13

 火曜日の夕方。長机とパイプ椅子がコピペで並んでいるかのような大きな自習室には数十人ほどの生徒がいて、それぞれが小集団を作り、勉強や軽い談笑をしていた。

 自習室はいつも開いていたから学校の帰りは基本的に寄っていた。塾は家より安心できる。監視の目はないし、勉強していると一体感を感じられる。

 けれど仲間意識とは違う。みんなと仲良くできるとも思ってないし、会話をしたいとも思わない。そういうのは他人に押しつけられる幻想。そうじゃなくて、同じ方向を向いて同じ目的を達成する等しさに安心する。成績向上や志望校合格というゴール。そのゴールテープを切るためにここにいる。学校で騒いでる奴も、いけ好かない生徒会長も、みんなそう。役割や格差は塾では圧縮されて、ホワイトボードを見ている。

 陸斗はグループには加わらず、最後列窓際の席を確保して座る。いつもの定位置で、暗黙の了解。陸斗はこの席が好きだった。みんなの後ろ姿を見ていると安心する。誰にも侵されない聖域の証拠に長机のコンセントのカバーは開いたまま。そこにスマホを差し込んで充電する。

 勉強が目的じゃないけど、不信に思われないためにテキストを広げてみる。今日来たのは幽子の手がかりのためだった。自分の勉強を保留して協力するのは不本意だけど、約束は約束だ。頌大の力を借りようとして、ここで会う約束をしていた。

 自習室の人数が多くなってきた。あまりキョロキョロするのも嫌だけど、頌大を探してしまう。いつのまにか最前列の賑やかな集団に頌大がいた。

 まじないを込めて視線を送ると奇跡的に届いたようで、頌大はこっちに気づいて手を振ってくれる。軽く手を上げて挨拶すると、頌大は友だちを拝むように手を合わせ、陸斗の方に向かってくる。

「急に呼んじゃって、ごめん」

「いいって、いいって。実は俺も相談したいことがあるし、ちょうどいいって思ってた」

 頌大はガムを噛みながら言う。

「頌大が?」

「そんな驚くことかよ。俺だって相談したいことくらいあるさ――でもリクの方が先に言ってきたからリクからでいいぜ」

 頌大は陸斗の隣の椅子ではなく、机に座り前の席の座面に靴のまま足を乗せた。

 自殺者から遡る調査も、記憶から遡る調査も行き止まり。今のところ掲示板やSNSに投稿した幽子のイラストも効果不明。だから親友の意見を参考にしたかった。もちろん話をコーティングして。

 うまくいくだろうか。事前に幽子と練習したかったけど、アイツは頑なで「ぶっつけ本番の方がリアリティーがあっていい」とか喚いて、結局のところ全く練習できなかった。話をしているときも、トロフィーを空中に投げて遊んでいたし。ムカつく。

 陸斗は慎重に、準備してきたセリフを切り出す。

「じゃあ――お言葉に甘えて。最初に言っておくけど、変な話でも最後まで付き合ってくれると嬉しい。あとこっちが要求しない限り、ツッコまないで欲しい」

「了解。質問のときだけ答えるって感じで、あとは黙って聞いてればいいんだな」

「分かってくれてありがとう。じゃあ、始める。――ここに一人の女子がいる。自分が誰か分からない。頌大だったらどうやって名前を調べる」

 変な質問に思われたのは間違いない。けれど頌大は吐きかけた言葉を胃のなかに戻して、真剣な顔で考えてくれた。この顔を見るのは、テストのときと女の子の好みを探っているときくらいだ。

「名前……記憶喪失ってことだな。それなら話は簡単だ。写真撮ってネットで終わり。リクの大好きなツイッターで拡散すればすぐに反応してくれるだろう」

「もし写真が撮れなかったら。姿が写らなかったら」

「んんん? なんだよそれ? どういう状況だよ」

 頌大は大仰なリアクションを取る。まるで誰かに披露しているみたいだ。こういうところはすごく目立ちたがり屋っぽい。頌大の声で幾人かがこっちに視線を送る。

「声が大きいよ。極度の人見知りで絶対に写真NGだったらの話。たとえ話だけど」

「わりぃわりぃ。写真NGってアイドルみたいだな。とにかく、そういうことならその子が見つかった場所で第一発見者を当たる。それから、それに限らず色んな人と会話をして正体を見抜ける人を炙り出す。少しずつ地道に輪郭を決めていくしかないんじゃないか」

