、鈍色の雲からはすぐにでも大量の雨が降り出しそうだった。

「……行くしか、ないよな。よしっ!」

 志鷹は自転車通学だ。そして今、傘も合羽かっぱも持っていない。雨に濡れる覚悟を決め一つ気合いを入れると、鞄と道着袋を落とさないようしっかり握り、近くの自転車置き場に駆けだした。

「じゃあまた明日な!」

 佳月にそう告げながら、自転車に乗った志鷹は佳月の前を過ぎ去っていった。在らん限りの力で漕ぐ志鷹の姿は、正門を出るとすぐに曲がって見えなくなった。

「そういえば、僕も傘、なかったな……」

 そう呟いたのを合図にしたように、ポツポツと雨が降り始めた。

(駅までは走れば5分くらい。でも、すぐに本降りになるだろうからきっと無事には辿り着けない……。それにここで電車に乗れてもその先で折良く電車に乗れるとも限らない、か)

 逡巡しているうちにも、雨脚は強まりつつあった。既に機は失われてしまっていた。

「……図書室、かな」

 佳月はポツリと呟くと、校舎から道場に向かう際に使われる渡り廊下に向かうべく雨の中へと駆け出していった。すこしくらいなら、許容範囲だった。


 この東雲しののめ高等学校は県内でも有数の進学校だ。その図書室ともなれば相当な設備が整っている。というわけではなく、いたって平凡な施設だった。蔵書が置いてある部屋は一つで、特筆して広いわけでもない。珍しい蔵書が置いてあるという話も聞いたことが無く、テスト期間中と大学入試直前辺りになって一時的に利用者が増える自習室のような使い方をする生徒がほとんどだ。それ故平時は閑散としているのが常だった。

 だが、自分から積極的に人と関わることが苦手な佳月には、人が少なく静かなこの場所は、お気に入りの場所の一つだった。まだ施錠されていないのを確認してから、所々ペンキが剥げて古ぼけた木の扉を開けて、佳月は中に入った。雨曇に覆われているせいか、昼間でも室内は薄暗くがらんとしていて図書室は佳月の貸切状態だった。

「ん?」

 そう思って中を見渡して見れば、窓際の席に一人生徒が座っていた。佳月が来たことにも全く気付かず、静かに手元の本を読み続けていた。

「陽香?」

 それは陽香の姿だった。よほど集中しているのか、名前を呼ばれても気付かない。(先に帰るって言ってたはずだけど……)

 薄暗いせいで見間違えたのかもしれない。それを確かめるため、佳月ははっきりと顔が見える距離まで静かに歩み寄ってみた。

 やはり陽香だった。口元に薄らと笑みを浮かべて、一心不乱に文字を追っている。余程内容が面白いのだろうか。

 楽しみを邪魔しても悪いと思い、佳月は窓際の別の机に陽香と向かい合う形で座る。努めて音を立てないように椅子を引き、腰を下ろすと、同じように音を立てないように勉強道具を広げて、自分のやることをやり始めた。



「ふぅっ……」

 しばらく時間が経ち、読み終えた本をパタリと閉じると傍らに置いて、陽香は一つため息をついてから両手を組んで大きく伸びをした。長く同じ姿勢で読んでいて身体が凝っていたのだろう。

 何気なく陽香が前を見ると、そこに佳月の姿があった。奇しくも伸びをする陽香の様子に気付き手元の宿題から佳月が視線を上げた丁度その時で、お互いバッチリと視線があった。

「…………えっ?」

「お疲れ」

「わ、わあっ!? あっ!? わあ、あぁぁっ!??」

 不意のことに飛び上がるほど驚いたのか、陽香は背もたれ側に飛び退くように仰け反った拍子に、椅子ごと後ろに倒れてしまった。

「陽香っ!?」

 突然のことに佳月も驚愕し、すぐさま席から立ち上がり、陽香の側にかけ寄る。

「大丈夫!?」

「あたた……。ご、ごめん、少し、少し驚いちゃっただけ、だから……。だ、大丈夫……」

「本当に……?」

 幸いなことに陽香の座ってたのは端の席だったため、頭や身体をぶつけたりはしていなかった。佳月に助け起こされ立ち上がると、陽香はスカートのほこりを払い、大きめに息を吸い呼吸を整え、佳月の方を見た。大きく見開かれた目が少し潤んでいるように見えた。言葉とは裏腹に余程驚いたようだ。

「えっと、その。ぶ、部活は、どうしたの……?」

「終わったよ」

「え……!?」

 陽香は慌てた様子でスカートのポケットからスマホを取り出す。画面に表示された時刻は16時を少し過ぎており、佳月が部活を終えてから既に一時間が経過していた。

 取り返しのつかないことをしてしまったように愕然とした陽香はすぐさま立ち上がると、手元の本をまとめ始める。

「ご、ごめんなさい! すぐに帰りの支度を……!」

「今雨降ってるから、帰ると濡れちゃうよ」

「えっ――」

 佳月に言われて陽香はようやく雨が降っていることに気付いたようだった。未だ雨は降り続いており、止む気配を見せない。

「陽香も傘、持ってなかったよね? もう少しゆっくりしていこう」

 茫然と雨が降る様子を見て、抱えていた本を机に置くと、陽香は力なく椅子に座り直した。

「……本当に、ごめんなさい」

 沈痛な面持ちの陽香の姿に、声を掛けようとしなかった佳月の方も申し訳なくなってしまう。

「気にしなくていいよ」

「でも、今日は兄ちゃんの誕生日で! ちゃんとお祝い、したかったのに……!」

 俯く陽香の声は少し震えていた。

「止むまで待とう? 濡れたくないし、ね?」

「……はい」

「……その本、面白かった?」

 沈鬱な空気を変えようと話題を探した結果本が目についた佳月は、彼女に感想を聞いていた。

「その、少しだけのつもり、だったんだけど……」

 陽香は申し訳なさそうに机の本に目をやった。本のタイトルを見るに、どうやらファンタジー小説のようだった。小さな文庫本ではあったが厚みがあり、相当のボリュームがあるように見えた。

