19
家に幽子はいなかった。陸斗は混乱していた。鞄を置いて勉強机に突っ伏した状態で、頌大から譲り受けたポストカードを眺め見る。
幽子は羽坂希良だ。そして羽坂はいじめを苦に自殺した。このことはネットニュースに書いてあった。普段テレビを見ないから、その記事は先ほど塾からの帰り道にスマホで初めて知った。
すぐに幽子に話すべきだと思った。けれど、もしも幽子に真相を伝えたら幽子は成仏してしまって、そうなれば成績はきっと下がるだろう。ジレンマだった。どうすれば――。
陸斗はシャーペンの芯を出したり、入れたりする。
一番以外は全部ビリ……テストがそんなに大事?……一番の人に会いたいものだわ……本当に常にお母さんが正しいと思ってるの?
お母さんと幽子の声がぶつかる。どちらかが倒れるまで戦い合わせる。そうやって、また天秤を量っている自分に気づいた。
考えた。テストよりずっと頭を使った。幽子には恩がある。でもお母さんの期待も裏切りたくない。捻り出した答えは幽子にはまだ真実を教えられないということだった。まだ一番になっていない。成績を下げたくない。下卑た思いだった。でも成績はなによりも優先すべきことだった。人生で一番大事なことだから、これだけは譲れない。幽子への恩を一旦置いて、十五年間育ててくれたお母さんの恩を優先したかった。いくら成績に厳しくても、風邪を引いたときにうどんを作ってくれたり、友だちとケンカして泣いている僕を慰めてくれたり、励ましてくれて、助けてくれて……そういう優しさは絶対に、絶対に忘れられない。
陸斗はポストカードの裏に『幽子』と書いて、プリントアウトしたほかの羽坂希良関連の資料とともに机の引き出しにしまった。
「なーにしてるの」
「うわっ」
唐突に幽子が現れた。
「勉強だよ勉強」
「ペン、逆さまだよ」
「いや、これは――。幽子こそなにしてたんだよ」
「決まってるじゃない。善行よ。いい行いをすればサプライズがあるって神様が言ってたでしょ。どんなものか知りたいし。体が見えないことを活かして色々やってみたわ」
また胸が痛んだ。ひょっとしたらとてつもない大きな間違いを犯しているのかもしれない。陸斗は引き出しを隠すように座った。
「ふふん。陸斗、ありがと」幽子は追い打ちをかけてくる。
「なんだよ、急に」
「ううん。真相に迫ってきてるからお礼を言っただけ」
「そんな。全然進展ないじゃん。感謝されることなんてない」
しかし陸斗の思いとは裏腹に、幽子は本当に喜んでいるようだった。まだ進捗が悪いと、詰られた方がよかった。
「そんなことないよ。分かったことはいっぱいある。見た目も年も、三つのキーワードも、それから学校でなにかあったってことも。まとめきれてないからすっきりしないだけ。詳細はこれから詰めればいい。最初はどうなることかと思ったけど、わたし陸斗でよかったって思ってる」
幽子はにこりとして、手を差し出してきた。耐えられなかった。重りは幽子に傾いた。
「幽子、実はさ――」
「分かってるって。等価交換だもんね。いいアイデアがあるの」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃない? わたしとっておきのを考えたのよ。それは、なんとーー魔法!」
その言葉に陸斗は釘付けになった。
「魔法なんて前はできないって言ってなかったっけ」
「最近思い出したの。ちょっと後ろ向いてくれる」
「こうか――いてっ!」
幽子は背中を叩いて、「はい、終わり」と言った。
「これで成績が上がるはず」
幽子はしたり顔で言った。
やり方が少々気に食わないだけで、幽子は嘘は吐かなかった。だから、嘘みたいなやり方だったけど信じることにした。幽子の真相についてはついに話せなかった。まだ徳を積みたい、と幽子はまたすぐどこかに行ってしまったのだ。言おうと思ったタイミングを逃すと、途端に話しづらくなる。帰ってからも切り出せずにいた。どうせ幽子も急いでいないようだ。それにあのカードはなにかの勘違いの可能性もないとは言い切れない。今まで何度も踊らされてきた。もっと確定的な証拠を得るまで、あのポストカードは温存しておこう。陸斗はそう心に決めた。
*
高野教諭は青白く光るパソコンの画面を見つめる。
瞼が重い。眠気を覚まそうとコーヒーを啜ると、すっかり冷めてしまっていた。
問題作成は難題だった。教師としての信条を守ったうえで、生徒の向上心に火をつけ、同時に保護者に配慮する。そんな都合のいい奇跡的な問題がいくつも浮かぶわけがない。残りは六時間。そこから最終確認と印刷作業がある。なのにまだ一問も作れていない。ホームポジションに置いた指は凹凸をなぞることに終始して、動かない。かれこれ一時間は経っていた。
頭が痛い。このところ頭痛薬の消費量が増えている。なぜあんな問題を作ってしまったのだろうと、高野教諭は頭を抱える。
すべての問題の答えが同じなんて、度が過ぎている。以前別の教諭がマークシートの答えを同じ数字にしたのを見たことがあるが、それとは比べものにならない悪行だ。悪ふざけでは済まされない。なんであんなことをしてしまったのだろう。
生徒には馬鹿にされ、同僚には哀れまれる。プライドはずたずただった。休職中もずっと苛まれていた。すべてはあの声のせいだ。あの脳に直接注入される声。声が思考を貫いて、そうせざるを得なかった。
病院に受診しても原因は分からなかった。声のことを伝えても、真に受けられなかった。疲れですね。睡眠不足と診断されて、軽い眠剤が出された。
薬に手をつけることはなかった。医師と信頼関係も築けないのに、飲めるわけがない。
高野教諭は耳栓を装着する。空気清浄機の音がくぐもって聞こえる。
自衛策しかなかった。耳栓をしていればあの忌々しい声を封じることができるはずだった。
明日はいよいよ休職明け初日。気を取り直して、打ち始めようとしたときだった。
風が吹いたと思った。窓が開いてカーテンが膨らんでいる。資料が飛ぶと面倒なので施錠して、ワーキングチェアに座り直す。と、体がずしりと重くなった。力を込めて動こうとしても誤差程度しか動かない。それだって左に動くと右へ、右へ動くと左のように自分の意識とは別に、強引にかじ取りされた。
汗が出てくる。まただ。高野教諭は恐怖を覚えた。こんなことなら眉唾だったとしても、悪霊退散グッズを買っておけばよかった。あの怪奇現象に違いなかった。今度はなにをされるんだ。
もがいても無駄だった。声は沈黙していたが、体は乗っ取られたまま。抵抗すると、それを阻む力が大きくなる。高野はあえて力を緩めた。すると指が勝手に動き始める。節高の指が小気味よい音を鳴らしていく。数秒して問題文を打ち込んでいることが分かった。
この悪霊はなにがしたいんだ。
しかし、今回はアウレリウスじゃなく、不思議とバランスのよい問題になっている。
高野教諭は自分の指が軽やかに動いているのを見つめていた。そこにいるのに、そこにいない。自分の後頭部を見ている不思議な感覚だった。
もしかしたら夢かもしれない。現実的な五感をなんら感じられなかった。それにたとえ現実だったとしても、また休職になることは避けたい。クビは確実だった。
頭のなかで計算機が弾かれる。
高野教諭はワーキングチェアに身を預け、ついに操作されることを受け入れた。
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