22

「ただいま」

「あ、おかえり……」

 陸斗が帰ってきたとき、幽子は置物みたいに座っていた。なにをするでもなく、ただ座ってぼうっとしているのだ。心なしか、暗く見えた。

「幽子、なにかあった?」

「ううん。なにもないよ」

「なんか顔が暗いぞ。体調不良みたいだ」

「幽霊なんだから体調もなにもないでしょ」

 冗談を言って笑った幽子の顔に力はなかった。かつては話すたびに表情筋をフル活用するのに今日はかなり控えめだ。

 なにかあった。直感で分かった。まさか一人で羽坂希良に辿り着いたのだろうか。いや、それはない。だったら幽子の性格上はっきり言うはずだ。ここは一つ膝を突き合わせて話してみようと思った。

 しかし、それを聞く前にやるべきことがあった。沙依の口止めだ。あのままだと女子校に行った理由をお母さんにチクられてしまう。だから土下座でもなんでもして沙依には懇願しなければならない。それが終わったら幽子に聞こう。なにがあったか。もしそのなにかが大したことなかったら御の字だ。それから、この数日に得た幽子の真相を話すとしよう。自分が羽坂希良だと知ったらどんな反応が返ってくるだろうか。無事、任務を達成できて喜ぶに違いない。陸斗は幽子の喜んだ顔を想像して、ほくそ笑んだ。

 廊下を忍び足で歩き、沙依の部屋をノックしようとしたら、戸が少しだけ開いていた。なかから音が聞こえてくる。うめき声の正体はラジオの音声と知っていた。そう沙依が言っていたから。だからこそ幽子と口論していたときに、怒鳴り込んできた沙依に対して逆襲のようなかたちで言い返せたのだ。それなのにまた音がしている。つけ入る隙を与えるのは沙依らしくなかった。口止めついでに文句を言ってやろうと思って、ドアノブを掴む。けれどドアの隙間から見えた沙依の姿を見たら、部屋に入れなくなってしまった。

 沙依は泣いていた。肩を震わせて、口にタオルを当てて呻いていた。深夜、沙依の部屋から漏れ聞こえる音はラジオじゃなかったんだ。

 姉は嫌いだ。冷酷で、暴力的で、優しさなんてお母さんのお腹のなかに置いてきたのかと思った。なのに嫌いな人の涙を見て動揺している自分がいる。

 陸斗は戸を閉めた。ゆっくりと音が鳴らないように。気づかれたら姉をもっと傷つけてしまうと思った。

 夕食の時間は沈黙から始まった。会話も、テレビの音もないから各々のカトラリーが金属音を奏でるのが粒立って聞こえる。

 陸斗は首の皮がたるむくらい下を向いて食事を取った。誰の顔も見たくない。お母さんの顔を見ると祖母の顔が重なってしまう。沙依の顔を見るといつ秘密を暴露されるか気が気じゃなくなる。今日はたまたま幽子も同じ空間にいたけど、その方向だってずっと見ていられない。誰の顔も見ずに食事を終えたかった。

「沙依、勉強は順調?」お母さんが沙依に向かって口を開いた。

「はい。少しずつ調子を取り戻してます」

 沙依はグリーンピースをイライラしながら摘まむ。テストの出来が悪かったから陸斗のメニューとは雲泥の差だった。沙依はグリーンピースが嫌いだ。だからお母さんは沙依の嫌いな食べ物と知っていてあえて並べているのだと思う。

「ならよかったわ」

 自分で聞いたにもかかわらず、お母さんは無関心に見えた。

「陸斗は?」

「順……調です」

「そう。それはよかった。さっき塾の先生から電話があったの。陸斗、塾行ってないでしょ」

 陸斗は驚いて顔を上げた。なんで、バレたんだ。お母さんの顔はみるみる怒りの色に染まっていく。文字の一つ一つにアクセントがあるかのようにきつく責めた。

「今日だけじゃなくて、ずっとだって言うじゃない。どういうことなのか言ってみなさい」

「図書館に、いました。自習室はうるさくて集中できなかったから」

「嘘です。陸斗、女子校にいました」沙依が身を乗り出して、口を挟む。

「沙依! 約束したじゃんか」陸斗は叫んだ。「なら、僕だって――」

 部屋で見たことを言ってやろうと思った。けれど続きを言えなかった。沙依が自室で涙してたことを話せば、やり返すことはできた。うまくいけば話題をすり替えることだって。でもそれがなにになるというのだ。言葉の応酬をしてなにがうまれるのだ。相手を下げたって自分の価値は変わらない。それにそれを言うということは、なにか取り返しのつかない事態を引き起こして、沙依の大切なものを壊してしまう気がした。

「女子……校。沙依、それは本当なの」お母さんがギロリと沙依を睨みつけた。嘘だったら承知しないと目が語っていた。

「はい。この目で見ました」

「陸斗。説明してみなさい」

「……好きな子がいたんだ」

 陸斗が言うと、沙依と幽子が同時に視界の隅で驚いた。沙依は正直に言うと思っていなかったのだろう。幽子にはそもそも女子校に行ったことは内緒にしていた。でも事情を説明するのは後だ。

