15
「映画、センター、蜘蛛――本当にこれが記憶にあったのか」
「間違いないって」
突拍子もないワードの羅列に、発言した方もされた方も黙り込んでしまう。
現実的なストーリーにするために三つのキーワードを何度も並び替えた。
まず『蜘蛛』の出てくる『映画』だと『センター』は余る。次に『映画』『センター』の『蜘蛛』。センターを施設と読み替えて、映画館に出現する蜘蛛にしてもおかしい。ただの掃除の行き届いていない映画館だし、そんなのってないだろう。最後の『センター』『蜘蛛』の『映画』はもはやあり得ない語順。
他も同様だった。理論上六通りしかないはずなのに数学のテストより難しかった。これだと思えるストーリーなんてどこにもないように思えた。
あるいは、最初から一行にまとめようとするのが間違いなのかもしれなかった。例えば三つのワードは長い長い物語全体に散らばっているキーワードということもあり得た。しかし、そうすると他の様々な要素も絡んでくるから、限定された組み合わせは無意味になり、イメージは際限なく広がっていってもはや掴むことはできないだろう。『蜘蛛』や『映画』等のワードが出てくる物語ならなんでも成立してしまうのだ。
さらにいえば、このワードは重要な鍵ではないことだって考えられる。幽子がたまたま思い出しただけで、それが真相に繋がる鍵かどうかなんて保証はない。桃太郎という真相に辿り着きたくても『鬼』や『桃』じゃなく、『おじいさん』や『おばあさん』という、物語を特定しない要素を抽出してしまうことだってあり得るのだ。
「なにかの象徴かもしれない」と幽子は言った。
「象徴ってたとえば」
「センターはシンボルとか、アイコンにも置き換えられるんじゃない」
「なるほど」
ワードの意味自体を拡大するのはいい考えかもしれない。
『蜘蛛』が『中央』にある『映画』。そんな映画がなかっただろうか。まだ映画が禁止されていなかったころ、怖いもの見たさでホラー映画を調べた。虫が女性の鼻に止まるポスターを見た気がしたけど、あれは蜘蛛だったか、蛾だったか、いまいち思い出せない。なんとかの沈黙というタイトル。
「蜘蛛って日本ではどちらかというと忌み嫌われる存在でしょ。でもある国では幸運のシンボルらしいの」
幽子はホラー映画とは真逆の発想を持ち出してきた。
「あんな気持ち悪いのに。幸運ね……。もし、幸運のシンボルだとしたらどうつながる」
「それを考えるのが陸斗でしょう」
幽子は幼い子供に言い聞かせるように言った。
しかし、蜘蛛を幸運の象徴と捉えたところで想像の幅が広がるだけで、具体的な一本の線を見つけることはできなかった。
だからキーワードの一つ、『映画』に当たるためにひとまず映画館に行くのは当然の流れに思える。時間を浪費するよりはマシ、と言ったのは幽子だった。幽子は完全に、動いてから考えるタイプの人間で自分とは真逆の思考の持ち主だった。猪突猛進という四字熟語に両手両足を生やしたらきっと幽子が完成するのだ。
「映画館に行ったら、映画を見ないと不自然よね」
幽子はチケット売り場の電光掲示板を見た。そこに上映中の作品が並んでいる。
「だったらあれにしよう」
陸斗は映画館に入ってすぐのところにあった一枚のポスターを見上げる。一瞥して感動系の映画だと分かった。どうせ見るならストーリー重視の方がいい。
「陸斗とはつくづくセンスが合わないね。わたしだったらこっちにする」
対して幽子が指差したのは、筋骨隆々の外国人男性が躍動するアクション映画だった。見かけによらず、暴力的な映画が好きらしい。つくづく内面と外見が一致しない奴だと思う。案外、頌大と性格が合うかもしれない。頌大もアクション映画が好きだった。
もしも頌大と幽子を対面させたらどうなるだろう、陸斗はそんな妄想に耽る。
二人とも活動的だから遊びまわってそうだ。カラオケに行って喉を枯らし、花火を互いに向けて怒られて、そんな青すぎる青春を送るのだろう。そのとき僕はどこにいるのだろうか。まだ勉強しているのだろうか。――ま、そんなことは起きないのだけれど。そんな未来は存在しないのだ。
