14

 高野教諭はパソコンから目を離し、こめかみを押さえる。

 テストの難易度が高すぎると保護者から苦情があったのは二週間前のことだった。こちらとしては生徒のためを思って難易度を上げているのだが、懇切丁寧に説明しても保護者は理解してくれない。教師になって初めて知ったことは、生徒は意外に賢くて保護者はかなり愚かしいということ。こちらにも信念があると、保護者の苦情を無視し続けたら、今度は校長に意見してきた。朝、校長に二人きりの話があると言われたときは、どんな注意があるだろうと思案し、冷や汗が出た。さすがに校長に言われたら折れるしかあるまい。それでテストを作り直していた。

 さて、出だしの問題はなににしようか。中庸な問題はまったく思い浮かばない。突然耳元で音がした。しかし、振り返ってもなにもない。気のせいか――。

 高野は気を取り直してパソコンに向かう。カーソルの一行目が点滅している。さっきまではなにも思い浮かばなかった頭に、なぜかある人名が刻まれている。

 マルクス・アウレリウス。五賢帝時代の最後の皇帝。理由は不明だが、なぜかこれが答えるにならないといけない気がした。高野は問題文を打ち込んでいく。

 次はどうするか。ここはさらに捻った答えにするか。生徒たちは分かるだろうか。

 散々悩んだ挙げ句、マルクス・アウレリウスにした。

 三問目はどうするか。大学入試レベルになっているかもしれない。

 マルクス・アウレリウスにした。

 四問目は……。

 水曜日。テストが返ってきた。机の上に滑らせたテストを、幽子は一瞥する。

「満点でよかったじゃない」

「全然よくない」陸斗は無感情に言った。

「なんで。君はずっと点数が上がるのを心待ちにしてたじゃん。これがてっぺんで、これ以上上がることのない最高の点数だよ」

「最高の点数だって、みんな同じなら意味ない」

 一瞬、間があった。どうも噛み合っていない。幽子は自分のしたことが分かっていない。これはとんでもないことなのに。

「あれ。もしかしてわたし簡単にしすぎちゃった?」

 そこでとうとう溜めていたものが爆発してしまった。

「簡単どころじゃないよ。やりすぎだよ。誰が全部同じ答えにしろって言った」

 幽子はテスト用紙を手に取って、すべての欄を確認し終えると、歯の隙間から薄く息を漏らした。

「しょうがないじゃない。耳元でマルクス・アウレリウスって呟き続けたらホントにそうなっちゃったんだから」

 開いた口が塞がらないとはよく言うが、本当に塞がらなくなるのは目だということをテスト当日に初めて知った。テスト中は異様な空気だった。どの答えもマルクス・アウレリウスになるように問題が作成されていたのだ。陸斗は瞬きを忘れるくらい紙面を凝視した。もしや自分には見えない問題が浮かび上がってくるのかもしれない。あるいは本意があるはず。探り合いに必死だった。

 恐らく四問目くらいだろうか。周囲の空気が変わった。立て続けに同じ答えを記入する自分たちの可笑しさにいっせいにペンが止まる音がした。無音が緊張感を訴えている。「誰か質問しろよ」と視線が頭上を飛び交う。

 しかし、ここで普段の高野教諭の態度を思い出す。以前、テスト中に質問をした生徒がいた。そのときの対応は、「問題文のなかに書いてある」の一点張りだった。高野教諭の主義はみんなに恐怖感を植え付けた。だから、再びペンを走らせる。マルクス・アウレリウス、マルクス・アウレリウスと。阿保らしいと思いながら。漢字の書き取りじゃないのに。

 そうしてテストは無事終わった。テスト結果は通例後日返却されるが、この日はなんと当日帰宅間際に返ってきた。当然のように満点に次ぐ満点。いったいなんのためのテストか分からない。それでテストが返却されてから一斉に担任へ質問が飛んだ。すると、担任は「高野先生はしばらくお休みされます」と驚愕の一言。そして、今回のテストは校内順位には影響しないとの無慈悲な宣告。まあ、全員が満点ならば順位は不動なのだけれど。

「たとえ先生が休職になったにしろ、結果的には満点を取れたんだから感謝してほしいくらいだわ。君、これでプレゼントがもらえるでしょ」

 幽子は反省することなく、開き直りのように言った。

 しかし、プレゼントに関しては幽子は正論だった。お母さんは実績があればプレゼントを渡すと言っていた。だったら満点は最上級の実績ではないか。

「ちょっと!?」

 次に得点できるとは限らない。今しかなかった。幽子との会話をほっぽり投げ、リビングに向かった。お母さんは洗濯物を取り込んでいた。厚手のタオルを几帳面に端同士を重ね合わせ畳んでいく。

