17
母方の祖母のことはほとんど知らなかった。お母さんはどんなに些細な話でも祖母にかかわる話は絶対にしてくれなかった。たとえば、お父さんが自分の故郷のことを話しているときも、お母さんは不自然に聞き手に徹していた。陸斗がたまに話を振ると、表情を硬くして口をつぐむ。してはいけない話なのだと子供心に分かった。でも、一度だけお母さんが祖母のことをインチキ霊能力者と切り捨てたのを覚えていた。きっと、陸斗が持っていた受験のお守りを見て連想したのだろう。お母さんがそんなことを言うなんて信じられなかった。血のつながった家族なのに。あの冷たい、色を塗る前の人形のような白い顔はこびりついたように胸のなかに残っている。
霊能力者と幽子を結びつけるのは容易だった。力を借りられるかもしれない。どこかに住所がないか、家のなかを探していると押入れの奥に一通の封筒が保管されていた。
日下部道子。日下部はお母さんの旧姓だから、それが祖母の名前だった。封筒のなかには飾り気のない手紙が二枚入っている。内容は見なかった。それは触れてはいけない過去で、お母さんが隠した理由だったから。住所だけ写して、痕跡が残らないように丁寧にしまいなおした。
祖母の家は小高い丘の上にうずくまるようにして建っていた。すでに引っ越していたことも考えられたけれど、グーグルマップで表示された画面の先に転移してみると、木でできた日下部の表札が見えてひとまず安心する。
家の前にはいくつもの植木鉢があった。しかし土だけのものがほとんどで、あとは枯れた名前の知らない植物。それから濃緑に汚れた水槽が三つ。生き物はいなかった。なにに使うか分からないガラクタは長い年月そこに置かれていたのか、石畳の玄関を茶色く汚している。外壁には蔦が張り巡らされていて、本当に人が住んでいるのか不安になった。
陸斗はその間を縫うように進む。踏まないように、折らないように。玄関の前に立ち姿勢を正すと、裏返しになった木の板に筆で書かれた霊視研究所の文字が見えた。その文字もやっぱり掠れている。
緊張してなかなかチャイムを押せなかった。いくら祖母といえど初対面である。血のつながりがあっても他人と変わりない。
どうにかチャイムを押すと、家の古さに似合わない現代的な音が響く。しばらくして小柄な女性が出てきた。お母さんの年齢から計算すると八十代くらいか。けれど想像の八十代と違い、背中は丸まっていないししわも目立たない。日常生活で高齢者とかかわることはなかったから、それが普通なのか特別なのか分からなかった。
そしてもう一つ大事なこと。お母さんにはまるで似ていなかった。
「どちらさま」
女性は、陸斗の観察するような視線を訝しむ。
「あの日下部さんですか。僕はわ、和田といいます。霊能力の看板を見て、ここに来ました」
偽名を名乗り、早口で目的を告げ、陸斗は外の看板に目をやった。
女性も陸斗の目線を追って、ああと呟き「もうそういうのはやってないんだけどね……」と言った。
「あの、お金なら払います。少ないですが」
「そういうのじゃないのよ。私はもう辞めたの。廃業。疲れたのよ」
「僕、どうしても日下部さんに助けてほしいんです。ネットで見てここまで来たんです」
陸斗は相手の声に被せるように言った。熱意が通じたのか、はたまたここら辺の者じゃないと直感して哀れに思われたのか、女性は少し悩んでから玄関を大きく開けて「お入りなさい」と言った。
*
「それで相談なんですけど」
来客者用の椅子に浅く腰掛けた陸斗は、お茶を半分程度飲んでからようやく切り出した。
「その男の子のこと?」
祖母は相談を一つ飛ばしにしてゆったりと問うた。視線は陸斗の隣に向けられていた。陸斗は驚いたと同時に失望した。余計なことを言わず幽霊の存在を認知していることを示してくれたのはよかった。しかし、それは霊能力を謳っている以上当たり前である。それよりも隣にいる幽子を男の子と読み間違いをしたことは、霊能力者としての能力を疑ってしまうのに充分な失態であった。
「女の子……なんですけど」
「ああ、そうなのね。性別は時々間違えるの。それとも鈍ったのかしらね」
