第2話 日常ー2

 二人が家を出たのは、6時20分頃とまだまだ早い時間だった。

 通学には電車を使っているのだが、なにぶん一時間に一本しか来ない上に、片道一時間半ほど揺られる必要がある。唯一幸運なのは、駅が家から歩いて5分もしないところにあることだろうか。もう少し近い距離にも進学校はあったのだが、そこは県内でもトップの学力を必要とするため、学力に合った進学校を探した結果、それだけの距離を通うという条件が付いてしまった次第だ。

 佳月と陽香は同じ学校に通っているため、朝は一緒に登校していた。駅までの下り坂を付かず離れずの距離で歩きながら、佳月は先を行き時折陽香の方を気にしながら、陽香は周りの風景を眺めながら、とくに話したりもせず歩いていた。

 そうしていつもの歩みを進める二人だったが、佳月が不意に足を止めた。視線の先には、長い石段があった。

 石段は鬱蒼とした杉林の中へと続いていた。厳かな雰囲気を感じさせる程に巨大な林は、すっかり太陽が昇った夏の朝方にも関わらず暗く、外から見通すことが出来ない。登り口の傍らに『この先、空戸うつのへ神社』と書かれた看板が備え付けられていなければ、その先に神社があるとは分からないだろう。鳥居の姿さえ見えないのだから。

 そんな石段の先をじっと見つめる佳月の目は険しく、まるで森の奥のを見つめているようだった。

「兄ちゃん? どうかしたの……」

 佳月の雰囲気が変わり、戸惑いながら陽香も階段の先を見ると、二人の見ていた階段の先から人影が現れた。

 下りて来て二人に近づくにつれその姿がハッキリ見えてくる。流れる水の様に艶やかな黒の長髪がとても印象的な少女だった。少女は佳月たちの姿に気付くとニコリと笑い、下りる足を早めた。

「おはよう、陽香!」

「あずさ! おはよう!」

「佳月さんも、おはようございます」

「……おはよう」

 朗らかに挨拶した少女は、陽香と同じデザインの制服を着ていた。

 彼女は進藤あずさと言い、陽香と同じ学年、学級の生徒だった。ひざ下までキチンと下ろされたスカートと皺なく整えられた夏服のワイシャツから几帳面さが見て取れる。佳月程ではないが背丈もそれなりにあり、丸く大きい目やスッと通った鼻など、顔立ちは端整そのもので、控えめに評しても美少女と言って差し支えなかった。

「こんな所で会うなんて珍しいわね。いつもは駅で会うのに?」

「兄ちゃん、あずさが来るのを待ってたの?」

「いや、そういうわけじゃ……」

 予想外のことが起こったようで佳月は、いくらか面食らっている様子だった。

「もう行かないと電車来るんじゃない?」

「あっ、本当だ」

 あずさに促され陽香がスマートフォンで時間を確認する。言われた通り電車の時間が迫っていた。

「そうだ。佳月さん」

 そう言うとあずさは佳月の方を向き、ニコリと笑う。

「お誕生日、おめでとうございます」

「えっと、うん。ありがとう」

 出し抜けに誕生日を祝われて、少し気恥ずかしくなった佳月はポリポリと頬をかいた。

 陽香とあずさの二人が楽しげに話をしながら歩き出していた後ろで、佳月は未だ階段の方を気にしていた。林の奥の、闇の中を。

「兄ちゃん? どうかしたの?」

「……ううん。今行く」

 先行く陽香の声に優しく答え、ようやく佳月は視線を外し歩き出した。


 佳月たちが通学に使う地方鉄道・虹居にじこ駅は、ずっと昔に作られた古い小さな木造の駅だった。昔は使う人もいたのだろうが、すっかり車社会へと様変わりした現代では、寂れた無人駅と化していた。申し訳程度に存在する小さな待合室も、他に使う人もいないこの時間帯はいつも、佳月たちの貸し切り状態となっていた。

