18

 久しぶりの塾はまるで初めて訪れる場所のようで緊張した。いつもは毎日のように通っていたけれど、このところ幽子の件があるために休んでいた。

 自習室は落ち着く。今日は特に人も少ないようで、定位置には誰も座っていなかった。鞄から筆記用具一式を取り出すと横から声がした。

「ようやく来たな」

「あっ、頌大。お疲れ」

「お疲れって。人の心配を簡単に流しやがって」

 頌大は口を尖らせた。でも顔は笑っている。心配の程度は軽くて済んだようだ。

「LINEの返しも遅いし、どうしたのかと思ったぞ」

「ごめん。ちょっとわけがあってなかなか返せなかった」

 平時ならLINEはすぐに返していた。しかし、幽子の件に取りかかりきりだったから返信は思うようにできなかった。それに勉強もある。いっぱいいっぱいだった。一日十数回のやり取りが、今では三日に一回返せれば上出来だ。

「わけってなんだ。ひょっとして、リク」

 顔の前でわざとらしく両手を逆ハの字に広げて、驚いてみせる。

「いや、頌大が思っているようなことはないから」

 遮るように即答した。明らかに色恋沙汰だと勘違いしていた。

「またまた、とぼけちゃって」

 頌大はにやにやと言った。そして、両手を向けてくる。まずい、と思ったら遅かった。頌大は頭を掴んでわしゃわしゃとする。

「やめろよ」

 身をよじって逃げようとしても、頌大はなかなか放してくれない。ヘッドロックを外して、力任せにようやく抜け出した。

「そういうのじゃないんだって」

 その言葉が思いのほか強く出てしまって、頌大はびっくりしていた。

「いや、ごめん。別に怒ってるわけじゃないけど。ただ家の用事が続いて、塾に行けなかったんだ」

 悪気はなかった。うまく取り繕えただろうか。

「へぇ。まあ隠したいならいいけどさ」

 頌大はそれ以上追及しなかった。代わりに別のことを切り出した。

「それより考えてきてくれたか」

「えっ、なにが」

「リク、まさか忘れてないだろうな。俺の芸能界の話。よく考えてから、答えるよって言ってただろ」

「もちろん、覚えてるよ。ただ急に言われて驚いただけ」

 忘れていた。前に塾で会ったとき、約束したんだった。でも、とっさに覚えていると答えてしまった。今更出した言葉を引っ込められない。それってすごく恥ずかしいことだ。

 必死に脳内を探した。なにか材料がないか。どう答えたら喜ぶか。

「いつか自分の思いを出せる日がくるから、それまで我慢するべきだ。上司のパワハラを受けても、堪えて耐えればいつか自己実現できる日が来る」

 お気に入りのフレーズが口から滑り落ちた。それは自己啓発本に書いてあった内容だった。隙間時間にちびちびとでも読みすすめるために鞄には常に入れていた。さっき読んだばかりだから記憶の引き出しの手前側に入っていたのかもしれない。

 頌大はゆっくりと言葉の意味を噛みしめていた。

「ムズイな。それは、つまりどういうことだ」

 鐘は鳴らせなかった。もう引き返せない。ここから話を広げるしかなかった。撤回したら嘘になる。信頼を失う。

「要するに」

「うん」

「色々考えたんだけど、今はお母さんに従った方がいいと思う」

 頌大は固まった。そう言われるとは思っていなかったようだ。

「僕たちはまだ子供だ。どんな行動だって責任なんて持てない。でも芸能界はリスキーで、ヤバい奴がうじゃうじゃいる。ひょっとしたら重大なミスをしてしまうかもしれない。でもそこで責任を取らされるのは頌大でなく、頌大のお母さんだ。よく保護者の責任って聞いたことないかな」