なんの映画を見るか話し合っても決まらなかったから、運に賭けることにした。
「じゃあ、じゃんけんしかないな」
「ええ、恨みっこなしよ」
「「じゃん、けん――」」
結局、映画は陸斗が選んだ方に決まった。今回も入場料を払わず、チケット係の後あたりに転移する。
「よしっ、と」
チケット係が気づいていないことを確認してから、幽子は服を整えて歩き出す。
まったく神様の柔軟性には驚くばかりだ。いっそこのままずっとこの能力のお世話になりたいくらい。学校行って、塾行って、旅行だって自由自在。もっとも、そうなると幽子が永遠に隣にいるということを受け容れないといけないのだが。
上映開始直前を見計らって、するりと端っこの席に腰掛けた。さすがに後ろの席は人気がないから空いている。それでもチケットがないことがバレないか、予告編が始まる瞬間までびくびくしていた。
暗転して、映画が始まった。
難病の女の子が、男の子と交流する話。簡潔に言うとそんな映画だった。数多ある映画の一つで、こういう機会がなければ見ることがないだろう。それでも来てよかったと思う。しばらくフィクションから遠ざかっていたからか、乾ききった体に物語が染みこんでいって、所々の場面では込みあげるものがあった。それはこの作品が、避けられない別離をテーマにしているからだろうか。
幽子はどうだろう。何度も幽子を気にかけてしまう。なぜだろう。目を離したらその場にいないような気がした。
幽子の瞳はスクリーンに吸い込まれている。映像が瞳のなかに煌めいて、もう一つの小さなスクリーンみたいだ。
幽子には大切なことを聞いていなかった。成績が向上し、幽子の死の真相を突き止めれば、幽子は成仏する。ここまでは把握している。けれど、これはあくまで成績と幽子の死の真相が対等だから成り立つ話だ。もしも先に成績が上がりきってしまったら、幽子はどうなるのだろうか。神様はパートナーに選んでくれたけど、もしも抜け駆けして成績が上がるようなことがあったら、残された幽子はどうなるのだろう。
避けられない別れ。陸斗はスクリーンを見ながら、そんなことを考えてしまう。
スクリーンの上のヒロインは、やりたいことリストを消化しおえて、いよいよそのときが迫っていた。その姿が一瞬、幽子に重なる。
陸斗は頭を振る。ダメだ。せっかく映画に来たのだから集中しないと。幽子が映画を選択したのは潜在的に訴えるなにかがあったのかもしれないのに、これじゃ手がかりなんて見つかりっこない。成績云々は、映画が終わってから考えればいい。
姿勢を正して物語を全身で感じ取る。せめて残り時間くらいは映画に集中しないといけない。陸斗は登場人物の背景さえも見逃さないようにスクリーンに目を凝らした。
*
映画が終わり、観客はぞろぞろとスクリーンを離れる。陸斗たちもその流れに沿って、映画館を後にした。人の流れから抜け出すと、幽子は陸斗を見て小さく吹き出す。
「なんだよ。なにがおかしい」
「なんでもないよ」
「絶対嘘だね。思ってることがあるだろう」
幽子が笑うといつも自分のことかと疑ってしまう。そして大抵の場合それは的中する。唐突な幽子の笑いは、人の感性を馬鹿にされているようで気分が悪くなる。
「映画はよかったよ。でも陸斗はよくない」
「よくないって」
「なんかチグハグだなって。ツイッターであんなにバチバチ炎上してたのに、感動できるなんて。話してるときの陸斗と、ネットの陸斗が乖離してるの」幽子は困ったように言った。
「それとこれとは別じゃん。感動はするよ。大切な人が死んで、悲しい。毎日が希少だから一生懸命に生きなきゃいけない。っていう映画でしょ。よく生きようって、考えることもあった」
「それは持続しないモチベーションでしょ。瞬間的な発熱で、一過性だと思うよ」
「なんで決めつけるんだよ。僕はもっと頑張るんだ。勉強も人生も」
陸斗は自分に言い聞かせるように、強く言い切った。
「どうだかね。どうせ、どれだけ感動していても、どれだけ難病の子が頑張っても、たとえノンフィクションであっても、いつかは忘れて怠惰な日々を過ごし、君は質の高いマスターベーションをするんでしょ」