「陽香は本当に本が好きになったね」

「……変、だよね」

「ううん。陽香は陽香だよ。やりたいこと、好きなことをすればいいんだよ」

「……うん」

 趣味を褒めてはみたものの、陽香の表情は依然暗いままだった。

「……あれ?」

 置かれているいくつかの本の中に、少々意外に思える本が混ざっていた。

「日本、昔話?」

 流石にこれは佳月も知っていた。少し古ぼけた昔話のまとめ本のようで、厚さも他の本に比べて薄かった。失礼な話だが、読書家の彼女が読むには少々今更感がすると思ってしまったのだ。

「……ねえ、兄ちゃん」

「なに?」

「『鶴の恩返し』って話、知ってる?」

「鶴の恩返し?」

 思いがけない質問に佳月は少し戸惑った。

(鶴の恩返しって、あの『鶴の恩返し』、だよね……?)

 わざわざ質問するほどのものだろうか、それとも全く同じタイトルで自分の知らないものがあって、知っているかどうかを試されているのだろうか? 意図を図りかねた佳月は、陽香の様子を見た。

 彼女の大きな黒い瞳は、真剣に佳月を見つめていた。そこにからかいの意図など微塵も感じられなかった。佳月は意を決して、自分の知識を信じることにした。

「一応、知ってるはず、だけど」

「あの物語の続きって、知ってる?」

「鶴の恩返しの続き?」

 今まで考えてみたこともない話だった。鶴の恩返しに続きなどあるのだろうか?

「……ごめん。僕は知らない」

 自身の記憶を手当たり次第漁ってはみたが、心当たりは無かった。

「……。そう、だよね」

 一瞬の沈黙の後、陽香はふっと息をこぼし、表情を緩めた。

「ごめんね。変な質問して」

「こっちこそ、期待に添えなくてごめん」

「いいの、気にしないで」

 そう言うと陽香は机の上の本を抱えると立ち上がり。本棚の方へ歩いていった。

「兄ちゃんは、いつもどんな本を読むの?」

「僕?」

「うん」

 本を片付けながら、陽香は本棚の陰から佳月に問いを投げかけた。その質問に佳月は恥ずかしくなり、陽香が見ていないのに目を泳がせて小さく頬をかいた。

「実は、参考書とか教科書以外の本って読まないんだ」

「そう、なの?」

 それは陽香にとって意外な返答だったらしく、本棚の向こうから聞こえてきた声は少し上擦っていた。

「読書感想文を書く時に有名な本を少し読んだりするくらいで、陽香みたいに趣味で本を読んだりすることが無くって」

「そうだったんだ……」

 本棚越しでも落ち込んでいることが分かるほどに陽香の声はトーンダウンしていた。何かうまく話を続けたいと思い、佳月は話題を捻り出した。

「えっと……、陽香はどんな本が好きなの?」

「あたし? あたしは……、物語ならどんなものでも好きかな。あ、でも童話とかファンタジーとか、そういう本を読むことが多いかも」

「ファンタジー?」

「色んな種族が住んでいたりする世界が舞台の物語。剣と魔法の世界って呼ばれたりもするのかな。読んでるとドキドキして、凄く面白いんだ」

「そうなんだ」

「さっきまで読んでいた本もそんな話で、世界を救う使命を帯びた主人公が自分と異なる種族を繋ぐために様々な場所を冒険していくんだけど、そんな中で価値観の違いや妨害を受けて深く傷ついたり、挫折したりすることもあるんだ。それでも何度でも立ち上がって進んでいく姿を見て、今までいがみ合っていた種族たちが一つにまとまっていく物語なの。すごく設定が緻密で、まるで本当に、そこにもうひとつの世界があるみたいで、私、――」

 興奮した様子で息つく暇もなく喋っていた陽香は、そこでハッと我に返る。

「ご、ごめんなさい! あたし、ばっかり話してて……」

「ううん、気にしないで」

 穏やかな笑顔で佳月は応じる。本棚越しでも恥ずかしがる陽香の表情が透けて見えるようだった。

「本当に、好きなんだね」

「……うん」

 目を閉じ自分の胸に手を当てて、陽香は胸の内に浮かんだ思いを大切に紡ぐように口を開いた。

「本を読むと、あたしの世界が広がっていく気がするの。一つの物語に一つの世界があって、その物語を読んでいくと、あたしも同じ景色を見ることが出来る。そうやって一緒の思い出を作ったら、新しい友達が増えたような。そんな、気がして」

 そこまで言うと、本を返し終えた陽香が本棚の陰から顔を覗かせる。顔が少しだけ赤らんでいるように見えた。

「きゅ、急にこんな話、ごめんね」

「いや、良い話を聞かせてもらったよ」

 屈託のない笑顔を浮かべる佳月。

も、本当に好きなものを見つけられたってことが分かったから」

「……」

 その一言に陽香は佳月の顔を少しだけじっと見て、

「うん」

 小さく、笑った。

「あっ、雨も上がったみたいだ」

 佳月が窓の外を見ると、先程までの激しさが嘘のように雨は上がっていた。

「それじゃ、帰ろうか」

「うん。そうだね、兄ちゃん」

 佳月に促されて、陽香も帰り支度を始めるのだった。

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