第1話 日常ー1
甲高く騒々しい、耳障りな音が鳴り響いた。
枕元の黒い目覚まし時計から発せられた騒音は、少しの間部屋を響き渡り、ゆるゆると弱々しく伸ばされた手で止められた。
そのままアナログの文字盤を見てみると、針は四時丁度を指しており、気が早い夏の朝日が既にカーテンの隙間から差し始めていた。
「……」
少年――
照らされた部屋は綺麗に片付けられている、というよりも、そもそも物が無かった。
六畳ほどの広さに、シングルベッドとベッド脇に備えられた勉強机と安物のオフィスチェア、さらにその隣には問題集の詰まった、170センチ程ある佳月の背とさして変わらない大きさの本棚が一つ置かれていた。それ以外にはクローゼットの前に全身を映せるスタンドミラーがあるばかりで、あとは通学鞄などがこまごまとありはするが、これでおおよそ全てであった。
壁紙は清潔感のある白一色、カーテンは柄の無い黒いものと簡素極まりなく、ポスターなどの目を引くものはなにも無かった。
佳月は大きく伸びをすると、おもむろに身体を動かし始めた。屈伸から軽い柔軟へ、凝り固まっていた全身をくまなく動かしていく。
準備体操を終えた佳月はひとつ深呼吸をして息を整えると、スタンドミラーの前に立って姿勢を正した。寝癖がついて乱れた黒の短髪に、同じ様に深い黒色の瞳をした姿がそこにあった。まだ眠気が抜けきらないのか、眉間に出来た深いシワと冷たい印象を与える切れ長の細い目が一層細く鋭く砥がれて、寄らば斬ると言わんばかりの殺伐とした面構えを作り出していた。
そんな鏡に映る自分の表情を見た佳月は、軽く力を込めて両頬をパンパンと叩くとそのまま当てた手をグニグニと動かし、最後にギュッと鼻を挟み込むように頬の肉を押し込んで離した。これは相当に効果があったようで、残っていた眠気はすっかり追い出され、強張っていた表情筋も緩まった結果、目が気持ち大きく開いて『目つきの鋭い少年』の範疇に収まる程度に表情が改善されていた。
今度こそ準備を終え、再び鏡の前に正対すると佳月は軽く一礼をし、空手の構えを取る。鏡に映る自身の一挙一動を睨むように見つめ佳月は集中すると、部屋は冷えるような独特の張り詰めた静寂に包まれた。
「……ふッ!」
引き絞られた構えから鋭く振り抜かれた右拳が勢いよく風を切った。
そして振り抜かれた拳を再び腰だめに戻して、構え直し呼吸を整える。
一連の動作を終えた佳月は、再び気を付けの姿勢を取り、鏡に向けて一礼をした。
「……よし」
朝のルーティーンを終え、今度こそ完全に目が覚めた佳月はクローゼットから灰色の半袖シャツとスポーツ用の黒のハーフパンツを取り出し着替えると、日課のランニングを行うべく軽快な足取りで階下へと降りていった。
早朝の静けさの中シューズを履き、靴紐を結ぶ。本来の色だった白は使い込まれた汚れで黒ずみ、所々がくたびれていた。
玄関を出た佳月を、明るくなりかかった空とまだ熱を帯びる前の涼風が出迎えた。家のすぐ前には車線が引かれる程に広い道路があり、長い年月を経た古い家屋の数々がその脇に立ち並んでいた。見つめる道の先は鬱蒼と木々が生い茂る緑豊かな山中へと飲み込まれており、どこまで続いているのか見て取れない。
街から遠く離れ、雄大な連峰を抱える
(僕は、あれから)
軽くジャンプやステップをし足元の感触を確かめながら、物思いにふける。
(守れるくらい、強くなれただろうか)
佳月は足を止め、視線を落とすと、両の手の平を見つめた。しかしすぐにギュッと握りこぶしを作ると視線を上げ、慣れ親しんだ道へと走り出していった。
「おかえりなさい、兄ちゃん」
ランニングを終え、息を弾ませながら帰って来た佳月を玄関で出迎えたのは妹の
背丈は小柄で、土間にいる佳月よりもまだ目線が低くなるほどだった。さらりとした癖の無い明るく鮮やかな茶髪は短く整えられており、釣り目がちな大きな目は、佳月と同じ深い黒の瞳を宿しており、穏やかな表情のおかげでクールさと親しみやすさを両立させていた。
