23
次の日は学校に幽子を連れて行った。幽子は昨日からおかしかった。ポジティブな幽子は消えてしまって、人が変わったように暗くて言葉少なになってしまった。だから半ば強引に学校に連れてきた。抵抗したけど、放っておくことはできなかった。
説得できたのは幽子のことを本気で心配していたからだった。それに祖母の言葉がある意味役立った。祖母は学校に手がかりがあると言っていた。でもその学校は陸斗の学校じゃない。なぜなら幽子の正体は羽坂希良――三年前の他校の生徒の幽霊だったから。その手がかりがこの学校にないのは明白だった。だからこそ、一番安全なこの学校に連れてきて、幽子の希望通り真相から遠ざかるように図ったのだ。近くにいれば安心できる。
なのに幽子はずっとそわそわしていた。休み時間になると教室は騒がしくなる。すると幽子は自分を庇うように耳をふさぐ。以前、騒がしいのが好きと言っていたけれど今は真逆だった。どう見ても騒がしさを忌避していた。
もっと早く帰るべきだったと思う。でもここにいれば安全だという驕りがあって最後のコマまで残ってしまった。教室から出て下駄箱に向かった。幽子もちゃんとついてきている。
――ねぇ知ってる? この学校の秘密
――なにそれ
職員室を通り過ぎたところで、下級生が噂話をしていた。例の噂。学内で広く伝播されているお話を陸斗は気に留めず、歩いていた。それよりも幽子の変化のことで頭がいっぱいだった。幽子は賑やかなことを嫌がったり、お母さんのことに反発したり、そもそもの目的の真相究明も投げ出していた。聞き出すべきだった。幽子が言いたくなくても、友人としてちゃんと問うべきだ。変化の原因を見破ろうとして、幽子に振り向いた。
「幽子……どうしたんだよ」
見えた幽子の姿に愕然とした。はっ、と呻いたと思うと、一歩ずつ後退する幽子に以前の面影はなかった。綺麗な形の唇が歪んでいく。
「幽子!」
陸斗の叫びもむなしく、幽子はなにか言いかけて、そして逃げるように消えた。
幽子が見たもの。陸斗は幽子が見た人物を廊下の先に視認した。――見つけた。腰まで届きそうな黒髪が鎧のように彼女を守っている。
鈴木波蒼がいた。
*
陸斗は迷っていた。幽子を追いかけることもできた。もしかしたらそうすべきだったのかもしれない。けれど、追ったところで幽子はなにも教えてくれないだろう。きっと、「大丈夫」の一言に凝縮して、ポジティブな態度を表明してみせるのだ。でもそれは嫌だった。いつもの幽子じゃないし、仮面をつけて演じている幽子なんか見たくなかった。幽子が鈴木波蒼を見て動揺していた、その理由は分からない。幽子の悩みを聞きたかった。共有して、叶うならばその悩みを永遠に溶かしたかった。
陸斗は、向かってくる鈴木波蒼に声を掛けた。同じ塾だしクラスメイトなのに事務的な会話も含めて、たぶん一回も話したことはなかった。
「渡辺――なに?」波蒼は氷の瞳を向けた。
「鈴木さん、急に呼び止めてごめん。実は聞きたいことがあるんだ」
「私急いでるから」
靴を履き替えて校舎から出ようとする波蒼を遮った。
「どういうつもり。渡辺ってそういうタイプだっけ」
「鈴木さん、時間はとらせないから、どうしても一つ聞かせてほしいんだ」
「それは重要なこと?」波蒼は鋭い声で言った。
「ああ。僕にとってはすごく重要なことなんだ……羽坂希良って知ってるか?」
「知ってる」
呆れたようにそれだけ言って波蒼は振り切ろうとする。
「知り合いなのか?」
「まさか。あの自殺したアイドルでしょ。ニュースでしか知らない。――もういい? 満足した。なにかと思えばアイドルの話なんて。どこが重要なのよ。聞いて損した」
波蒼はわざと鞄をぶつけて陸斗の横を通る。
鈴木波蒼は羽坂希良の知り合いじゃなかった。ならばどうして、幽子は動揺したんだ。――言うしかなかった。常識外れだと罵られても構わない。