「マ、マスターベーションって。女子がそんなこと言うなよ」
「質の高い、ね」
「僕が言ってるのはそっちじゃない!」
恥ずかしい。誰かに聞かれてないだろうか。陸斗の焦りをよそに、幽子は冷ややかに言う。
「さ、次行くわよ」
「行くって、どこへ」
「ゲーセンよ!」と幽子は陸斗の手をがっしりと掴んだ。
*
「センターってそういう意味じゃない気がするけど」
「ああ、これは別にただ遊びたかっただけ」
幽子はあっけらかんと言って、小銭に両替する。そのお金はなけなしの貯金だということを分かっているのだろうか。
「遊びよりも手がかりをみつけないと」
「気分転換しないと、いい発想はでないでしょ」
ゲームセンターは映画館の隣にあった。だから転移なんか必要なかったけど、少しでもカロリーを節約できれば、それだけ食事の量が少なくても平気になる。お母さんの格付けが待っているから、甘んじて転移に応じたのだった。
陸人がいるフロアはクレーンゲーム中心のようだった。狭い敷地のなかに業務用の冷蔵庫みたいな大きなクレーンゲームがいくつも並んでいて、すれ違うのがやっとだった。それぞれのゲームからは喧しい電子音が流れている。大きな音が固く混ざり合っていて一つ一つの音を聞き分けるのにも一苦労だ。空調が効いているから暑くはないが、空気に色が着いているようで禁煙なのに視界が悪い。
「幽子、うるさくないの」
「平気。わたし、騒がしいの好きだし。ほら人ごみって安心しない? あ、生きてるなーって感じがしてわたしは好き」
幽子は平然と奥に進み、クレーンゲームのなかで一台を見定め、お金を入れる。明るい音がして、貧弱なアームがぎこちない挙動で動いていく。
「でも遊ぶのは気が引けるよ。今日はそもそも――」
塾をサボっていた。一度目はお母さんのあのショッキングな言葉を受けたからだったけど、今回のは違う。正真正銘の自発的なサボりだ。そんなことは今までしたことがなかった。一応、幽子の手がかりを見つけるという免罪符があるにせよ、もちろんお母さんには言えない。だから自分自身に対する免罪。それでもサボることを決めたのは、前回、塾の先生がお母さんに連絡しなかったことを思い出したから。塾の先生は学校と違って良くも悪くも干渉してこないことを学んだ。
「あーダメだった。今の絶対取れてたのに。おかしい、おかしすぎる」
陸斗の懸念をよそに、幽子は大切なものを失ったみたいな声を上げてうなだれる。今にも操作パッドを叩きそうだ。狙っていた獲物を落としたらしい。でも、よくそんなにムキになれると思う。
「もういいだろ。そろそろいこうよ」
「さ、次は陸斗の番よ」
言われてフリーズしてしまった。それが溶けきると、
「僕はいいよ」
「堅いこと言わない。ほら陸斗もやってみる」と幽子は背中を押した。
「いいって。なんでやらなきゃいけないの」
「はあー……。陸斗ってなんでも理由を求めるよね。理由がないとなにもできないの」
幽子は馬鹿にするように言った。
「じゃあ一回だけだからな」
仕方なくやることにした。でも一回だけだ。知り合いがいないとも限らない。こんなことお母さんにバレたら大変だ。サボりだけじゃなく、ゲーセンに言ったことが発覚すれば処罰は免れない。やることを決めたら、幽子は満足な表情を作った。自分が得するわけではないのに、なんでそんな顔ができるのだろう。
陸斗はお菓子のクレーンゲームに陣取った。隣で幽子が見ている。なんかテストの監督をされているみたいだ。機械音声に従い慎重にアームを動かしてみると、スナック菓子が軽い音を立てて落ちた。幽子は自分の私物みたいに落ちてきたスナック菓子を懐に入れる。万引きの速度だった。
「陸斗、すごい! わたし全然ダメなのに、素質あるじゃん。やったことがあるの」
幽子は大きな声で言った。拍手なんかしている。こんなのビギナーズラックだろ。
「全然。やらせてもらえなかったし」
「だったらなおさらすごいよ。適性あるかもね」
「そんな適性あっても意味ないよ」