祖母は両手を見つめて、さして重要でないように言った。
「この人大丈夫かな」と幽子はシャツの袖を引っ張ってくる。「本当に霊能力者だよ、ね」
陸斗は袖をもとに戻し、単刀直入に聞いた。せっかくここまで来たのだからなにがなんでも収穫を得たい。
「この幽霊の記憶を取り戻したいんです」
「記憶を取り戻してどうするの」
「それは……成仏させたいんです。成仏させるには記憶を取り戻すことが必要で。なんとういうか、説明が難しいですけどそういう約束をしたんです」
「ええ、分かるわよ。つまり、記憶を取り戻してあなたに憑りついている憑き物を引きはがしたいのね」
若干違うけど否定するのも話が進まない。素直に首を縦に振った。
「でも変だわ。記憶がない幽霊なんて聞いたことがない。それに条件を突きつけるなんて」
祖母は頬杖をつく。幽子は「面倒な幽霊で悪かったですね」と皮肉を言う。
「普通、憑くものと憑かれるものはなにか関係があるはずなの。廃墟に行ったから憑りつかれるとか、墓を荒らしたとか。原因と結果が必ず存在する。なのにあなたは無関係と言っている。ゆかりなく憑りつかれたということなのでしょう。あなたなにか心当たりは」
「ないです。僕にはまったく。あ、でも、一つあげるなら学校の屋上に行ったくらい」
「屋上」と祖母は聞き返した。
隠すのは得策ではない。陸斗は諦めて話すことにした。屋上に行ったから幽子と出会ったこと。屋上に行ったのは自殺するためだったこと。自殺を企図した理由については言わなかった。軽々しく心の扉は開けない。
すると、祖母はなにかを理解したようで、「やってみましょう」と立ち上がり幽子のいる空間に手をかざした。三十分くらいだった。英語でも日本語でもない聞きなれない言葉をいくつか述べて、やがてそれは終わった。
「学校」と祖母は空を見つめ、絞り出すように言った。顔には玉の汗が浮かんでいる。祖母は目を閉じて、なにか閉じることによって別の世界を見ようとしていた。
「学校がどうしたんですか」
「分からない。でも学校でよくないことがあったみたい。屋上へ駆けてく人が見える」
陸斗は失望した。漠然としすぎている。それに学校は、恐らくそうだろう。見た目からも素人判断でもできる。僕以外で幽子が見えているはずの唯一の人なのだから、もっと踏み込んだことを言ってほしい。
「それはもう知っています。他には」
「地面には水たまり。これは雨の日だと思う」
「あとは」
「残念だけど、これしか分からなかったわ」
「それだけですか。もっと具体的には分からないんですか」
「ええ。申し訳ないわね」
祖母は本当に申し訳なさそうに言った。
「いえ……そうですか。やっぱり難しいんですね」
学校といっても色々ある。中学なのか高校なのか。地方なのかと都会なのか。それが分からないようじゃ意味がない。能力を使わない期間が長期に及んで、使い方を忘れてしまったのだろうか。
祖母はひたすら手をかざして粘っていたけれど、その他に有用な情報は引き出せなかった。雑談をしたくてきたわけじゃない。引き上げるときがきたようだった。
「お手間かけました。じゃあ、僕はそろそろ――」
「あなたを見ていると娘のことを思い出すわね。似てるの。目元が」
切り上げようと立ち上がったら祖母はそんなことを言った。ドキリとした。もしかして正体がバレたのだろうか。思わず着ている服のあちこちを触る。いやそんなはずはない。一見して孫だと分かるようなものはなにも身に着けていない。
「そうなんですね」
さらりと流すしかなかった。それが自然な対応だった。だって、それは当然ですよ。だってあなたの娘の息子ですからなんて言えないから。
「ええ。目の形がそっくり」
祖母は嬉しそうに笑った。さっきは若く見えたけど、笑うと皺が目元によって年相応に見える。かわいいという言葉を年長者に使うのには抵抗があるけど、かわいらしい人だと思った。
「娘さんはどんな方だったんですか」
興味本位だった。どうせお母さんは話してくれないし、またとない機会だ。お母さんの出生がまったく分からなかったから、それを知る唯一の人物に聞いてみたかった。