 電車が来るまでの少しの時間、その過ごし方は様々だった。佳月は鞄から英単語カードを取り出して勉強しており、その隣では陽香とあずさが楽しそうに話をしていた。

「そういえば、水着買った?」

「あ、ううん。実は、まだ……」

「じゃあ今度一緒に見に行く?」

「えっと、あずさも色々と忙しいでしょ? 家のお手伝いとか……」

「それは……、まあぼちぼちかな? でもいつも忙しいわけじゃないし、都合なら陽香に合わせるよ?」

「で、でも……」

「今までずーっと勉強漬けだったしさ。遠慮なんていいから。ね?」

 戸惑う陽香に向けてあずさは悪戯っぽく笑った。気の置けない様子の二人に、単語カードから視線を外して見ていた佳月の表情も無意識に緩んでいた。

「そういえば、孝太、大丈夫かな……? もうそろそろ電車、来るけど……」

「……さあ。もうダメなんじゃない?」

 ふっと湧き出した陽香の問いかけに、あずさ口から今までと打って変わって冷ややかな声が漏れた、その直後だった。

 

「うおおおおおおっし、間に合ったぁ!」

 穏やかな時間をぶち壊す大声が、駅の引き戸を壊してしまいそうな勢いで開いた者から発せられた。声のした方へと、佳月は眉根に皺を寄せながら単語カードを持ったまま視線だけを向けた。そこには焦げ茶色のボサボサな短髪をした少年が大げさに肩で息をしながら開けた扉に寄りかかり、うなだれるようにして立っていた。

「あー、ダメかと思ったぁ……!」

「孝太っ、うるさいっ!」

 早速あずさが駆け込んできた少年――稲原孝太に食って掛かった。楽しいひと時を台無しにされたせいか、言葉に怒気がこもっている。あずさよりも小柄な孝太は、上から覆いかぶさるように迫られて、見た目以上に縮んでいるように見えた。

「へへっ、わりー、わりー……。もう、ギリギリで、テンションぶち上がっちゃって。いやホントもうさぁ」

 余程急いでいたのだろう、制服である白い半袖ワイシャツもだらしなくズボンからはみ出し放題になっていた。しかしそんなことお構いなしで、孝太はタレ気味の目も口元も緩みきったまま、ヘラヘラと気の抜けた笑みを浮かべていた。