そう言ったものの褒められたことは純粋に嬉しかった。遡ってみても最後に誰かに褒められたのはいつか思い出せない。うっかり表情が緩んで、すぐに立て直したけど幽子は見逃さなかった。
「今ちょっと嬉しかったでしょ」
「うるさい」
幽子の方を見ずに、二回目の百円玉を入れた。さすがに次は取れなかったけど、三回目、四回目と中毒になったように課金してしまう。お菓子が取れると幽子は喜んだ。まるでパブロフの犬状態。リュックのなかはお菓子でごわごわと膨らんでいき、ちょっと動くだけでお菓子の袋がスペースを奪い合う音がする。
家でやるゲームの方が好きだからすぐに飽きると思った。でも気づいたら別のフロアにいた。銃で敵を撃つゲームや格闘ゲーム、一通りのゲームをしてしまった。幽子に誘われて寄ったのに、幽子を誘ってカーソルを操作していた。
「楽しそうだね」
「そう見える」
「うん。陸斗、初めて笑った」幽子が笑った。
もう隠せなかった。やっぱりゲームは楽しかった。お父さんが死んですぐは、買ってもらったゲームをやる度に、お父さんのことを思い出して楽しめなかった。それにお母さんには勝ちを強調されていたし、勉強のためだからといっていつしか遊ぶこと自体禁止されていた。
塗装の禿げたボタンを手早く押していく。コントローラーの引き金を軽く弾く。
夢中だった。勉強と違って勝負の面が強いし、運や確率が影響することも楽しかった。
最後はクレーンゲームで締めくくることになった。幽子は大きなぬいぐるみが景品となっている一台を選ぶ。今度は幽子に交代。これが取れたらたいしたものだ。
それにしても、と思う。幽子に話しかけられるまでなんのためにここにいるのか忘れていた。それくらいのめり込んでいた。
そんな気持ちを読み取ったのか、幽子は「将来なにかなりたいものとかないの」と迷いない手つきでアームを操作しながら聞いてきた。
陸斗はしばらく考えた。
「公務員かな」
「それはお母さんの願望でしょ。わたしが聞いているのは陸斗の希望」と笑った。
「そんなのないよ」
本当になかった。中一のとき、総合的な学習の時間で将来就きたい職業を考える機会があった。クラスメイトから聞こえてくる話は夢に溢れていた。夢を見られるのは羨ましかった。でも一方で、手あかのついた他人の夢を感染(うつ)されたくない気持ちもあった。
クラスメイトは口々に医師になる、役者になると言った。簡単に即決して宣言した。陸斗は思い浮かばなかった。職業が羅列してある本にも心が動かなかった。なんで、このなかに自分のなりたいものがあると決めつけられなきゃいけないんだろう。もっと外側を見てみたかった。
二年に進級すると、医師になりたいと言っていた奴はあっけなくサラリーマンに鞍替えした。そんなものなのか、と内心陸斗は思った。夢を持つ者に対する憧憬はあっけなく冷めてしまった。なりたくても目指せない人だっているというのに、熱情は続かなかったのだ。あとで聞いたところによると、そいつはクラスメイトから中傷されていたことを知った。無理だ、と陰で言われ続けていたらしい。
そのころからだった。夢も現実的じゃないといけないのかもしれない、と考えるようになったのは。みんなと同種の色じゃないと笑われる。
みんなが着ている制服や校則みたいに、同じ溶液に浸る。まあそれの方が楽だし、安心できるのだけど。
一年のとき多数に属するのが嫌だった。二年になって多数に属する方がよかった。今もそう。同一性に安心する。自分だけは違うのが大嫌いだ。だって世界からつまはじきにされるから。同じになることで世界と接続されるのだ。
でも、こういう心変わりは自分でも時々腹立たしい。やってることは医師の夢を一年程度の短い間さえ持続できなかったクラスメイトと同じことだった。ダサい豹変だった。合唱コンで非協力的だったのに本番が終わって突然うるうるしちゃう、はしたなさに肌触りが似ている。
「僕には決めようがないんだ」
取りかけていたぬいぐるみが、落ちた。まだ操作できるのに幽子は手を止めた。ガラスの向こうのぬいぐるみをじっと見ている。その表情はうかがえない。
「決めようがないって。陸斗の人生でしょ。好きなように生きる権利がある」