「どんな人……そうね。とてもいい子だったわ」
「今はどうされてるんですか」
「それが……今は分からないの」
それきり祖母は黙ってしまった。
「ごめんなさい。変なことを聞いてしまって。僕はもう帰りますから」
「いいえ。いいのよ。わたしはあの子にひどいことをしてしまったの」
祖母は言った。
「取り返しのつかないことを、あの子に」
言いたくないけど言わざるを得ない感じだった。人恋しさが饒舌にしたのかもしれない。それか他人だから話しても影響はないと判断されたのだろうか。
そうして祖母は語り始めた。
*
祖母は街で評判のカウンセラーであった。町内会やPTAの役員も務めていて、地域の信頼も篤かった。祖母は対外的にはよくやっていた。
だから、誰も祖母が虐待をしているなんて思わなかった。
「最初は軽い気持ちだったの。うまくいかないことがあって、手をあげた。でも大きくなるとそれじゃいうことを聞かなくなって、エスカレートしていった」
祖母の、お母さんに対する虐待の内容は壮絶だった。興味本位で聞くんじゃなかった。できることなら耳を閉じていたかった。普通人は自分にとっていいことなら過大に話して、悪いことなら過少に話す。だから本当はもっと、自分が想像するより何千倍もお母さんは苦しんだのだ。
やがて、祖母の夫、つまりおじいちゃんが他界した。おじいちゃんはお母さんのよりどころだった。お母さんには、味方がいなくなった。
「わたしはもう耐えきれなかったの。なのに恵美はこんなことを言った。お母さんの問題を私に押しつけないでよ、って。それを聞いて、わたしはまた手をあげた」
祖母の口からはっきりとお母さんの名前を聞いた。呼び捨てにするのはお父さんでもしない。だから本当に祖母はお母さんのお母さんなのだ。
「君にはまだ分からないと思うけど、子育てをしてるとね大変なことがたくさんあるの。言葉は通じないし、変な言い方になるけど動物を育てているみたいに思うときがある。夫が死んで頼れる人がいない。家には恵美と二人だけ。二十四時間一緒で気を抜けない。いくら大切でも手をあげてしまったの」
祖母は虐待という言葉は使わなかった。手をあげるという婉曲な表現を使った。自分のしたことからの逃避だと思った。客観的といえば聞こえはいいけど、対岸の火事の出来事のように聞こえる。すると祖母の皺がかわいらしさから、冷酷さの数だけ刻まれている溝に見えてくる。
「大学生になって恵美は出ていった。スーツケースを一つだけ持ってある日突然いなくなった」
時を置かず、お母さんは上京した。大学まで耐えたお母さんは逃げるように僕の住む町に向かった。
祖母は、夫に先立たれ娘に見捨てられ、新興宗教に手を出した。その頃から霊能力ブームが世間に到来し、怪しい霊能力者を謳うようになる。やがてブームが去ると祖母は必要とされなくなった。もともとのカウンセラーもすっかり廃業していた。
そして今、祖母はこの地で静かに暮らしている。
「わたしはね、後悔してるの。だからここに一人で暮らしている。それが罪滅ぼしになるから」
そう言うと祖母は立ち上がった。どこかへ消えて、一枚のはがきを持ってきた。
「何年かして手紙を送ってきた。手紙はこれ一枚」それを机に置いて、「わたしの孫なの。みんな笑って幸せそうでしょ」
手紙には写真が同封されていた。幼い自分がお母さんに抱かれ顔をくしゃくしゃにして笑っている。隣には沙依がいて、お父さんの足にしがみついている。幸せな自分。陸斗は写真をひっくり返したかった。できない代わりに目を背ける。
「手紙が来てからすぐに返送した。でもその返事はもう何年も来ていない。恵美はきっと許してくれないでしょうね」
祖母の話はそれで終わった。祖母の分のコップに注がれたお茶には手つかずのままだった。
話を聞いている間、穏やかではいられなかった。その証拠におしりをずらして何度も椅子に座り直したし、フローリングに触れた足指は絶えず丸まったままだった。
祖母のしたことは擁護できないことだった。実の娘に暴力を振るうなんてどんな状況でも許されることではない。お母さんが祖母を嫌うのはもっともだ。祖母のことを話したお母さんの顔は苦しそうだった。その憎悪が強すぎて、かつて祖母を取り巻いていた非科学的なもの全般を拒否し続けている。それだけで傷の深さは想像できる。
