第84話 昭和50年代前半の地方の小学校低学年の記憶。

 昨日の続き。

 さて同じ町内の小学校に入学しました。この時はちゃんと赤いランドセル新調してもらいましたよ! 当然の様に男子黒、女子赤。

 あと市から黄色いバッグが送られましたね。手提げ、と呼んでましたが。


 一年生の時期と言えばまあ給食ですよ!

 これも最初は配布のクロスがあったんです。ただ布ではなく、厚手ビニル? の栄養価が印刷されていたものだったような。これたたむとすぐに臭くなったんで、すぐに誰も使わなくなりました。一体あれは何だったんだろう。

 配膳台がまだ低学年の時期は、両側が開くテーブル+真ん中穴あき、という配膳台がありました。そこに一年は六年、二年は五年が配膳に来てくれます。まー一年のガキにさせるのは無謀ですよね。

 真ん中の穴のところがメインのものでした。食器はクリーム…… というよりマヨネーズ色ですね。斜めに大小全部で四つのくぼみのあるものです。そんで先割れスプーン。まー今考えるとよくこれで全部食べたと思いますよ……

 まだ米飯給食とか無かった時代です。小ぶりなパンが低学年は二枚。中学年が二枚半、高学年が三枚でした。これはなかなか小食な子には辛かったと思います。ワタシも家では朝パンだったんですが、生パンに何も無しというのはなかなか。まあでも朝パンで、昼もパンな時代が長く、なおかつ家では白い飯が今一つの味だったせいか、ワタシは基本的に今でも主食はパン派です。ごはんは時々食べたくなったらー、ですね。

 さてそこで人気があったのは、――まあこの人気の記憶は小学校全般になるんですが。

・五目焼きそば

・カレー「シチュー」

・ポークビーンズ

・ソフトめん/ミートソース

・プリン

・フライビーンズ

・肝油

……かな?

 カレー「シチュー」とわざわざつけているのは、カレー「スープ」というものもあったからです。こっちはキャベツとか入ってました。

 五目焼きそばは何故か皆好きでしたね。今考えるとかなりべちゃべちゃなものなんですが。

 肝油(笑)は、要するに甘いからです(笑)。栄養食品という意味は全く皆考えてなかったです。これだけは給食室ではなく、保健室に取りに行きました。

 ワタシは当時サラダ系が本当に嫌いだったんですが、これはこれでよく出ました。

 特に

・フレンチサラダ

・マセドアンサラダ

 に関しては本当に嫌いだったようです。

・ポテトサラダ

・スパゲティサラダ

 はまあ食べられたこと考えると、どーもドレッシング系が嫌いだったようですね。今と違ってサウザンとかごまとか色々ある訳でもないですから。味はフレンチとマヨネーズの二択だったような。

 ワタシは生野菜は嫌いで、特に生トマトに関しては、当初は食べられずにずっと昼休み残って、ついには掃除の時間、給食室に残されたこともあります。それでも嫌いは嫌いで吐きそうな位でした。当時のトマトは青臭かったし、なおかつそれのきちんと熟れていないものの四つ切りでしたから。

 仕方が無いのでもう「白湯」用に皆持ってくるコップがあるのですが、途中から隠して家に持っていくという方法に切り替えました。他のものは何とかなりましたが、あれだけは無理でした。今でも料理に入っていた場合、そのままでは食べないですね。細かく切り刻みます。煮込みは好きです。それに今のトマトは昔よりずっと美味しいですから。

 「白湯」。

 そう、飲み物なのですが、低学年~中学年くらいまでは温かい「ミルク」がミルクポット二缶に入ってきました。ワタシは好きでしたし、まあスキムミルクよりは乳脂肪分が多いやつだったんではないでしょうか。脱脂してない粉乳というか。ほのかに甘かったし。

 それをアルミの椀に注ぐんですが、まあこれは小さい時には無理ですね。そういうことも含めて高学年が給仕に来たのでしょう。

 これがまた嫌いな子は全く駄目でしたね。ワタシはよくお代わりしてました。

 それにプラスして「白湯」がでかいやかんに入れられてきました。ちなみに先生にはアルミだかアルマイトだかの小さな急須で「茶」でした。

 このために皆コップを持ってきていた訳です。ランドセルに巾着をつけてその中に入れてました。あと給食時のふきんも。

 ちなみに前述のクロスが使えなくなった後は、皆机は拭く…… 拭いた……よな……? ともかくそのまま置きました…… と思います。何か記憶の映像の中に敷いているものと無いものがあるんですよね。敷いたのは中学だったかもしれません。

 ともかく低学年は食べられるか食べられないかの戦いという部分は多かったですね……


 掃除は昼休みの後。一年から六年の縦割り班です。トイレは用務員のおばさんがやってくれるものだったので、それ以外の場所ですね。

 一番汚いのは何と言っても自分達の教室です(笑)。それと廊下。

 校舎は四階建てのただの四角い鉄筋コンクリートだったので、迷うことはまず無かったです。二階が図書室や会議室、職員室や校長室で、ここは綺麗でした。四階は高学年と色んな資料とか教材室だったので、ここも綺麗でした。三階がまあ、二年から四年という、実にがやがやした年代が集まっていたので、汚いこと!