「僕は生かされてるんだ。好きには生きられないよ」
最終的には公務員を選んだ。いや、むしろ選ばされたと言った方がいいかもしれない。選択肢はなかった。お母さんは安定的な未来を喜ぶ。だから陸斗は決断した。積極的で消極的な選択を迷いなく、強い筆圧で用紙に記入した。本心を悟られないように。
「それと、もう一つ聞きたかったこと」幽子は言った。
「尋問されているみたいだ」
「なんでお母さんに敬語なの」
「さあ……なんでだろう」
昔はそんなことなかった。いつの間にか敬語に移っていた。声変わりのように急ではなく身長が伸びることより遅くはない。中間のスピードだから気づかない。
でも心当たりはある。たぶん、ママと呼ぶのをいじられたときから。呼び方がママからお母さんになるときに、矯正されていったのだろう。
「今から戻せないの」
「今更おかしいじゃん」と薄く笑った。
「おかしいことなんてないよ。家族なんだから。わたしからしてみれば、今の話し方のほうがよっぽど変わってる」
クレーンゲームは次の操作を待っていた。ボタンを押してくださいという機械音が空しく繰り返す。でも幽子はそのままにしている。
「そういう家族だっているだろう。家族のなかにも礼儀がある」
「礼儀じゃなくて、それじゃ距離だよ」
幽子が言った。優しいような、それでいて悲しいような声色が楽しい音楽のなかに埋もれていく。
「言葉が変わって、態度が変わって、そのうち関係だって変わっちゃうよ。それでいいの」
幽子の口調はなぜか切実だった。他人の家族なのに、どうしてそこまでかかわろうとするのだろう。
「また名言かよ。もう騙されないぞ」
「違うって。うまく言えないけど、家族が他人みたいだよ」
幽子の言葉はさっと消えることなく胸に沈殿した。毎日持ち帰らないといけない教科書の束みたいにずっしりと重たい。家族が他人。幽子には僕がそう見えているのだ。
「もう時間ないから行くぞ」
「あ、ちょっと」
話を切り上げたかった。歩き出すと、ストラップみたいに幽子が着いてくる。
結局、クレーンゲームは途中のまま放置してきた。薄い自動ドアが開くと急速に音が失われて、平穏が戻ってくる。もう一度自動ドアの向こうのクレーンゲームを見る。アームは途中で止まったまま。願わくはあの大きな猫のぬいぐるみを誰かが救ってくれれば。そう思った。
*
神社は恋愛成就で有名なスポットだった。キーワードの『蜘蛛』と幸運を結びつけたらこの神社に行き着いた。
「人、たくさんいるね」
「ああ。有名だからね」
陸人は境内を眺めた。普通の神社で特筆すべきことはない。幽子に関係するものはなさそうだった。幽子もとくに反応することなく、小さな神社はすぐに調べおえそうだった。
せっかく来たからおみくじを引くことになった。幽子は蛇腹になったおみくじを広げると、「大吉」と見せつけるように言った。続いて開こうとしたとき、
「――ねぇ好きな人とかいないの」
幽子は唐突に言った。答えないでいると、
「いないよね。きっと」
聞いといて決めつけてきた。
「なにか神社で思い出すものはあるか」
「あ、話逸らした。ひょっとしているの」幽子は前のめりになった。
「別に」
おみくじを見せないように開こうと後ろを向くと、幽子は先回りする。
「別にって。いるか、いないかでしょ」
「なんでそんなこと急に聞くんだよ」
「ここ恋愛成就で有名なんでしょ。それで連想して。で、どうなの」
「好きな人っていないといけないの」
「いや、そんなことないけど」
珍しく幽子がたじろいだ。いると思って聞いてなかったらこんな反応はしない。
好きな人の話になるのは、学生なら確定のイベントだ。でもその話になると、いつも距離を置いていた。腫れぼったく膨らんでいく恋愛トークは苦手だった。執拗に好きな人を聞かれる魔女裁判めいた尋問が嫌だった。
好きという気持ちはある。でもそれは、ゲームが好きとかブランドが好きとか、物体に対する好き。それか、遊んでくれる頌大が好きとか、綺麗好きの校長先生は尊敬できるといった意味の好感だった。恋愛の好意はなかった。
