第3話 日常ー3

  昼も過ぎ、太陽が少し傾く頃。威勢の良い叫び声が武道場から響いている。

 空手の道着に身を包んだ二人の選手が、白いフェイスガードとそれぞれ赤と黒のボディプロテクターを付けて相対していた。

 板張りの上で小刻みにステップを踏む二人。先に動いたのは黒いプロテクターを付けたほうだった。

「ふッ!」

 鋭く息を吐き出しながら放たれた鋭い右拳が、相手の顔面に強かに叩き込まれる。フェイスガードが激しく揺れ、相手はたまらず尻餅をついて倒れこむ。

「石椛、一本!」

 審判をしている男子部員が試合を止め、佳月の勝利を宣言した。

「お互いに礼!」

 板張りの空手場の中にテープで縁取られ作られたコート、その中央で向かい合っていた佳月と相手部員は、お互いに礼をし退場する。


 終業式が終わり、佳月は所属する空手部の練習に打ち込んでいた。

 現在行われているのは、大型休みを前に浮かれる気持ちを律するという名目の恒例行事、部員総出の乱取り大会だった。

「ぶはっ!」

 フェイスガードを外すと同時に佳月と対峙していた選手が大きく息を吸い込む。

「良い負けっぷりだったぞ」

「石椛の奴、ここまで負け無しとかバケモンかよ……」

「そこまで疲れてる様子もないしな」

 コートの向かい側で他の部員に防具の緩みを直してもらっている佳月は、静かに正座をして精神を研ぎ澄ましている。少なからず汗をかいてはいるものの、呼吸は穏やかで、疲労している様子は見られない。

「後輩に全員やられるとか、メンツ丸つぶれじゃねえか……!」

「でもまあ、次は『あいつ』だからな。流石にここまでだろ」

「! 確かに……!」


「両者前へ!」

 準備が終わり、審判役の部員が佳月とその対戦相手に呼びかける。

 コートに一礼し、入場する両者。佳月の対戦相手は、佳月よりも背が高くがっしりとした体格をした選手だった。それでいて立ち振る舞いは洗練されており、巨体に似合わぬ流麗さを感じさせ、一目で熟達していることが見て取れた。

「頼むぜ、志鷹……」

 先ほど負けた男子部員が呟く中、審判が選手二名に構えを促す。

「始めッ!」

 合図と共に佳月と志鷹の立ち会いが始まった。


 立ち会いは相手の頭部、もしくは腹部に有効な打突を加え一本を取るか、二分の制限時間が無くなるまで続けられる。佳月はここまで全員を速攻による一本で破ってきており、そのおかげもあって依然スタミナは十分であった。

 軽いフットワークで志鷹を牽制していく佳月。対する志鷹はステップを踏みはするもののその場から動こうとせず、佳月の出方を伺っているようだった。


 そんな中、先に仕掛けたのは佳月の方だった。

「ふっ!」

 素早く左足を踏み込むと、勢いをそのままに相手の上段へ左拳を突きに行く。

「……」

 しかしそれは予期されていたのか、志鷹はその突き間合いの外へと一歩後退して逃げ、受けもせずに躱す。

 ならば、と突進し、左右の拳による激しいコンビネーションで攻め立てる佳月だが、今度も志鷹は外へ逃げつつ身体を左右に振り、体捌きのみで全て躱していく。

「おい、石椛焦ってないか?」

 攻撃をことごとく避けられた佳月の刻むステップは先程よりも荒々しくなっていた。それとは逆に相対する志鷹は依然穏やかなステップを刻んでいた。

「今まであれで終わらせてたからな」

 すると、佳月のステップがある時ピタリと止まる。

「来るか?」

「ああ」

 佳月の様子を見ていた先輩部員が小さくため息をつく。

「終わったな」

 勢いよく飛び出し、志鷹の懐に接近した佳月は左の突きを繰り出す。

 ――様子から一転、体を捻り上段狙いの右回し蹴りを鋭く放つ。離れていても風を切る音が聞こえそうな程の勢いを持った蹴りが志鷹の顔面に襲いかかる。

 だが志鷹は上体を大きくスウェーして難なく蹴りを躱すと、そのままスウェーした身体の動きを利用して前に出ていた左足で蹴り上げる。

 蹴り終わり隙を晒した佳月の顔に薙ぎ払うような鋭い蹴りが襲い掛かった。

「そこまで! 志鷹、一本ッ!」

 頭部に鮮やかな蹴りを食らった佳月はたたらを踏み、少しの間何が起きたのか分からないようだった。しかし自らの敗北を理解すると、すぐにコートの中央に並び対戦相手の志鷹と、審判に礼をし退場する。

 

「これで俺以外全員終わったな!」

 フェイスガードを取った志鷹がその場にいる部員全員に語りかける。

 先ほどまでの流麗な振る舞いは何処へか、フェイスガードの下に隠されていたのは、やんちゃ盛りの子供のような笑顔だった。

 エラの張った顔つきや針金のようにピンとした黒い短髪、そして元気に見開かれた目の奧で爛々と輝く瞳には底知れない活力と闘争心が満ち溢れていた。

「じゃあ、残りの時間は俺に付き合ってもらう! 暴れ足りない奴、女子に自慢したい奴、部最強を名乗りたい奴! 理由はなんでも良い! 戦いたい奴は全員、何度でもかかってこい!」

 大柄な身体に相応しい、野太い腹の底に響く大声で部員全員に叫びかけると志鷹はニヤリと不敵に笑った。それだけで圧倒してしまいそうな志鷹の大声が静まった一瞬の後、部員達が我先にと沸き立った。