「怒らないで聞いてほしい。鈴木さんの身近で三年前に亡くなった人はいないか教えてほしいんだ。たとえば自殺なんかで」
波蒼は、ぱたと足を止めて振り向いた。腕を掴んで、校舎の白い壁の隙間に押し込まれた。
「どうして」波蒼は戸惑っていた。白い顔が青白くなっていく。けれどその一秒後には表に出てきた感情を包んでしまっていた。真実が隠されている気がした。それをもう一度解きたかった。
「どうしても、詳しく知りたいんだ」
陸斗は丁寧に言った。波蒼はゆっくりと口を開いた。
「分かったわ。でもその代わり私も知りたいことがある。約束して。もしも私が話したら、そうね――あなたの成績のからくりを教えて」
波蒼の提案に、陸斗は従った。
*
波蒼が話し場所として選んだ図書室には誰もいなかった。パイプ椅子に座った波蒼に続いて陸斗も同じように腰掛けた。波蒼はすぐに口を開いた。けれど、なにか言おうとしてまた閉じた。なにから話していいか思案している様子だった。陸斗は催促することなく待ち続けた。
「鈴木葵」
初めて聞く名前が唇から零れ落ちた。軽い相槌だけして、続きを待った。
「私には姉妹(きようだい)がいるの」
波蒼は言葉を手繰り寄せてどうにか話そうとしていた。傷を広げている、と思った。幽子のためとはいえ残酷なことをしていた。
「この話は誰にも話してない。みんなに好き勝手に言われたくないから。それに――ううん、なんでもない。とにかく、私の姉妹、鈴木葵は三年前この学校に通っていて、いじめを苦に校舎から――飛び降りた」
糸が切れたようにそこで波蒼の言葉は途切れた。無音の余韻が二人しかいない図書室に漂っていた。大事なことは聞けたのだから詳細は聞く必要がなかった。波蒼の姉妹、鈴木葵が三年前に自殺した。ということは波蒼にとって葵は姉になる。
陸斗は頭のなかの材料を走らせた。
幽子は羽坂希良だ。これは幽子とポストカードの人物が一致しているから一目瞭然だ。他の画像を調べても、目元も髪型も、そっくりでは済まされないくらい酷似していた。女子校で聞いた羽坂希良の性格が幽子と似ていることも間接的な証拠になるだろう。でもそうだとするとまた先ほどの疑問が浮かんでしまう。
なぜ幽子は鈴木波蒼を見て狼狽えたのだろうか。三年前、幽子(羽坂希良)は中学三年生のはずで、鈴木波蒼は小学六年生だった。そこで接点が生まれることは考えづらい。もしも、幽子の正体が鈴木葵だったら理解できる。幽子が狼狽したのは妹の姿を見て、なんらかの記憶が戻り、それが不都合だったため逃げ出した。そんな解釈が成立する。けれどそれならば幽子イコール羽坂希良の前提が崩れてしまう。波蒼は鈴木葵の正体が、羽坂希良であろうはずがないと明確に否定していた。ニュースでしか知らない、なんて言うはずがなかった。――袋小路だった。
「そろそろ渡辺の秘密を教えてよ」
思考を破ったのは波蒼だった。どうやら結構長い時間考え込んでいたらしい。陸斗は正直に話そうと思った。波蒼が身内の死を他人に打ち明けたのは相当酷なことだった。こっちだって誠意を見せなければならない。それがたとえ荒唐無稽と言われてしまっても。
「成績が上がったのは幽霊のおかげなんだ」
陸斗は波蒼の目を正視した。嘘は吐いてないと念を込めたけれど、意図に反して波蒼は吹き出した。
「馬鹿にしてるの。そんなの子供だましにもならない」
「本当なんだ。四月の雨の日、この学校の屋上で幽霊に出会ったんだ」
波蒼は表情を引き締めた。
「屋上? そういえば渡辺、飛び降りようとしてたっけ」
「なんで知ってるんだ」陸斗は驚いた。
「放課後たまたま見ただけ。あんな雨の日に屋上にいる子なんて、それしかないでしょ。まさか、水浴びじゃあるまいし」