「なんでみんな好きな人がいて当然と思っているわけ」
「それは……それが普通だから」
「普通ってなに。いないと異常ってこと? それは誰かにとっての常識だろ」
「そんなに怒らなくたっていいじゃない。軽い雑談なのに」
「怒ってないよ。でも僕は嫌なんだ。そうやって、いて当然の態度を取られるのが」
「ごめんって」
幽子はしゅんとして言った。怒っていないと伝えたのに効果はなかった。ようやく、おみくじを開こうとすると、
「じゃあ尊敬する人は」
正直、うざったい。お見合いしてるんじゃないんだぞ。
「尊敬する人ならいる」
「お母さん以外で」
「うん」
「謝罪の証に出してあげようか。会ったら嬉しいでしょ。大サービス」
「無理だよ」
「どうして」
「お父さんだから」
またしても沈黙が訪れた。こういうとき都合良く強風が吹いて、気まずさを取り払ってくれればいいのだけれど、そんなことは現実には起きえない。
幽子の世間話はまだ続きそうだった。マグロは泳いでいないと死ぬというけど、幽子は喋っていないと死んでしまうのだろうか。
陸斗はおみくじをポケットにしまう。ここで見るのは諦めた。
「普通……じゃなかった。一般的に、尊敬する人って偉人とかそういうのを挙げる人が多いでしょ。でも陸斗はお父さんなんだね」
「ダメかな」
「その逆。感心してるの。――お父さん、優しかったんだね」
そう言われるとは思っていなかった。少し意外だった。
「うん。僕と違って人間できてた」
「大人だから。いつかは陸斗もなるんだよ」
幽子は言った。言外のニュアンスに、わたしはなれないけどという含みを感じて悲しかった。幽子は直接感情を訴えることはしなかった。悲しい気持ちにさせない。いつだってポジティブな幽子だった。同情をされたくないという気持ちが滲み出ている。
「家族は大切なんだ。姉を除いて」
お父さんは好きだ。お母さんも好きだ。でも姉だけは好きになれない。沙依はいつもいじめてきた。
「それじゃ家族じゃなくて、お母さんだけじゃん」
「そうかもしれない。今となってはお母さんだけだよ」
そこで幽子は向き直る。改まった様子に身構える。
「ねぇ、怒らないで聞いてほしいんだけど、本当に常にお母さんが正しいと思ってるの?」
幽子は言った。いつもの調子を隠して、いたく真面目なトーンだった。
今日はやけに質問が多かった。まるで転校初日みたいに。けど、これで分かった。今までの質問はこの布石だったのだ。幽子はなにか本当に、言いたいことがあるみたいに見えた。でも直球で聞いても答えてくれないだろう。のらりくらりと躱されてしまうに決まってる。
「いつか自分の思いを出せる日がくるから、それまで我慢するべきだ。上司のパワハラを受けても、堪えて耐えればいつか自己実現できる日が来る」
「へ?」
幽子は面食らったような顔で言った。
「どういうこと?」
「お母さんからもらった本に書いてあった。僕が気に入った言葉」
「それは分かるけど」
「それがすべてだよ。若い頃は自分が絶対正しくて譲らない。ほとんどが間違っているのにそう思っちゃうんだ。なかには本当に正しいことも混ざっているかもしれない。そしてその正当性を主張しても、押さえつけられてしまうから余計反発する。だから憤るかもしれない。でも、その正しさは、大事に自分のなかに取っておけばいつか日の目を見ることができる」
「つまり?」
「だから、僕はお母さんの言うことを聞くんだ。いつかは僕が頑張っていたことを認めてくれる日が来る。それまでは勉強するしかない」
「答えになってないよ。お母さんは常に正しいと思ってるの」
「思ってるさ。僕のお母さんだぞ」
はっきりと言った。お母さんは間違えないのだ。否定されているみたいだったから、名誉のために伝える必要がある。たった二か月しか一緒じゃない幽子になにが分かるっていうのだ。
「その信念はすごいと思うよ。でも、陸斗がそう思うのはいいけど、あんまり妄信しない方がいいよ」
「なんで。幽子、なにか知ってるだろ」
「なにも……知らない」
嘘だ。幽子は隠している。あまりにも不自然だった。
