第86話 昭和50年代前半の地方の小学校中学年の記憶。
さて中学年、小学校三~四年生です。
ここでは中学年と言ってますが、実のとここの二つの間には大きな違いがありました。
部活動です!
授業としてのクラブ活動もですが、この放課後を縛ることになる「早くおうちに帰りたい」ワタシにとっては鬱陶しい時間が四年生から始まりました。
無論他の小学校では部活が強制ではなかったところも多いと思います…… が……
ウチではたぶん強制でした。
一応形としては男子の「サッカー少年団」。部活なのか? と言われると疑問なんですが、参加していなかったんじゃないか? と思われるのはマンガとか上手かった男子くらいですかねえ。一人か二人。あとはもう皆楽しそうにやってました。と思います。たぶん。
女子は「ミニバスケット部」と「合唱部」でした。のでまあ、運動したくないワタシとしては、後者ですよ。
でもまあ三年のことを先に言うと。
この時期は微妙なんですよね。
二年までは給食を上級生が配膳に来てくれました。それが自分達でやることになる時期です。
まあ少し一人前感が出てくる訳ですね。
ちなみに。ワタシが二年の時に兄が五年で。……からかわれたものです。はい。どっちがどっちに、ということもなく。きょうだい仲はこの辺りから今一つになって、彼が上京してからはさっぱり。まともに良い関係になったのは母親が亡くなってからですから、まあ根深い。
自意識過剰な個の集団の様な家族でしたから、向こうは向こうで可愛くない妹でからかわれて面倒だったでしょうし、こっちはこっちでそういう視線が嫌だったし、で。
あと、少しちゃんとした「べんきょう」になって来た時代ですね。算数と漢字のドリルには競争して取り組んだ方です。
算数と言えば!
直接学校とは関係は無いですが、そろばん塾。
これがまた皆行ったんですよ! こればかりは兄もまだ通っていた頃だったのでそろばんは新しいものを買ってもらえました。バッグまで無理でしたが。
まだ部活が始まっていなかったからでしょうな。
その近くに「少し遠目の」共同浴場と駄菓子屋がありました。ちなみに駄菓子屋はまだあります。
通うのは徒歩でした。今だったら絶対やらせないですよね。
だけどそろばん塾の周辺に、皆の自転車すべてを置ける訳ではなかったのです。だから皆徒歩。さすがに級が進むと時間も遅くなって、途中までは友達と一緒に、それも無くなる辺りに母親が自転車で迎えに来る、という感じでした。
まあ実際うちの町には学校に行くのに徒歩で二キロ以上かかるような子も居た訳で、それらに比べれば学校は歩いて三分、なワタシがどうこう言えた訳ではないんですがね。ただ町内の真ん中に行くにはやや遠かったです。
そろばんは五年になるかそこらでやめたのかな。三級までは取れました。おかげで未だに二桁までは指で弾いて暗算できます。しかしミスが多いので、一つの級を取るのに大概二回かかってましたねえ…… これはその後の英検とか普通自動車免許でもそうなんですが、一発オッケー! なんてのはワープロ検定二級くらいなものですよ。気合いが足りなかった感あります。
全珠連系と商工会議所系の試験があって、五級だけ後者でした。のでそろばんに貼っていてたシールがそれだけ妙にでかかったのを記憶してます。
さて学校の三年生時代は、というと…… あまり記憶が無く。
ただこの頃は男子に虫嫌い辺りをネタに泣かされていたと思います。恐怖症の一つですが、まあ虫、特にもぞもぞ系が駄目で。今とは比べものになりません。図鑑開くこともできませんでしたが。
ところがそういうこっちに男子は見せてくるんですよねー。
あと何かしら判らないけど三年生の時は泣かされてました。……がこの時「泣けば終わる」という意識が働いていたのは確かです。で、これが四年になると逆襲に入ります。反撃するんですね(笑)。口じゃないですよ、手の方が出ます(笑)。まあよくこの時代にゃあることです。
ところでこの三年だか四年だかちょっと胡乱なんですが、これは無いだろ、というのが「肥満児教室」。
確かに太ってましたがね……
マラソン大会もこの三年からは一応競争になりました。二キロコースですが…… 無論ラスト一、二を争うくらいでした。
大会でなくとも「浜名湖一周マラソン」みたいなカードを作って、1.2年は200メートルトラック一周で一ます、一日10ますが目標、5.6年は運動場の一番広いライン、そんで3.4年はその中間を走るというのが秋から冬にかけてありました。これもまた()
いやいいんですよ別に。競わなければ。走るの自体が嫌いでないことは大学の時に知りましたから。ただ皆と同じペースを走るのに重量もそうなんですが呼吸がついていかないんですよ。これがまたさっぱり判ってもらえなくて。