陸斗は祖母を見つめた。この人はお母さんに向き合っていない。罪滅ぼしだって? 冗談だろう。お母さんはきっと今も苦しんでいる。やり場のない怒りや悲しみ、憎しみをどこにぶつけていいか分からないでいる。なのに祖母は一人で解決した気になっている。話すことで楽になろうとしている。
「それは罪滅ぼしじゃないです」思わず口に出た。「……逃げだと思います」
祖母は陸斗の顔をじっと見た。体は動いていなかったけど小さな目だけが瞬いた。
「娘さんは逃げたくても逃げられなかった。まだ子供だから理不尽な暴力に耐えていたんです。あなたに愛されたいから、黙って、必死で、叩かれた。止めることもできた。なのに……叩いた。愛することをしないで」
お母さんの顔がよぎった。小さく丸まって、自分を守ろうとする幼いお母さんが泣いている。お母さんを助けなきゃいけない。陸斗はその思いを抱えて、祖母に言った。
「わたしは愛していた。娘を、誰よりも愛してた」
陸斗にはそれが自分を愛していたと聞こえた。全部、なにもかも愛する自分を守る自己弁護に聞こえた。
「ならなんで叩いたんですか。本当に大切なら傷つけるはずがない。それとも愛してたから叩いたとでも言うんですか」
「ちがう!」祖母は叫んだ。「わたしは下手だっただけなのよ」
祖母は絞り出すように言って自分を守るように両腕を重ねる。その細い腕にはいくつものひっかき傷があった。陸斗は気づいた。この人も過去に囚われている。暴力の被害者。小さく震える祖母の姿に虐待の連鎖を透視した。
「日下部さんはおかしいです。娘さんは今も苦しんでいるんです。なのに勝手に安らいでる。身勝手すぎます」
勝手に口が開いた。すらすらと流れるように言葉が出てきた。感情が噴出してきて抑えられなかった。
「手紙が返ってこないのは別の理由かもしれないです。文字じゃなくて態度で見たいって。想像ですけど。だから会ってお母さんに直接話してください。ごめんって。受け入れられなくても謝るべきです。贖罪はそこから始まると思います。僕に話したってなにも解決しません。そう、……思います」
だんだんとトーンダウンしていく。気持ちを全部話し終えると静かになった。幽子が黙って袖を引っ張る。それで我に返った。
「……じゃあ、僕、帰ります。色々、助言ありがとうございました」
祖母はテーブルの木目を見つめている。陸斗はお金を置いて立ち上がる。二万円は持っているお金すべてだった。言うべきことはもう言った。この場から離れたかった。
「待って」
祖母は引き留めた。
「そう。わたしは逃げていた。確かにわたしは恵美を見つけなかった。会おうと思えば手段はなんでもあったのに、それを怠った。手紙だって何度でも送れた。返信なんて期待しないで一方通行でも送るべきだった。――怖かったのかもしれない」
祖母の顔が歪む。両手を顔に当ててこする。泣いているのかもしれない。でも涙なんて見たくなかった。本当に悲しいなら涙さえ出ない。涙と感情を見せない人を陸斗は唯一知っていた。陸斗は後ろを向く。
「怖いのは娘さんの方だと思います。ずっと怯えていた。昔も、そして今も、もしかしたらそうかもしれない」
そうかもしれない、じゃなくてきっとそう。過去の亡霊みたいに、祖母の姿はお母さんの背中にのしかかって永遠に呪縛する。それは毎日顔を合わせる自分が一番よく知っている。洗い物を終えた手をタオルで拭く一瞬、買い物袋の痕がついた腕をさすっている仕草、誰にも見られていないと思っているそのとき、お母さんはとても悲しい顔をしている。
「そうね。恵美は怖かった。わたしは理解していなかった。恵美に謝らなくちゃいけない」
祖母は呟いて、それきり黙り込んだ。祖母は自分のしたことの重大性にようやく気づいたようだった。分かってくれたなら、それでいいと陸斗は思った。直接謝罪する気持ちが芽生えただけで大きな進歩だ。
陸斗はつま先だけ靴を履き、玄関の戸を開ける。