「嘘つけ。余計なことすんなよ。幽子は点数だけ上げていればいいんだ!」
だからついキツく言ってしまった。
「そんな言い方ってひどい。わたしにだって自由はある!」
「従順であることは自由であるって名言を作ったのは誰だっけ。今更取り下げるのかよ」
「残念。強制されることは不自由っていう前半が抜けてる。覚え間違いが、知ったかぶりに繋がるんだよ」
幽子は言い返してきた。
いつもそうだった。幽子だけは思い通りにいかない。折れてくれない。噛みついて離さない狂犬みたいだ。ネットとは大違いだった。ネットの炎上は平面的だけど、なまの口論は立体感があって憎たらしさが倍増する。
「もう質問は禁止だ。僕のお母さんは幽子に関係ないだろ。僕にばっか任せないで、手がかりに集中しろよ」
そう言って、砂利道を歩き出す。踏み鳴らすように歩く。なにかに当たりたかった。サンドバッグ的なものに思いきり不満をぶつけたかった。
「まだ話は終わってないのに」
幽子も遅れて着いてきた。足取りは勝者のそれだった。
神社には手がかりがなかった。それどころか映画にも。行き詰まりは見えていた。『映画』や『センター』は想像が広がらなかったから『蜘蛛』に託した。いよいよ『蜘蛛』というワードの新しい引き出しを見つけないといけなかった。
*
蜘蛛を見つけに爬虫類館を目指した。爬虫類館は確か両生類、珍しい虫も扱っていたはずだ。
爬虫類館には歩いて二十分くらいで着いた。幼稚園の頃からあったから、その場所は体で覚えていた。緑色のトカゲを模した特徴的な建物が有名だった。なのにその場所には空き地が広がるだけ。
呆然としていると、近くの家からおじさんが出てきた。簡単な用事を済ませるためか、外出にしてはかなりラフな格好だった。
「あの人に聞いてみよっか」
それが早そうだった。人がよさそうだったから、話しかけてみた。
「ここにあった爬虫類館知りません?」
「ああ、それなら移転したよ」
えっ、と大きな声を出してしまった。
「移転? なんでですか」
「なんでも老朽化が進んでいて建て替えたらしいよ。だいぶお金をかけて建てて、規模も相当らしい。やっぱりドラマのおかげなんだな」
「ドラマ?」
「ああ。ペットをドラマに出演させたり、お店自体を撮影に使ったり、かなり色々やっていたみたいだ。丸儲けさ」
まさか、と思った。なにか重大な手がかりに触れそうな気がした。迷わず聞いてみた。
「すみません。そこで過去に映画を撮ったなんてこと聞いたことがないですか」
早口で言った。詳しく聞く必要があった。
「あー……どうだったけな。なにしろ移転したのはだいぶ前だから」
「そこをなんとか思い出してもらえませんか」
「うーん。いや、そういえば……あったあった。映画の撮影をしていたよ。かなり長期間の撮影で今立っている道路に迷惑駐車が跡を絶たなかったんだ。あのときは参ったよ。地元の人じゃない人も大勢来て。店は潤ったみたいだけど、住んでる奴は迷惑被った」
疑問が確信に変わった。
「移転先はどこですか」
「駅の大通り沿いから少し歩いたところだったと思うけど。君、ここら辺の人だよね」
大体の目安をグーグルマップで確認した。おじさんの太い指が画面を指さす。示された場所を見て驚いた。それはこの町の中心部だった。
爬虫類館は『映画』に使われた。それが町の『中心』部に移転した。そこに『蜘蛛』がいることは想像に難くない。映画、蜘蛛、センター。鮮やかに繋がった。あとはそれが幽子に繋がれば万事解決だ。
おじさんにお礼を告げて、歩き出す。空はまだ青くて、日の当たる建物の一面だけが切り取られたみたいにオレンジに光る。色を節約したルービックキューブみたいだった。
夜が忍び寄っている。すぐに示された場所へと向かった。
*
画像がなかったから、ひとまず大通りに転移した。歩いている間は否が応でも期待は膨らんでいった。奇跡が起きたのかもしれない。解決の糸口が見つかったかもしれない。言葉が少なくなり、早足が駆け足に変化する。もしかしたら、と隣にいる幽子も興奮している様子だった。