「僕以外とは話せない」

 頌大は唸る。ますます意味不明の話だと思われているだろう。

「それは人見知り……を越えてるな。難しい……難しすぎる。ならリクが少しでも記憶の引っかかりを探せるように手を尽くさなけりゃいけない」

「それはもうやった」

「やった? これは実際の話か」頌大は怪しむ。

「いや、……だから、ゲームの話」

「なんだ、ゲームの話かよ。焦ったー。ついに勉強しすぎて頭がおかしくなったかと思った。もしもまるっきり全部本当の話って言い出したら、勉強を止めさせてたところだ」

 なんとか回避できたらしい。頌大はスポーツドリンクを飲み干したみたいな豪快なため息を吐き「前はよくやったよなー。ゲーム」と言った。

 ゲームは好きだった。誕生日プレゼントとしてお父さんが買ってくれて、最新のゲームを買った翌日には友だちを集めて対戦をしていた。

 昔は皆で楽しく遊んでいた。けれどお父さんが死んでから、うまく遊べなくなった。元気づけるように友だちと集まっても、以前のように楽しめず、勝ちに拘るようになってしまった。

 勝つまで止めない。

 お母さんが勉強に口を出すようになったのもこの頃だったと思う。愛や理想では生きていけない。現実を生きるには結果が必要。だからお母さんは「一番」に徹底的に拘ったし、遊びでも手抜きは許さなかった。

 友だちはだんだんと離れていき、その時気づいた。友だちは僕と遊んでいるんじゃない。ゲームと遊んでいるんだ……。

 コントローラーを投げだし次々帰宅する友だちのなかで、頌大は違った。頌大だけは離れなかった。

 ――ショウくんは帰らないでいいの。アイツらと一緒に帰ってもいいんだよ。

 陸斗が言うと、頌大は首を横に振る。

 ――僕はいいよ。リクと一緒の方が楽だから。

 頌大だけが友だちだったと、そのときようやく気づいた。

 思うに頌大は共通点を感じ取っていたのかもしれない。頌大は両親のことでしばしば不満を述べていた。だから頌大は陸斗に投影していたのだ。これが外交的な頌大が仲良くしてくれる理由だと思う。

「なあ、ショック療法とかどうだ」

 頌大の問いかけに、陸斗は引き戻される。

「ショック療法かあ。それは思い当たらなかった」

 名案だ。なにか大きな衝撃を与えれば記憶が蘇ると聞いたことがある。これは検討の余地がある。善は急げだ。すぐに幽子に言おうと、広げたテキストを片付ける。

「実はさあオーディションを受けようと思ってるんだけどどう思う」

 頌大は陸斗を見ずに、教室前方のホワイトボードを見ながら話す。

「オーディションって、芸能関係の?」

「ああ。物は試しっていうだろ。自分の才能を見るために行ってみようかと思ってるんだ」

 頌大の視線の先には、さっきまで一緒にいた集団がいて、ちらちらとこっちを見てきた。たぶん頌大が戻ってくるのを待っているのだろう。でも頌大は、自分の思考に埋まっているようで関心がないように見えた。無表情に澄んだ視線は、もしかしたらホワイトボードよりもずっと先を見ていた。

「リクはどう思う。自分の直感を信じるべきかな」

 そこで頌大は陸斗を見た。真剣な眼差しだった。

 本気なんだ――と思い、陸斗は少し驚いた。てっきり両親との話し合いで諦めたかと思っていた。たぶん話し方的に、秘密にしているのだろう。どことなく後ろめたい感じがした。

 噛んでいたガムはまだ口のなかのはずだけど、頌大は噛むのを止めている。

 アドバイスを待っていた。

 頌大がこうやって頼ってくるのは記憶にある限り、初めてかもしれなかった。

 けれど、どんな答えを返せばいいか分からなかった。テレビを禁止されてからもう結構経つ。アイドルや芸人のことなんて全く分からない。的確なアドバイスなんてできるはずがない。