「君」と祖母は呼び止めた。手にはお札が握られている。「お金はいいわ。自分のことに使いなさい」
「いいです。助けてもらったのは事実なので。幽霊の成仏に一歩近づけました」
「いいえ。助けてもらったのはわたしも同じよ。これで恵美に謝る決心がついた。だからこれ、持って帰りなさい」
「でも」
「あなたの稼いだお金じゃないでしょ。大事にしなさい」
祖母はお金を両手で渡した。祖母の顔は晴れやかだった。ひょっとしたら会ったときよりも生気が漲っていた。だから本当に謝罪することにしたのだろう。幽子の手がかりは少しだけしか得られなかったけど、それ以上の収穫を得た気がした。
「あなたの幽霊は手厳しいみたいね」
「え、今なんて――」
陸斗は振り返る。最後に祖母はとんでもないことを言った。祖母にその言葉の真意を問いたかった。けれど祖母はすでにそこにはいなくて玄関の戸は固く閉じられてしまっていた。啖呵を切ったあとに引き返せない。だから、それが本当に幽霊が見えたからなのか、想像で言ったものなのか、どういう意図の発言なのか最後まで分からなかった。
*
祖母の家からだいぶ離れたところで、幽子は立ち止まった。ここならもう大丈夫だ。陸斗は黙ったまま右腕を差し出す。一瞬の視界のブレの後、転移された先は家ではなく公園だった。自宅からは歩いて一時間くらいだろうか。めったに来ることはない場所だった。
「なんで公園」
「歩いて帰らない?」幽子はそう言った。
確かに、うんと遠回りして歩いて帰りたい気分だった。帰る場所は一つしかないのに、まるで時間稼ぎをしているかのような足取りだ。
口を開いたのは幽子だった。
「わたし、陸斗に謝りたいなって思って」幽子は目を合わせずに言った。
「謝るってなにを」
「プレゼント。お母さんからもらったことを茶化したでしょ」
「ああそれか。もういいよ、気にしてないし」
すると幽子はどこからともなく袋を取り出す。
「はい、これ」
「なにこれ」
「プレゼント」
はっとした。なかなか受け取れないでいると、幽子は押し付けるように渡してきた。
「はやく受け取ってよ」
「ごめん」
淡いパステルカラーの袋を開けると、さらに小さな布製の袋が出てきた。巾着袋のようで、表面に『必勝!』『合格!』『桜咲く』の文字が力強く迫る。並べられた文字は巨体で窮屈そうだけど、それはそれで内側のエネルギーを感じていいかもしれない。これはお守りだった。それも手作りの。
お守りを凝視する陸斗に、幽子は続ける。
「受験、来年でしょ。陸斗、頑張ってるから必要かなって思って。さすがにキッチンを使って陸斗の好きなチョコケーキは作れないでしょ。バレるから。代わりに――」
幽子がお守りをひっくり返すと、茶色く刺繍された部分が露わになる。三角形に浮かび上がったそれはチョコケーキと胸を張って言える。
「大変だったのよ、そこの刺繍。立体感を出すのに手こずって。やったことない人には分からないでしょうけどね。ああ、糸とミシンはお母さんに借りたわ。物置に置いてあったやつ。だいぶ使ってなかったのね。あ、盗んだわけじゃないからね。本当はゲーセンでぬいぐるみも取ってあげようと思ったけど、わたしには難し……ってちょっと。聞いてる?」
「……あ、ああ。聞いてる。どこに付けようか考えてた。帰ったら鞄に付けようと思う」
「よかった。気に入らなかったら捨てて、って言おうと思ってた」
どこか上機嫌そうにそう言うと、ふふと笑い、幽子は先を歩いていく。
遅れないように後ろを歩くと、目の前がうっすらとぼやけてくるのを感じた。幽子は気づいていない。振り返ることなく進んでいく。まるでこの間の遊園地みたいだ。感謝もできず、ただ立ちすくんでいた。
幽子が自分にしてくれたことを考えて胸が熱くなった。皮肉屋でいつだって刃向かってくるこの女子はもしかして本当はすごく優しいのかもしれない。
それに比べて、自分はどうだ?
陸斗は口を開こうとする。今度こそ言わなきゃいけない。
「幽子」
「なに」
「ありがとう」
幽子と出会って、この日初めてお礼を言った。
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