「先輩、立ち会いお願いします!」

「待てよ、俺が先だ!」

「慌てるなよ! やりたきゃ先に防具付けてこい!」

 後輩達と志鷹のそんな戯れを静観しているのは、志鷹同様今年が最後の年となる三年生の部員達だった。

「相変わらず、志鷹は人気だよなぁ」

「なんたって県大会の優勝常連だからな、当然だろ」

「三年になれば自分たちもああなれる、なんて思ってんのかもな……」

 

 誰しもが順番決めでざわついている中、静かに防具を着けて志鷹に歩み寄る姿があった。

 それは先ほど志鷹に敗れたばかりの佳月だった。

「まずはお前か」

 こくりと頷く佳月。それを見た志鷹は嬉しそうに笑う。

「よし! じゃあ早速始めるぞ!」

 防具を着けて再び佳月と志鷹は対峙する。

 審判の合図を皮切りに、二人は再び拳を交えた。



「それじゃあ今日から夏休みな訳だが――」

 厚い雲に覆われた空の下、道場から出てすぐの開けた場所に制服に着替えた部員達が半円状に並んでいた。そして、その中心で志鷹が声高らかに話をしている。

「そんなことは関係ない! 空手部は暑い夏をより一層の熱さで乗り越えていくつもりだ! 俺たち三年生最後の全国大会までもう時間もない! 明日からは今まで以上にガンガン稽古していくから、そこんとこよろしく頼むぜ!」

「押忍!」

「他に連絡事項は、無いな? ……無いなら、以上で今日の練習を終了する! これから雨になるらしいから、寄り道せずにさっさと帰れよ!」

「一同、礼!」

「ありがとうございましたっ!」


 挨拶を終えた部員達が、それぞれ口々に練習が厳しかったことや、夏休みの予定についての話をしながら帰っていく中、志鷹は再び道場の中へ戻っていった。

 

 志鷹が向かったのは、道場内にある男子更衣室だった。

 志鷹がドアを開けると、更衣室の真ん中に設置されたベンチに力なく座る佳月の姿があった。

「起きれるようになったか」

 佳月に目線を合わせるように志鷹はしゃがみ込む。目の焦点は合っているが、どこかやつれた様子から、気分が優れないことは一目で分かった。

「……すいません、お手数を掛けてしまって……」

「いつものことだからな。もう慣れた」

 佳月が喋れる位に回復したと分かった志鷹はニヤリと笑い、隣に腰を下ろす。

「むしろ、他の奴らにもそれだけの根性が欲しいくらいだ」

「でも、こうして先輩に迷惑を掛けてしまっていますから、申し訳ないです……」

 それを聞いた志鷹は何か信じられない物でも見たように目を見開いた。

「あの、何か……?」

「いや、まさかお前が迷惑掛けることを気にしてるとは思わなくてな」

「そんなことは……!」

「ははっ、冗談だよ」

 焦る佳月を見て、志鷹は小さく笑う。まるで面白い物を見たようにどこか楽しげだった。

「ただ、倒しても倒しても立ち上がってきて、フラフラなのを止めても振り払って戦おうとして、挙げ句三人がかりで抑え込んでようやく止まる奴が言うことじゃないとは思うぞ?」

「……その、すいません」

「にしても、石椛は本当に強くなったな。今年入ったばっかりってのを忘れそうだ。高校に入るまで本当に武道やって無かったのか?」

「はい」

「体力もかなりあるし、自主トレとかしてるのか?」

「そこまで大したことはしてないです。毎日基本動作の確認をするのと、一時間ほどランニングをしているだけです」

「毎日それか……。そりゃスタミナもつくわけだ。確か、中学は瀧上中だったよな? あの辺りって山の中だろ、登りとか下りとか相当クるんじゃないのか?」

「最初の頃は、まあ。今はもう慣れました」

「……お前って時々、とんでもないことサラッと言うよな」

「まだまだです。まだ僕は、弱い、ですから」

 佳月は無意識に、膝の上に置いた手をギュッと握る。微かではあったが、その手は確かに震えていた。

「なあ、石椛。前から聞きたかったんだが……」

 志鷹は改めて、佳月の目をじっと見つめる。

「どうしてお前は、そこまで強くなりたいんだ?」

「それは……」

 その言葉を聞いた佳月の表情は、普段感情の機微に乏しい彼には珍しく、ハッキリと歪んだ。奥歯を噛み締め、眉根を寄せ、胸の内に抱え込んでいる強い感情が表に出て来ないよう必死で堪えている、そんな表情だった。

「妹が」

 呟くように佳月の口から漏れた言葉は、驚くほど弱々しく掠れていた。

「妹が、いるんです。たった一人の、大切な家族が。僕は家族を守れるくらい、強くなりたい、それだけです」

「……そうか」

 柔らかな表情を浮かべた志鷹は、佳月の肩にポンと手を置く。

「なれるさ、お前なら」

「先輩……」 

「これからいくらでも相手になってやる。そういう熱い奴は大歓迎だ」

「……ありがとうございます」

 そんな時、二人のいる更衣室に閃光が走り、唸り声のような轟音が響き渡る。窓の外を見ると、既に空一面が黒い雲に覆われていた。

「すぐにでも降りそうだな。もう大丈夫か?」

「大丈夫です」

「それじゃ、さっさと帰るか。妹さん、待たせても悪いしな」

「はい!」

 志鷹と佳月は自分の荷物を持つと、すぐに更衣室を後にした。

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