 どうする。――どうしよう。間違ってしまったら。頌大の人生を変えてしまったら。

「頌大、ええと――」

 頌大の喉が動く。でも口はしっかりと結び、陸斗の言葉を静かに待っている。

「ごめん、頌大。今は、その、なんとも言えない。よく考えてみるから、もう少し待ってくれないか。また次回必ず僕の考えを伝えるから」

 仕方なかった。正直、急いでいたのもある。幽子の手がかりを早く試してみたくてそれどころじゃなかった。自分の成績と幽子の手がかりが頭のなかでぐるぐると回っている。さらに頌大のことまで手が回らない。落ち着いたら、答えよう。頌大もその方がいいはずだ。

「……だよな。いきなり言われても困るよな……。リクでそうなんだから、親はもっと困るか」

「ごめん……」

 頌大の目を直視できない。

「いいっていいって。――じゃあ、また次回な」

 頌大はありがたく引き下がってくれた。

「次は絶対」と、約束して陸斗は塾を後にした。

 家に帰ると、幽子は寝転んで参考書を読んでいた。放っておいたらなにをするか分からないから、常に家にいるように強く言っていたのだ。珍しく聞き分けがよくて安心する。

 早速、塾でのやり取りを報告する。

「ショック療法なんてどうかな」

「まさか、女子に手を上げる気ぃ」

 幽子は語尾を急上昇させ「幻滅したわ」と勝手に幻滅する。

 どうしてこの幽霊は早とちりするのだろう。誤解を解くためスマホの画面を見せる。

「最後まで聞けよ。そんなことするわけないじゃん。これだよ、これ」

「遊園地……わたしと遊びたいの? 気分転換は大事だけど」

「だーか-らー。遊ぶつもりはないって。さっき言った記憶を戻すためのショック療法。色々考えたんだけど、ジェットコースターとかお化け屋敷が最適かなって」

「それで遊園地かー。ふーん、面白そうね」

 さっきまでのげんなりした様子が一転し、幽子は目のなかに詰め込めるだけ星を詰める。

「言っとくけど、遊びじゃないからな。あくまで幽子が魂になった理由を調べるため」

「分かってるって」

 ――そういうわけで、次の日曜日は遊園地に行くことになった。

 当日。幽子の能力を使って入園料無料で遊園地に入った。タダはなんとも言い響きの言葉なんだろう。入園料六千五百円を節約できたのは、学生の身分にはありがたかった。

「そういえば、神様に咎められないのか? 私利私欲のために使っちゃいけないんだろう」

「真相究明のために使う能力なら問題ないって言ってたから、平気なはず」

「なら真相究明のために映画館、水族館、博物館一通り回ってみるか。ついでにゲーセンもいいかもしれない。幽子は不良少女の可能性だってあるだろ」

 軽口をたたくと、幽子は横腹の辺りを小突いてきた。

 列が動き、陸斗は前へ進む。休日というだけあって、どこもかしこも人だらけだった。アトラクション乗り場は少し高い位置にあるので遊園地全体が広く見渡せた。

 人の波はどこにでもあって、アリの行列みたいに途切れることがない。

 ドレスを着た小さな女の子がキャラクターの風船を持ってよたよたと、先を行くお父さんを追いかけている。二十代くらいのカメラを提げたおじさんは人じゃなくて景観を撮影している。馬鹿騒ぎする大学生らしき集団は謎の全能感に満ちている。世代も性別も様々だけど、共通するのは笑顔だった。こんなに笑顔が集合する場所は日本中でここくらいかもしれない。

 日常生活ではあまり見ることのない、楽しい色が目に毒々しい。耳を澄ますと、かすかに重低音が響いてきて、近くでライブをしていることが分かる。

 不思議だった。当たり前だが、この受験期の忙しい一年に自分はどこからどう見ても遊園地にいた。

「でも遊園地ってちょっとズレてるよね」

 隣で顔を扇ぎながら、幽子が言った。

「は? どういうことだよ」

「だってショックに代わるスリルなんて、家で見るホラー映画で充分でしょ」

 確かにそれはそうだった。youtubeやNetflixで事足りる。でもお母さんにバレないようにこそこそしないといけないけど。

「そういうことは先に言えよな」

「ま、わたしはいいけどさ。遊園地行きたかったし。これ終わったらお化け屋敷入りましょ」

「やっぱり遊ぶつもりだったじゃん!」

 はたから見ればカップルの痴話ケンカみたいだけど、幽子の声は聞こえないし人からも見えないので安心だ。それに二分に一回はコースターの落ちる轟音で独り言をかき消してくれる。さらに念のためブルートゥースを介して電話を装っている。万全の構えだろう。唯一の懸念点は一人でジェットコースターの列に並んでいるということ。かれこれ三十分待っていて、そろそろ視線が痛い。