「ああ」

「だから自分で責任を取れるようになるまでは耐えるべきだと思う。頌大もお母さんに迷惑をかけたくはないでしょ。義務教育を終えれば、あとは自立した生活を送ればいい。バイトでもなんでもして。そこでできないようじゃ、その程度ってことだろう。だから今は我慢だ。押さえつけるほど、反発する力は強くなる。その力を頌大の夢に向ければいい」

 淀みない言葉に、詐欺師めいた気持ちがうっすらとちらつく。

「でも遅すぎることはないか。需要がなくなるかもしれない」

「大丈夫。頌大の面白さは、少しくらい年を取っても変わらないよ」

 頌大は顔を伏せた。それっきり動かなくなってしまった。

「頌大?」

 陸斗が肩を揺らす。すると頌大は急に抱きついてきた。

「ちょっと」

「リク、俺は嬉しいよ」

「頌大、急にどうしたんだよ。らしくないよ」

「俺のこと、真剣に、考えてくれてたんだな」

 少しだけ胸が痛んだ。ずっと考えていたわけではなく、急遽ひねり出したといったほうが正しかったから。

 頌大は陸斗から離れる。興奮を冷まそうとしても、この熱血漢はなかなかもとに戻らない。

「正直、あまり期待はしてなかったんだ。ここ数年、相談には全然乗ってくれなかっただろう。でもそれは俺の間違いだった。ごめん、謝るわ。リクに相談してよかった。本当によかった」

 頌大は陸斗の手を握る。握手したまま両腕をぶんぶんと振ってくる。腕がもげそうなほど、力が強くて痛い。運動部なのだから手加減してほしい。

 頌大は感激していた。結果的にほとんど本の受け売りになってしまったけれど、喜んでもらえるなら本望だった。綺麗な嘘ならついてもいいと思った。

 頌大のポストカードに気づいたのは、そんなときだった。

「それ……」

 頌大の鞄からポストカードがチラと覗いていた。他にもカードはあったけど、その一枚から目が離せなかった。

「それ、ちょっと見せてもらえないか」

 陸斗は鞄のなかを指差す。馬鹿みたいに焦っていた。声が上滑りする。もしかしたら勘違いかもしれない。近くで見たい。早く確認をしたかった。

「ああ、これか。リク、アイドルに興味あったっけ」

 差し出されたカードをひったくるように受け取った。そこには見覚えのある少女が映っていた。間違いなかった。胸のあたりがざわざわとしてきて、休まらない。アドレナリンが上昇してくる。

「羽坂希良。有名だもんな。気に入ったならあげるぞ。今日のお礼だ」

 ずっと見つめているのを頌大は勘違いした。アイドルのファンになったわけじゃなかった。でもくっついたように目を逸らせない。

 

 そこには幽子の姿が写っていた。

 鈴木波蒼が背後を振り返ると、男子がじゃれているのが目に入った。さっきからうるさくて、これじゃ集中して本も読めない。

 波蒼は二人を観察する。一人は知らない。やんちゃな感じがして、いかにも馬鹿っぽい。男子ってなんで、ああなのだろう。ホウキの柄で戦っていたころからまるで成長していない。成長が小学生で止まってる。もう一人は知っていた。渡辺陸斗。この前まで石ころみたいに存在感がなかったのに、最近成績が急上昇しているクラスメイト。塾にも前ほど真面目に通っていないみたいだったし、成績が上がったのは一体どんなからくりだろう。目を細めて渡辺の顔を見る。どこかで見たことがあるなって思ったら、やっぱりそう。先日屋上にいた男の子だった。

 渡辺がもう一方の男子に絡まれている。手を押しのけて嫌がっているように見えた。

 いじめかな、と波蒼は思った。ああいう種類の、おふざけと称したいじめはたくさん見てきた。彼が飛び降りようとしたのは、あの男子が原因なのかもしれない。

 ま、関係ないけどと、波蒼は読書に戻った。人より本の方が楽でいい。口が付いてないし。トラブルも起こさない。

 ――どうせ、みんな贋物なんだ。

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