そんな彼女は現在、紺色の学校指定のジャージの上に、デフォルメされたかわいい魚のプリントが入った青いエプロンを着ていた。今まさに朝食を作っている最中だったようだ。
「ただいま、陽香」
「これ、どうぞ。いつもお疲れ様」
柔和な笑顔を浮かべた陽香にスポーツタオルを手渡され、釣られて佳月も思わず表情を緩める。
「ありがとう」
「朝ご飯、もう少しだからちょっと待っててね。あとシャワー、お湯出るようにしてあるから」
「分かった」
「あと……、兄ちゃん」
少し含んで改まったように見つめる陽香の様子に気付き、佳月は拭っていたタオルから顔を上げる。
「なに?」
「……お誕生日、おめでとう」
はにかんだ控えめな笑みでそう告げると、陽香はすぐさま踵を返しキッチンへ戻っていった。
「……そういえば、そうだったっけ」
突然の言葉に驚きながらも、呟いた佳月の顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。
汗を流して白の半袖に先程とは異なる黒のショートパンツという部屋着に着替えた佳月が居間に入ると、朝食を作り終えた陽香が既に食卓に着いて待っていた。
白いご飯に豆腐の味噌汁、焼き鯖、卵焼きにほうれん草のおひたしなどと少々の漬け物がテーブルに並ぶ。この家では定番の和朝食だ。鼻をくすぐる良い香りがする。
「お待たせ。それじゃ、食べようか」
「うん」
陽香と向き合う形で席に座り、佳月と陽香は合掌し、目を閉じる。
「いただきます」
二人の声が静かな朝の食卓に響き渡った。
「そういえば陽香は、夏休みの予定はあるの?」
箸を止めて、佳月は壁に掛けられたカレンダーを見ながら質問を投げかける。
7月20日――今日の日付には赤マジックで丸が付けられており、同じように小さく『終業式』と書かれていた。
「あずさから海に行こうって誘われてるけど、それくらい。まだいつ行くかも決まってない」
「そっか」
「兄ちゃんはどうするの?」
「……僕も、特に無いかな。部活と、勉強だけ。いつも通り」
「そうなんだ」
「ただ、お盆に叔母さんが来るって言ってたから、そこは空けておいてね」
「うん」
再び静寂が流れ、器に箸が当たる微かな音が食卓に響く。
「その」
食事を運ぶ手を止め、佳月は粛々と口を開く。
「どこかに出かけるなら、その時はちゃんと僕に言ってから出かけてね」
何気ない言葉ではあったが、どこか『重み』を含んだ言葉に陽香は箸を止める。
「……うん。分かってる」
穏やかな声だった。
「どこかに出かける時は、必ず兄ちゃんに言ってから出かける。忘れてないよ」
「……うん」
ふと佳月が時計を見ると、時刻は六時になろうとしていた。
「っと、時間だ。急ごう」
「うん」
そう言うと二人は朝食の残りを急いで食べ出した。重い空気は、もうどこにも無かった。
「あとは僕がやっておくから、陽香は着替えておいで」
「じゃあ、よろしくね」
食器を流しに持って行き、陽香は二階の自室へと向かう。それを見送って、佳月は二人分の食器を洗い始める。そうしている間の佳月の表情は、どこか暗い影を纏っているように微かに歪んでいた。
そんな中、程なくして上から軽い足音が降りてくる。
「お待たせ」
先程までの表情をしまい込み、佳月は慣れない笑みを貼り付ける。
「こっちも終わったよ」
「それなら、兄ちゃんの準備が終わるまで少し掃除でもしてようかな」
陽香は人懐っこい明るい笑顔を向ける。その明るさは佳月の胸を暖める穏やかな優しさを感じさせた。この笑顔を守れるように、
「……強くなろう」
「? 兄ちゃん? なにか言った?」
「なにも。すぐ用意済ませてくる」
笑顔で陽香にそう告げると、佳月は支度を済ませるべく自分の部屋に戻っていった。
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