「どうしていっつもそうなの!? 終業式くらいしっかりしてよ! わざわざ電話しても出なかったし!」

「それ。マジ鬼電でビビったわ、全然気付かなかったけど」

「このっ……!」

「っと、わりわりぃ! いやもうホントこの通り!」

 そう言って孝太は頭を下げ、下げた頭の上で合掌を作り、平謝りをした。

 ――グーッ。

 腹の辺りからそんな間の抜けた音が鳴ったのはそれとほぼ同時だった。

「……朝ご飯は?」

 圧をかけるような低い声で簡潔に投げられたあずさからの問いに、にやけ顔を起こして頭を掻きながら孝太は恐る恐る答えた。

「いやぁ……そりゃあ無理でしょ。見ての通りだし」

 それを聞いたあずさは、眉間を押さえて大きくため息を吐いた。

「本当に、もう……!」

 あずさは自分の鞄から小さな花柄の可愛らしい布で包まれたものを出すと孝太に向かってぶっきらぼうに突き出した。手製の弁当だった。

「おぉ、いつもいつもかたじけないねぇ……!」

 金銀財宝を目の前にした時のように微かに手を震わせながら、壊れ物を細心の注意を払って触るように孝太はそれを受け取った。

「駅前のスイーツおごれよ」

 ぶっきらぼうなあずさの要求に、孝太は満面の笑みを浮かべておちゃらけた敬礼を返した。

「喜んで!」

「いい加減懲りろ!」

「今日も元気だね、孝太」

「おう、おはよう陽香ちゃん! 今朝もかわいいねぇ! どっかの大真面目君とは大違いだな!」

「……僕のこと?」

 今まで静観していた佳月が、孝太に視線を向ける。

「ついこないだ期末やったばっかで、よく勉強する気なんて起きるよなぁ?」

 ドカッと佳月の隣に無遠慮に座る孝太。それに対して佳月が迷惑そうに眉を潜めたが、そんなことは全然気にしていないようだった。

「期末はもう『ついこないだ』じゃないよ。それに僕はやるべきことをやってるだけだから」

「孝太は夏休み終わっても、なんにもやらないからねー!」

 話を聞いていたあずさが、離れた所からイヤミったらしく話しかけてきた。

「思い込みで物言うのは感心しないんですけどぉー?」

「じゃあ去年の夏休みの終わりに、陽香の家で勉強してた私が聞いた誰かさんに似た情けなぁい声は、いったいなんだったんでしょうねぇ?」

「げっ、お前いたのかよ!」

「やっぱり!」

「も、もう、あずさも孝太もその辺りにしておこう、ね?」

 たまらず間に挟まれていた陽香が二人の間に割って入る。

 何気なくそう言った陽香を見るなり、あずさの顔から先程までの無邪気な様子は消え、どこか神妙な、真剣に孝太を咎める表情が浮かんでいた。

「陽香だって、すごく頑張ってるんだから、だらしないと格好つかないわよ。……あんただってきっと、やれば出来るんだから」

「……そうかよ」

 勢いが削がれてしまった孝太はバツが悪そうにため息を吐き、あずさは乱れた居住まいを正すように座りなおした。気付けば待合室には重い空気が漂っていた。

 

「……で、電車……!」

 静まりかえった気まずい空気を破ったのは、陽香だった。

「みんな! 電車! 来たよ!」

 バネ仕掛けのようにピョンと勢いよく立ち上がり振り返ると、座る三人に向かってそう叫んだ。

 そのすぐ後で近くで踏切の音が鳴り始めた。

「っとそうだ、ギリギリなの忘れてた!?」

「もう、あんたがそんないいかげんだから!」

「それ今関係ある!?」

「ほ、ほら! 早く行こう! 兄ちゃん!」

「うん」

 陽香の声を合図に、佳月は英単語カード速やかに鞄にしまうと、素早く立ち上がり先に行った二人を追う陽香についていった。


 小さく狭いホームに、総車両数わずか二両という古くこじんまりとした電車が静かに停まる。運転手以外にはまだ誰一人として乗っている人はいなかった。

 発券機から吐き出される整理券を取りながら最初に佳月が乗り、続いて陽香が乗り込もうとする。

「……あっ!?」

 乗車口に足を引っかけた陽香はつんのめってしまう。虹居駅のホームは乗車口よりも低く、時折こうしたことが起きてしまうのだ。

「わっ!」

 先に乗っていた佳月は即座に陽香に近づき身体を支え、なんとか彼女の転倒を防ぐ。

「大丈夫陽香っ!? 怪我してない!? い、今すぐ消毒してあげるからね!?」

 後ろにいたあずさも慌てた様子で、すぐさま鞄の中を漁り始める。

「だ、大丈夫、だよ!? ケガとか、してないから!」

「本当に!?」 

 本当に陽香にけががないことを確認したあずさは、ホッと胸をなでおろす。

「ふぅ、よかった……」

「気をつけてね」

「ご、ごめん、なさい…… 兄ちゃん、あずさ……」

「陽香が無事ならそれで良いよ」

「そうよ、気にしないで」

「……うん」

 佳月とあずさは陽香に微笑み、今度は転ばないようにと佳月が陽香の手を優しく引く。

「お前ら」

 最後尾でそれを見ていた孝太は若干呆れた顔でそれを見ていた。

「ちょっとコケたくらいでオーバーすぎだろ」

「そんなこと無い」

「あんたが薄情者なのよ」

 二人から白い目で見られて孝太は肩を竦める。

「はいはい、私は薄情者でーす……」

 愚痴りながら最後尾の孝太が電車に乗り込むと、差し込んだ朝日に照らされる中、電車は緩やかに発車した。

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