波蒼は乾燥した口調で言った。絶対に見られたくない場面を見られて陸斗はなにも言えなくなってしまった。
「いじめられてたの?」
「まさか。いじめなんて――全然ない」
「塾で南くんとふざけてたでしょ。あれはひょっとしていじめじゃないの。私見てたのよ」
「まったくの思い違いだよ。僕と頌大は親友なんだ。昔からの付き合いで仲良くしてる」
「ふーん。ならいいけど。でも、だったら別の死にたくなる理由があったわけだ」
答えたくなかった。返答しない意思を無言で伝えた。
「いいよ。別に知りたくないし、答えなくて。わたしだってこれ以上身内のことは話したくないし。それより、どうして成績が上がったのか教えてよ。渡辺の上がり方は不自然すぎる。みんなはただ渡辺のテスト結果に関心してるけど、私は騙されない。成績の上がり方がなだらかな斜面じゃなくて垂直なの」
「それもこれも幽霊のおかげだよ。幽霊が交換条件で成績を上げてくれたんだ。僕は普段通りの勉強しかしていない。でも幽子――幽霊は次々にテストや成績向上のヒントを与えてくれた」
波蒼は肩をすくめた。
「いいわ。しらばっくれるつもりね。あるいは一パーセントくらいの信頼性をもって信じてみようか。だったら、なんでその秘密をわざわざ打ち明けたの。私の家族となんの関係もない。オープンにしなければずっと誰にも知られることなく成績を上げられた。私の家族の情報は渡辺にとってそこまで価値があるものだったの」
「それが、きっと……鈴木さんのお姉さんかと思ったんだ」
右の頬に火花が散った。じんじんと響いて痛みが増していく。
「よくもそんなことを。言っていい冗談と悪い冗談がある」
波蒼はさっきまで浮かべていた薄ら笑いを引っ込めた。
「私、帰る。渡辺って最低だね」
痛みでまともに考えられないけれど、まだ波蒼を行かせるわけにはいかなかった。幽子の手がかり。唯一の手がかりが目の前にあるのだ。
「待ってくれ! 信じてくれないのは分かる。でもそう勘違いするのもわけがあるんだ」
「わけってなに? 侮辱するのも大概にして」
「幽霊が鈴木さんの顔を見て逃げ出したんだ。だから、きっと――もしかしたら鈴木さんと関係してるのかなって」
波蒼は少しだけ落ち着いたようだった。反射的であってもクラスメイトの顔を叩いた自分を責めているように見えた。その罪の意識を解消するために、図書室から出るのを止めたようだった。波蒼は後ろ向きのまま話した。
「参考までに聞くけど……その子はどんな子なの」
「ええと、フルーツとか食べることが大好きな子」
「……そんなの偶然の一致でしょ」
「他にもある。皮肉屋で、少し強引で」
「抽象的ね。そんな人大勢いるわ」
「たまにあぐらをかく」
波蒼は振り向いた。強い瞬きと質量のある呼吸。
「誰にも話していないのにどうして渡辺が知ってるの」
隠しきれないくらい語尾が震えていた。
間違いない。幽子は鈴木波蒼の姉だ。でも、だとすると羽坂希良は一体何なんだ? ますますわけがわからなかった。
そのとき頭のなかに一つだけ可能性が閃いた。幽子が羽坂希良であって、鈴木葵で済む一つの方法。微か、だが考えるほど、それしかあり得ないように思えた。しかし、それを確かめるのは怖かった。もし、考えの通りだとしたらとんでもない間違いを犯したことになる。波蒼に対して。幽子に対して。取り返しのつかない過ちを犯している。
波蒼は静かに言った。
「ねぇ、渡辺。食べ物の好みも、性格も、あぐらをかくところも全部、その通りだよ。でも一か所だけ致命的なミスがあるの。私のきょうだい、鈴木葵は――男の子だよ」
陸斗は驚いた。自分は最初から間違ってたんだ。全部、なにもかも。自分の追っていた真実はコインの表だけ。