……で、肥満児教室なんですが。
ある程度以上肥満ですよね、という子供が体育館に! 貴重な昼休み! 集められて、縄跳びとか色々やらされる訳ですよ…… 先生達にも何かしら思うとこあったにせよ、これはあまりに唐突かつ、「肥満児」というこういう田舎の皆やたら活発なあたりでは少ない部類の我々がまー冷やかされるネタを提供してくれたものです。
これは不評だったのか効果が無かったのか判らないですが、短期間で終わりましたが、ワタシが未だに根深く覚えている辺り、嫌な記憶です。
でやっと部活とクラブの話になるのですが。
四年からの部活というのは三年間ずっとやるもので、全員参加、という認識がありました。
この他に五年からの「学校が必要とするからある程度の人数参加だけど最初は全員」という水泳部と陸上部というのもありましたが、それはまた高学年のとこで。
ワタシは合唱部でした。
で、当初はソプラノだったんですね。まだ音域狭い子供達で、裏と表の声の出し方も判らないままに「それは違う」という感じでしたので…… まあ何というか。
ちなみにこの部活、一応合唱コンクールには出てました。四年の時が「すすきの穂」、五年は忘れました。六年で「みちおしえの歌」だったかな。そういう課題曲を大会まではずっと練習してました。けど一曲って飽きますよねー。
ちなみにこの大会と秋の祭りの四年女子の練り踊りが日が重なっておりまして。まあてんてこ舞いでした。……この練り踊りに関しては、ワタシが化粧と口紅が生理的に気持ち悪くなった原因です。ついでに言うと、着物を仮装以外で着た最後ですね。浴衣ではあるんですが、きちんと着せてくれた、という意味で。仮装は高学年の運動会の話なんで別。
あと並行して青い冊子の「ジュニアコーラス」と、静岡県の「ふるさとのうた」の曲がよく歌われました。
おかげで「だるま山」「みかん切り」「ちゃっきり節」「小夜の中山」「浜名湖」の静岡県内を歌ったものは今でも歌えます。
あとこれは有線放送でさんざん流していたせいもあるんですが、歌詞が載ってたので静岡県歌も覚えました。♪あーっけゆく朝の大空に~かーがやき映えて立つ富士の~雄々しき姿あーおぎ見る~うーつくしい国光るくに~あーあー我ら我らの我らの静岡県~ですよ。
「ジュニアコーラス」はまあNHKのみんなのうたに出てきそうなものですね。「サモア島の歌」を当時テレビ静岡でやっていた「いちばん星見つけた」で歌った記憶が。静岡市まで行くの! とわくわく。
あと「うるわしの椰子の島」とかまあ色々歌ったものです。元々歌うのは好きですので。
ちなみにソブラノだったのはこの年だけで、翌年からはアルトになりました。
クラブは…… 週1だったし…… 記憶にないですね。ただ勉強ではないといううことで楽しみではありました。
四年くらいになると、さすがに図書館で「少年少女世界名作全集」をまあ見つかりづらいところに見つけて! 誰も借りることない分厚さだったので、何度も何度も借りました。
ところで当時は「代本板」というものがありました。借りたところに自分の板を置いておくんですね。
……まあ本好きによくあることですが、一冊じゃ足りねえ! って時にはよくその辺り無視して持ってったものです…… 手続き踏まずに……
三年の頃をそろばん以外であまり覚えていないのは、たぶん気楽にやっていられたか、もの凄く嫌なことが無かったからだと思います。
嫌なことというのは記憶に残りやすく、そこからたぐって関連する良かった方の記憶も出てくるんですが、三年という時期は本当に記憶が少ないんですね。
時期的には77年とか78年とかその辺りですから、まあピンク・レディーの話とかドリフの話とかそういうことで遊びまくったり、誕生会を開くのもだんだん無くなっていったり~とかで、格別記憶に残ることが無かったんだと思います。
四年になると、やっぱり部活という時間を圧迫するものが出てきたことで、嫌な記憶としてそれが鮮明になってくるんですね。その中でまあまあ面白かったことがついてくる、という感じで。
そして勉強の記憶はドリルとそれをやった時のシールくらいしか記憶にございません(笑)。字が汚い! ということ以外と、夏休みの自由研究に困ったこと以外はそっちでは苦労は無かったので。
そう。自慢ではないですが、本好きならまあ小学校の勉強は何も考えずに出来ます。だからまず国語をやれ! なんですよね……
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