 お母さんは続ける。

「どんな子なの。家柄は? 成績は?」

 陸斗は頭に血が上るのが分かった。中三にもなって自分の恋愛に絡んでくるのは嫌な気分だった。それがたとえ嘘の話でも、家柄や成績をここでも持ち出すのかと思った。でも陸斗は冷静だった。怒りをどうにか抑えてお母さんに話した。

「……分からないです。話したこともないし、片思いだから」

 お母さんは安心したようだった。

「よかった。陸斗に恋愛はまだ早いわ。そういうことになる前に気づけてよかった。陸斗は勉強だけしていればいいの。そうすればなにも心配いらないわ。――沙依」

「はい」

 沙依の低く怯えた声が机を這う。自分が呼ばれるとは思っていなかったようだ。

「さっきこの目で見たって言っていたわよね」

「……はい」

「沙依、女子校になんの用があったの。沙依に用があるのは予備校でしょ。まさか、サボったのかしら」

「それは。陸斗の秘密を探ろうとして」沙依は必死だった。どうにかして自分の正当性を理解してもらおうとしていた。

「言い訳はいい。沙依は自分のことに集中すべきじゃなの? 残念だわ。格下げしないと」

「でも――」

 沙依は抵抗するが、お母さんは聞く耳を持たない。それから無情にもお母さんは立ち上がり、冷蔵庫にかかっている管理表のマグネットを一段階ずらした。沙依は観念して椅子に座る。座るというより落下した。いつも成績が良くて、常に自分の前を走っていた姉の姿はそこにはなかった。食事は進まなかった。まるで抜け殻のように黙って、なにか燃えるような感情を無理やり平べったく均している沙依を横目に食事なんてできなかったのだ。

 階下からはお母さんの一方的な怒鳴り声が聞こえる。沙依は謝り続けているのだろう。ざまあみろなんて思いは浮かんでこなかった。ただ嵐が過ぎるのを願っていた。

 家族のなかにいたくなくて急いで自室に逃げてきた。陸斗は疲れていた。テストで良い点を取ったのに、お母さんはたった一度の過ちで厳しいルールを課してきた。点数が上がっても下がってもいいことなんてなかった。

「好きな子、いたんだね」

「ああ、あれは事情があって」

「説明しなくていいよ。前に教えてくれなかったのも信用できなかったからなんだよね」幽子はぴしゃりと言った。

「だから、それはちがくて――」

 投げやりだった。もうテストの点数はどうでもよかった。幽子を転生させてもいい。

「わたし、もう成仏しなくてもいいかも」

 机の引き出しにかけていた手が、止まった。

「は……聞き間違いだよな」

「聞き間違いじゃないよ。わたし――成仏しなくていい。そう言ったの。やっぱりさ、よく考えたんだけど、今の状態ですっごく楽しいって思って」

「どういうことだよ」

「額面通りの意味よ。現世に漂うのも案外悪くないなって」幽子は明るく言った。

「嘘だ。幽子言ってたじゃないか。わたしは転生するって。そのために協力してきた」

「だから心変わりだって。陸斗、どうしたの急に、熱が入っちゃって」

「幽子こそ。なんでそんなに冷めてるんだよ。自分のことなんだぞ。このままだったら、幽子消えちゃうんだろ」

 幽子の表情が陰った。表情を隠すように後ろを向く。

「もういいの。もうこれ以上、知らない方がいいかもしれない」

「なんでそういうこと言うんだよ。ここまで頑張ったじゃないか。あと少しで真相に辿りつけるかもしれない。それを見過ごすっていうのか」

 引き出しの向こう側には収集した証拠がしまってある。これさえ見れば幽子は真実を悟る。無理やり眼前に突きつけることもできる。でも――幽子は拒んでいた。だから証拠の存在さえ話せなかった。

「もしかして僕が原因か。僕がテストのことをあんまり言うから嫌になったのか。だったら謝る。――ごめん」

「違うよ。陸斗のせいじゃない」

「じゃあ家族か。いつもいつもああやって口論してて、冷たい家族を見て……ウチを見てこんなところにいたくないって」

「それも違うよ。家族も関係ない」

 幽子は平坦に言った。陸斗は幽子の肩に手を掛ける。振り向かせたかった。幽子の表情が見たかった。表情の見えないまま話すのは――怖かった。

「……お母さんか」

「全部違うって! お母さんお母さんって。二言目には君はお母さんって言う」

 幽子は声を荒らげて、手を払いのけた。爆発した感情を表に出していた。なにがそんなに幽子を刺激したか分からなかった。ただ一つ言えることは、幽子は陸斗の知っている幽子ではなかった。

 陸斗はなにも言えなかった。黙っている陸斗に幽子は悲しく微笑んだ。

「ねぇ陸斗、聞いて。親だって人間なんだよ。間違えることもある。お母さんは聖人君子じゃない」

 陸斗の手が握られた。温かくて柔らかかった。

「わたしの今まで言ったこと全部信じなくていい。受け止めなくていい。でもこれだけは聞いて、陸斗……お母さんと話し合った方がいいよ。じゃないときっと、後悔する」

 言ってることはめちゃくちゃだった。でもそれは痛くて切実な響きだった。

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