「言いたくなかった。どうせ特徴なんて全部、風の便りで知ったんでしょ? 学校ではお兄ちゃんのことは一言も話さなかったから。学外で調べて、噂を知って、利用して私をからかった。そうすれば私が動揺するから。そうすれば私の成績が地に落ちて、渡辺が上がってこれるから」
「違う!!」
「違わないよ! 渡辺もお兄ちゃんのことを、お姉ちゃんってからかうんだね。ずっと耐えて聞いていたけど、結局お兄ちゃんの友だちと一緒だ……」
息のような声で切れ切れに言う。
「渡辺も、お兄ちゃんの親友みたいに、お兄ちゃんをいじめるんだね」
陸斗の横をすり抜けて、波蒼は駆けるように図書室から出ていった。
*
――陸斗、怒るだろうな。
幽子は陸斗の部屋に一人座っていた。もう二ヶ月もいた部屋。よくいえば雑味のない、悪くいえば味気ないモデルルームみたいな部屋にもすっかり目が慣らされた。
一人で学校に行ったときのことを思い出す。善行を積むためにがむしゃらだった。
わたしの妹、鈴木波蒼は教室の風景の一部のように椅子に座って本を読んでいて、わたしはそれを見て、記憶の一部分――けれども一番重要な部分が戻ってくるのを感じた。つまり、わたしの名前は鈴木葵ということ。
また波蒼に会うから、二度と学校には行きたくなかった。でも陸斗は彼の思う善意があって行動していた。パートナーの善意をどうして拒むことはできるだろう。
わたしの名前は鈴木葵。わたしの妹は鈴木波蒼。波蒼を意識してからの学校は辛かった。確かに記憶が戻りつつあったのだ。人の群れが怖くて、みんなの話している話題が怖かった。自分は誰からも見えていない、安心していいのだと分かっているのに怯えてしまう。集団や噂。たぶんこの怖さは、自分が死んだ原因に関係している。
いじめられていたのだろうか。真実を知るのは怖かった。学校にいれば真実を探さなくても、真実の方からやってくる。名前も、性別も、恐らくいじめられてたということも勝手にやってきた。心が反応していた。
でも一つだけ分からないことがある。陸斗は言っていた。自分の印象は普通の女の子だって。――女の子。そのときは自分が何者か分からなかったから陸斗の言葉を鵜呑みにしていた。でも今はそれが違うと分かっている。たとえ自分の姿が見えなくても男だということを自覚している。では、陸斗が言っていた外見はどう説明されるだろう。
幽子は椅子に座って、背もたれに全体重を預ける。いずれにせよ、これ以上真実を見たくなかった。外見が女で、中身が男。一致しない理由を考えただけで身震いする。
――陸斗、怒るだろうな。わたしが男の子なんて。
陸斗。その言葉でこのあいだのことを思い出した。確か好きな子がいるって言っていた。
――好きな子なんていないって、言ってたのに。嘘ばっかりだ。
幽子は陸斗の机を開ける。ずっと暮らしていたから嘘を吐いていることなんてお見通しだ。
アダルトな本はない。あっても別にいいけど。それから参考書に挟まれた複数のメモ。勉強の足跡、幾重にも重なった付箋。メモ書きがある。幽子の特徴――大胆、皮肉屋、強引、男勝り、エトセトラ。こんなこと考えていたんだ。
それからポストカード。可愛い子だなあと思う。たくさんその子のグッズがある。こういう子がタイプなんだ。案外面食いなんだな。
なんの気なしに裏面を見て、幽子はカードを落とした。
――幽子。ポストカードの裏には自分の仮の名前。
記憶が脳裏を駆け巡る。映画、センター、蜘蛛……。地面にぶつかる自分の姿。
幽子はその場にへたり込む。
――全部思い出した。思い出してしまった。わたしが死んだ理由、わたしのこの姿。
ああ――どうして。もっとショッキングなこと。恐れていた最悪の事態。神様はなんて残酷なんだろう。
陸斗、分かってたんだね。全部知ってて、机に隠してたんだ。
床に落ちた羽坂希良だけが幽子を見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます