16
数日経って、次のテストに備え幽子と話し合っているときだった。
「いいこと考えた!」
幽子は壊れたバネみたいに勢いよく立ち上がるけれど、果たしてそれが本当にいいことだった試しが一回でもあっただろうか。
「まあいいよ。話してみてよ」と陸斗は気だるげに答える。
「それはねー……。教えなーい!」
幽子は子供みたいにもったいぶる。
「陸斗だってジェットコースターに乗るときわたしをいじめたでしょ。だからわたしも仕返し」
幽子は顎を上げて見下ろす。その表情は勝ち誇った幼児みたいに憎らしい。けれど慣れというものは偉大で、幽子の突拍子のない言動にもいつしか脳が柔軟に対応できるようになっていた。煽られても乗せられない程度には学習してるのだ。
長くは続かないだろう、と思った。テストを受けるのはこの自分なのだから、いつかは方法を教えてくれるはずだった。
しかし一日、二日と経っても幽子は教えてくれず、痺れを切らして問い詰めようとしても、幽子は壁抜けを駆使して縦横無尽に逃げ回り、予期せぬ熱い鬼ごっこを繰り広げてしまう。そうしてとうとうテスト当日を迎えてしまった。
教室に着いても不安は消えなかった。登校直前まで幽子に詰め寄ったが、頑として譲らなかった。
なんでそんなに教えたくないんだ。どうするつもりだ。もしや、なにも考えていないのか。幽子のことはだいぶ分かっていたつもりだったが、それは氷山の一角だったらしい。あいつは底知れない。
クラスメイトは教科書や参考書を開いて最後のあがきを試している。やれるものならやりたいけど、心がそわそわして定位置に留まってくれない。
「鈴木さん、今日テストなにが出そうかな」
教室の真ん中で声がした。意識の半分をそちらに傾けると、鈴木波蒼が女子に話しかけられていた。しかし鈴木波蒼はそこに人なんていないみたいに、沈黙を貫く。沈黙というものに世界記録があるのなら、きっといい線いくだろう。
「ごめんね……忙しかったよね」
哀れ。クラスの女子は一言も応対されずに立ち去る。少しくらい教えてやってもいいのに、と思う。それで鈴木波蒼の成績が下がるわけではないのだから。
「おーい、席つけーー」
監督の先生が入ってくる。蜘蛛の子みたいにクラスメイトは一斉に散らばり席に座る。視線が一斉に時計に向かった。あと一分でチャイムが鳴る。
テスト用紙が一斉に翻された。陸斗も少し遅れてそうする。
幽子は最後までなにもしなかった。ここまで来たら期待するだけ損だ。結局は独力で解けということなのか――と思ったとき。
ふと、窓の外からコツンと音がした。最初は気にならなかった。小石が風に舞い上がっただけだろう。けれど、もっと大きな音がして陸斗は反射的に窓の外を見てしまう。校庭には幽子がいた。サッカーボールを抱えて。
「はあぁ!?」
間抜けな声が出てしまう。なにやってるんだ。それに隣のボールはなんだよ。もう気づいてるって!
監督の先生が厳しい視線を送る。静かにしろと威圧的な視線だ。
陸斗は小さく謝り、咳き込んでごまかす。
外では幽子が楽しそうに手を振っている。教室の緊張感と校庭にいる呑気な幽子。そのコントラストが不自然でおかしかった。幽子は校庭から教室に向かって手を離れた風船みたいにふわりふわりと漂ってくる。窓ガラスを音もなく突き破ってどんどん近づいてくる。
来るな来るな来るな。念じても通じず、通じてもきっと拒み、拒んだ上に力技でねじ伏せる幽子である。あっという間に隣に立っていた。
「楽しんでる?」
自分の声が聞こえないのをいいことにそう訊ねてくる。
――こっちは話せないんだよ!
口パクで語ったら、幽子はふふっと笑って、陸斗の背後に回る。
いきなり体がずらされる感覚がした。そうしてなにかが込み上げる感覚。
体のなかに幽子がいた。腕が、指が勝手に動かされていく。
テスト中だから怒ることもできない。パニックになりそうだった。すると、幽子は余白に文字を書き込んでいく。
――動かないで。悪いようにはしないから。
それで幽子がしようとしていることが分かった。幽子は代わりに問題を解こうとしていた。
一か八か身を任せた。骨が抜かれたみたいに脱力する。緊張が解きほぐされ、頭が明晰になっていく。頼むぞ、幽子。心のなかでそう願った。
テストが終わった。達成感はなかった。でも満足のいく結果だということは、空欄なく埋められたテスト用紙を見れば一目瞭然だった。
*
水曜日になってテストが返ってきた。同時に順位も判明する。先生は一位、鈴木波蒼という当然の名前を読み上げる。しかし次に続いたのは渡辺陸斗、まごうことなき自分の名前だった。その瞬間、クラスでちょっとしたどよめきが起こった。視線が陸斗に集中する。そういうのに慣れていないから顔が紅潮してしまう。
家に帰って、悶々としながらそのときを待っていた。夕食の時間になると、いただきますも言わずにお母さんに見せた。
「お母さん見て、二位、二位だよ。点数もほら」
興奮が抑えられなくていつもの敬語に自制できない。地の底から天に向かうのはこんな気分なのか。高揚感が胸のあたりをずっと回転している。この僕が二位なんて! 信じられなかった。
陸斗はお母さんに赤ペンの部分を強調して見せようと、食事中だけど立ち上がってしまう。テストの点が見えたのか沙依は目を見開いた。
しかし肝心のお母さんの反応は思いのほか冷たかった。
「二位ね。一位の子と会いたいものだわ」
「えっ」
「だって、まだ上がいるんでしょ。一位と二位の間には、それくらいの差があるの」
「うん。……もっと、頑張ります」
陸斗はそう言うしかなかった。熱気が急速にしぼんでいく。
「でも、向上していることは認めるわ。――沙依」
呼ばれた沙依は、はいとだけ言った。
「交換なさい」
「え?」
「料理」
「でも、まだ一口も食べてないです」
「口答えするの? あなた下がってるでしょ、成績」
意外だった。万年一位の沙依でも低迷することがあるのか。
陸斗は断ろうと思った。別に交換されなくてもいい。確かにいい食事は摂りたいけれど、今はおなかが空かない。でもお母さんは有無を言わせなかった。
「これはルールよ。前に決めたでしょ。ルールは絶対。そこに理由なんていらないの」
動かない二人をよそにお母さんはお皿を交換する。すると、沙依は急に椅子から立って早足でキッチンに向かった。なにか嫌な予感がする。陸斗も急いで後を追った。沙依が包丁を持ったところで、つい荒っぽく腕を掴む。
「痛いんだけど」
沙依は冷めた様子で「果物、切るから」と言った。それは先週のテストで獲得したものだった。
ほっとした。沙依が頭に血が上って、なにかをしようとしているのかと勝手に変な想像を働かせてしまった。陸斗は食卓に戻った。お母さんがため息を吐く。
「勝手に食事から離れないこと」お母さんが言った。
返事をして、食事に手を着ける。その晩の食事は、いつもよりずっと苦い味がした。
*
「ごめんね。でも、ああでもしないと陸斗、嫌がるでしょ」
部屋に戻ると幽子は手をバタバタと動かして、そう弁解した。学校での出来事を話していた。
「もちろん。分かってたら止めてた。だって幽子、乗り移りなんてしたことがないって言ってたろ。うまくいくはずがないし」
「まあね。でも結果はよかったじゃない」
半分正解で半分不正解だった。テストの点はよかったけど、お母さんは満足していない。
「で、どんな感じだった」
「どんな感じって」
「わたしが陸斗のなかに入った感じ」
「それは回答に困るな。変な感じだった」
「なにそれ。イメージ沸かない」
「落ち着かなくて浮遊感があった。ちょうどジェットコースターの落ちる瞬間がずっと続くみたいな」
「げ、それはやだね」
「だろ。だから今後は乗り移り禁止。あと僕の許可がないと学校に来ちゃダメだからな」
「えーーー。楽しかったのに」
「幽子だけだろ」
言ったものの正直少し笑ってしまった。笑顔を引っ込めて、ツイッターを見る。
二位じゃダメだった。お母さんは頂上しか見えていなかった。だから、こうするしかなかった。陸斗は指を上下左右に滑らせて文字を打ち込む。
――僕は昨日いい点数を取った。それはテストの内容を知っていたからだ。次のテストには問題集の百五十ページ目がそのまま出る。そこだけやれば完璧。
賭けだった。卑怯な手段だと思うけど、順位が伸びきらない以上こうするしかない。急激に成績が上がったから嘘の山掛けをしたら信じる奴も出てくるだろう。一抹の罪悪感を脇にどけて、投稿ボタンを押した。すぐに、いいねがついた。罪悪感は成績には邪魔な存在だった。
念のため過去のツイートを見てみた。以前上げたイラストには役立つコメントはついていなかった。バッシングのコメントは日に日に増えている。でも、いいねの数がそれを超えようとしている。
陸斗はスマホを机に置いた。
外見からの推理、イラストでの呼びかけ、記憶の調査……どれも殻の表面を少しずつ削っているだけで、核には迫っていない。今分かっていることは、僕にだけ見える外見。そこから推測されるおおよその年齢。そして映画、蜘蛛、センター。
さらに進展させるには、もう一人加えることくらいしか考えられない。誰か、役に立つ人物。
はっとして、ある人物が思い浮かんだ。思い浮かんだ瞬間、最適解だと確信した。
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