「お母さん」

「どうしたの」と、手を止めないままで陸斗を見る。

「テスト、満点だったよ!」

 意気揚々と掲げた陸斗のテストを、お母さんは無言で引き抜く。沙依がテストを見せたときのように素直な反応じゃなくて、目を行ったり来たりさせて確認している。

 光熱費の請求書を見ているときと同じ顔だ。陸斗はお母さんが片手で持ったテスト用紙を傾げては直すのを見ているだけで、棒のように立っていた。初めて来る病院の待合室に放置されたような居心地の悪さを感じる。

「こんなおざなりなテスト作っちゃって高野先生どうしたのかしらね。きっと保護者会の圧力に負けてやけくそになったのね。お母さんあの先生のこと高く評価してたから、残念だわ」

 お母さんはすぐに満点のからくりを看破した。でもそれは陸斗にとって二の次だった。もっと大事なことがある。

「お母さん、それでプレゼントは――」

「ああ、それね」

 それ。お母さんにとってプレゼントはそれ、だった。お母さんは冷蔵庫を開けて、なにかを取り出す。

 ショートケーキが二切れ、平坦なお皿に載っている。片方はイチゴが落ちていて、黄色っぽく変色していた。

 ショートケーキは苦手だった。生クリームが甘ったるくてくどい感じがする。そんな話を何年か前にしたけれど、お母さんはもう忘れてしまっている。

「これ……」

「ケーキ、あった方がいいでしょ。あと――」

 お母さんはギンガムチェックの包装紙で覆われたプレゼントを、棚から持ってくる。

 受け取ったとき思わず舞い上がりそうになった。そのかたちは明らかにゲームソフトの大きさだった。これだけでケーキの好みを忘れたことは帳消しにできた。

「お母さん……」

「陸斗に必要なものだから。これで頑張るのよ」

「うん。ホントに……。ホントに、僕のために、ありがとうございます」

 自分の部屋まで行くのも待てず、階段を上りながら開封した。なかには一冊の本が入っていた。

「プレゼントが自己啓発本って冗談でしょう!? そんなの初めて聞いたわ」

 幽子は弾けたように笑って、陸斗に本を返す。表紙には男の写真が本のタイトルより大きく印刷されていた。男は険しい顔で、今にも「俺についてくれば、なんとかなる」みたいな言葉をぶつけてきそうだ。頼りになる一面とうさん臭さが絶妙なバランスで同居している。

「そんなにおかしい、これ」

 仏頂面で言うと、幽子はばつが悪そうに口を閉じる。

「ごめん、つい笑いすぎた。でも、人の家庭に口出したくないけれど、自己啓発本はあんまりじゃない? 君、一回話し合った方がいいよ」

「言えるわけないよ。お母さんが僕のために前から用意してくれてたんだから」

 自己啓発、それがお母さんが必要だと思ったことだった。

 ゲームを貰えなかったのは残念だった。でも黙って受け容れるしかない。確かにここぞという場面で尻込みすることはあった。準備万端でも気持ちが整ってなくて、いつも大事な局面で失敗してしまう。お母さんはそういうところを見抜いていた。

 第一志望じゃなく第二志望に入学したこと。全国一斉学力テストで実力を発揮できなかったこと。プレッシャーに押しつぶされたこと。つまり、これはお母さんの言葉なき叱咤激励だった。いくら発破をかけても成果を上げることができないから、本という代理を立てたのだ。

「じゃなくてさ、もっと根本的なことなんだけど」と、幽子は頬を掻く。

「これ、あげる」

 陸斗はショートケーキを押しつけるように幽子に渡した。

「いいの」

「僕はショートケーキ派じゃないし」

 椅子を乱暴に引き出し、座った。頭では理解してても体では拒んでいた。

「床、傷ついちゃうよ」

 なにもかもうまくいかない。テストはダメで、プレゼントも予定と違う。思い描いていたシナリオは黒く塗りつぶされていく。

「これ、美味しいわね。ちょっと食べる?」

 幽子は唇にクリームを一塊つけて言った。

 よくもまあ、近くに苦しんでいる人がいるのに平気なものだ。

 陸斗は幽子の誘いを無視しスマホを見る。ツイッター、ツイッター。言葉を吐き出さないとやってられない。自分の心の奥の澱みを吐き出して、清潔にする。ツイートを見ると、下にいつもの奴らがぶらさがっている。

 『ツイッター辞めろ』『学校を特定した』『よく考えて発言したら』

 まだ呟いていないのに、過去の発言に罵詈雑言が連なる。部屋の隅っこに溜まる埃みたいに気づいたら積もっていく。

 本当にうまくいかない……。

 昼間にあげたイラストに対するコメントも予想通りだった。『探しています』の切実な文言も効果なく、幽子の手がかりはなにもなかった。

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