 ところでワタシ、一年の六月にちょっと高いところから落ちまして左腕をもろ骨折してしまったのですよ。それで骨がくっつくまでと、成長期に固定したせいのリハビリの間、この縦割り班から外れてました。

 というのも、やっぱり周囲の空気が読めない性質のせいか、格別何もできないのに、あと何分とか言ってた記憶があるんですよね。で、先生が怒って廊下の端の鏡拭きを命じたという。ワタシは結構それは楽しんでやってたと思います。やれることが無いってのは結構やっかいなんですが。

 ちなみに鏡拭きは今でも仕事の中では好きな部類です(笑)。そんで夏休みが明けた頃にやっとまあ何とか体育もできる様になったのかな。プールは入っていたような気もするんですが。当時の時間感覚ではずいぶん長い間だったんですが、今考えるとそうでも無いような。


 勉強は…… 字は汚かったんですが、もう読むのは「何この簡単なの」状態だったので、……というか、小学校は全般的に何もしなくても簡単だったので、勉強は楽でした。

 ……体育以外は。

 とは言え、一応この一年から既に皆泳げはした訳ですから、その辺りが田舎の少人数のいいところでしたね。

 夏休みにはプールを解放して、七月のうちは低学年高学年で分けて午前午後で入りました。夏の日の朝はラジオ体操→ちょっと宿題→プール! がルーティンでした。

 ただまあ体育はですねえ……

 まあ当時ですから遊具というか色んな設置された道具自体が今だったら使わない怖いものも多いのですよ(笑)。

 それ以上にワタシはもう高所恐怖症…… というか先読みしすぎて怖くなる類の人間なんですね。なので鉄棒が! 本当にそう簡単にはできませんでした。特に地面に埋められているものではなく、三角の形の置かれているだけのもの。本体自体がぐらつくのに何で皆平気なんだああああああ! でしたよ。

 勉強が全く! 出来ない子もこういうところでは本当に生き生きしてくるくる回ってましたねー。考えてみれば、先読みしないからできるものだったのかもしれません。その意味ではうらやましいと今では言えます。


 恐怖症系はこの頃多かったです。

 高所、のせいでできなかったのがまずジャングルジム。一番上まで上ったことが無いです。

 昇り棒。怖い半分、腕の力と体重との関係が……

 滑り棒。滑り台ではないです。太い鉄の棒二本だけのやつを滑るんです。しかも低いものだけでも怖いのに、高いものは「落ちたらやべえ」高さでした。のですが皆さんするするやってる。「落ちたらどうしよう」となると、もう駄目ですね。足が全く動かない。

 ただ今は無いところを見ると、やっぱり危険だと判断されたのでしょう。昔はそれを「上っていく」強者も普通に居ましたが。

 雲梯。これはぶら下がるのが普通なんですが、……上ってくやつもいるんですよ!

 太鼓橋。手足を使って上っていくんですが、一番上で体勢を変えるのが超怖い! 

一応できるようにはなりましたが、……さすがに、そのまま階段の様に昇って降りて、というのは無理でした。

 予測系恐怖症では、何と言っても跳び箱と鉄棒ですね。

 跳び箱は絶対踏み台がぴったりくっついていないと怖くて怖くて。踏み台がずれたらどうしよう、とか、跳び箱がずれて崩れて頭から落ちたらどうしよう、と思ったら足がすくみます。

 鉄棒は―― 前回りと逆上がり、足かけ逆上がりはまあ、勢いの関係で何とかできましたが、「足かけ前回り」は無理でしたね。緊張で手汗がもの凄く出るのも原因の一つでした。ただでさえ落ちたらどうしよう状態に滑りやすくなってるんですから。

 体育はまあ、でもまだこの時期はましでした。比較されるにしてもまだ甘い時期でしたから……


 ただ放課後の遊びでは、「置いていかれる」方でした。足が遅いのでついていけないんですね。あと、うちは町内では端の方でしたので、遊びに行くにはあちこち遠すぎました。

 「お誕生日会」に二人しか呼べなかった記憶が。行ったことはあるんですがね。


 図書室…… はまだこの時点では読めるものが少なかったですね。

 というか、面白いものが無かった。

 どどっと活用し出すのは中学年くらいですか。いや二年くらいから「まんが日本の歴史」は借りてたのかな? 既に一年から「なかよし」と「少年チャンピオン」がウチには毎度あったし、骨折して医者通いの時に読んだ水野英子の「ブロードウェイの星」を買ってもらったのもこの頃だし、母親がアートフラワーの講習にデパートに行っていた時には、その間ずっと本屋のコミックコーナーで「男どアホう甲子園を」立ち読みしていた記憶が。それと三つ違いの兄貴が盲腸で入院した時、廊下にあった「愛と誠」を読みふけった記憶が。

 対して図書館の低学年中学年向けの児童文学は…… 何というか、面白くなかったんですよ…… 現代ものの児童文学は共感できないものが多すぎましたから……


 教室は24人~26人というところでした。これが2クラス。

 一つ上が「ひのえうま」ということで、1クラスで30数人でした。

 なので教室の後ろ半分は実に楽々遊び場になりましたね。中学に入って39人クラスになった時には窒息感圧迫感ひどかったです。


 まあ一応幸せな時代だったんだと思います。一応。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る