十分ほど歩いたところにそれはあった。建物の前には弛んだ長い紐がわたしてあって入れないようになっていた。アスファルトの隙間からお弁当に入っている仕切りみたいな草が足首あたりまで伸びている。シャッターにはスプレーで卑猥な言葉が落書きされている。休業という感じではなかった。
これが爬虫類館なのだろうか。にわかには信じられなかった。
ネットで調べてみると、地元の出店退店をまとめたブログが引っかかって、六か月ほど前に廃業していたことが分かった。記事を指でスクロールしていく。
爬虫類館はその取り扱っている種の珍しさから、たびたび映画やドラマに利用されていた。そこで本業の動物販売に加え、観光スポットやふれあいの場としての発展を目指したようだ。客数は増え、従業員も雇う必要がでてきた。しかし長続きはしなかった。
原因の一つに近くに犬猫ふれあいカフェができたことがあった。爬虫類よりも犬や猫の分かりやすい愛しさに客が流れてしまった。悪いことは続き、蛇が脱走する事故があった。管理者の責任を詰る放送が連日のように続く。味方だったはずのメディアはあっさりと寝返って、それに連動した世間の目も冷ややかだった。そうして、爬虫類館は誰に悼まれることもなく終焉を迎えた――。
「ダメだったね」幽子は言った。
「うん。ダメだった」
陸斗はあたりを見回した。
昔行った場所が萎れていくのをみるのは切なかった。この町からは少しずつ建物がなくなっていった。衰退は緩やかだった。陸斗が小学生のころに遊んだ屋上遊園地ももうない。でもそれに気づいたのはごく最近だ。忙しくて日常の変化についていけなかった。
時々思うことがある。自分の生活圏以外がすべて張りぼてだったら。学校と塾と家から離れて、いざ外側に行こうと思ったらすべてが消えていて、見えていた景色は実は精巧なイラストだったなんて。ないだろうか。たとえそうだとしても狭い世界で生きている以上分からないだろう。
「まあいいっか。たくさん遊べたし」幽子は軽やかに言った。
「なあ」
「なに」
「やっぱり僕は幽子がなにか隠してると思ってる。今日はずっとおかしかった。僕の将来やお母さんとの関係、なんで、あんなに詮索してくるんだよ」
「……」
「なにも、知らないって言ってたけど、僕は騙されない」
幽子は答えなかった。ただ俯いていた。
「答えられないってことは後ろ暗いってことだな」
陸斗は歩き出す。幽子を置いていこうとした。
「わたしはただ陸斗を知りたいだけだよ。ギブアンドテイクの関係から離れて、ただ陸斗を知りたいの。一緒にいる人のことを知りたいのは、そんなにいけないことかな……」
幽子は静かに言った。
陸斗は答えられなかった。自分を知りたいなんて言われたことがなかった。それに、どうしても本音だとは信じ切れなかった。
どうしようもなくそのまま歩き続けた。幽子がついてきているか分からないけど、振り返れない。どう返答していいか――いつまで経っても心は白紙のままだった。
*
その日の夜。アンチへの仕返しのつもりでツイッターに書き込んだ。
――僕は次のテストの内容を知っている。だから絶対にいい点数を取る。アンチの人たち見ててください。
――そんなの信じられるかよ。
――じゃあ、次のテストを見てて。もし結果がよければ、謝れよ。
やられてばかりじゃしゃくに障る。手がかりも見つからないし、幽子との微妙な関係にもむしゃくしゃしていた。それが一つに束ねられてツイッターに現れた。
それにいい点数を取るというのも嘘じゃない。幽子に協力してからというもの、少しずつだが成績は上がっていた。ペースだけ見れば遅かったが、結果は出ていた。順調にいけば満点も夢ではない。だから、これはアンチへの反論かつ、成績向上の予想を織りこんだツイートでもあった。
ツイートすると少し気が楽になった。幽子がいないというのも気楽でいられる理由の一つだった。
どこにいるのだろう。いつかは帰ってくるけど物足りない気分もいくらかあった。
そんなことを考えながら陸斗は微睡み、いつの間にか眠りについていた。
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