 カップルや友達集団のなかに紛れるのは気まずかった。彼らは会話を楽しんでいるので、一人で来ている奴なんて気にも留めていないだろうが、明らかに浮いていることは自覚している。それでさっきからずっと三人組の一人と目が合っている。ポップコーンの容器を首から下げた男と、見る度に目が合う。気にしなければいいのだが、蚊の居所みたいに一度気になると止まらない。お仲間の二人も、耳を付けていたり、あえて他遊園地のキャラクターのシャツを着ていたりと、いかにもチャラそうで、絶対にお近づきになりたくない存在だ。

「掲示板の件もそうだけど、やっぱり少しズレてるよね君。あと一歩なんだけど、惜しい」

 幽子はそう評してから、アトラクション乗り場の柵から落ちそうなくらい身を乗り出す。落ちても死なないから気楽なものだ。

「しょうがないじゃん。勝手に貼っちゃいけないなんて知らなかった」

 掲示板のことを思い出す。あれほど手を焼いて書いた力作は画鋲の部分のわずかな切れ端を残してきれいさっぱり消えてしまっていた。あとで知ったことだが、どうやら掲示板には事前に許可がいるらしかった。でもそんなこと教えてもらっていない。

「文句ばっかり。自分のことなんだからもっと協力しろよな」

「わたしだってしたいわよ。でもあなたの成績のことで手一杯なの。どうすれば神様を怒らせずに成績を上げるか考えるのって大変なのよ!」と幽子は声を荒らげる。

 また列が進む。コースターが見える位置まできたところで、スマホを出した。

「なにしてんの」

「ツイッター」

「君いつも弄ってるよね。わたしはしない方がいいと思うけどな」

 幽子の言葉に引っかかって、手を止める。

「……正直に意見を言うのがなにが悪い」

「意見を言うのはいいと思うよ。でもここ数日見てて分かったこと。君はただ人と口論したいだけじゃないの」

「意見を言った結果、口論になるだけだ。全部相手が反論してくるのが悪い」

「君はなにかを言わずにはいられないんだね。――なにがそんなに怖いの」

「怖い? 怖いだって、僕が?」

「うん。怖いから噛みつくんでしょ。さして重要じゃない事柄ばかり喚き立てて、自分の本質を言い当てられないようにしている。本当に見なきゃいけないものから目を背けていられるように」

「勝手に分析すんなよ。僕のなにが分かるんだよ。それにそのカウンセラーぶった話し方。すごいウザい。僕にどうしてほしいわけ?」

「黙っとけばいいのに、って話。沈黙は金って知らないの」

「ああもううるさいな。おせっかいな友だち面しないでくれる? ただのビジネスパートナーなんだから口出ししないでよ」

 なんだよ。この幽霊は――。

 画面をスクロールする指が早くなる。タッチする指に必要以上に力が入る。アルバムから写真を選ぶと、幽子は目をぱちくりさせてiPadを奪い取ろうとする。すんでのところで幽子から遠ざける。

「あの絵を乗せる気なの。止めてよ」

「大丈夫。文章で補足したから」

「あんなの見せたら余計混乱する」

「大丈夫だって、文章は練りに練ったから」

「じゃあ見せてみなさいよ」

 幽子が言うのと、係員が人数を聞くのが同時だった。作り笑顔で「一人です」と伝え、席に案内される。その間幽子は「ねぇってば」と話しかけてくるが華麗に無視をすると黙って隣の空の席に座る。

 ジェットコースターがガタガタと昇っていくと幽子は言葉少なになった。目と口を閉じて、ぶつぶつ言っている。あんなに威勢がよかったのに意外にもスリルは苦手らしい。ともあれ、それで写真の件は逃げ切れることができたのでよかった。

 そういえば、ジェットコースターに乗るのはいつ以来だろう。あれはお父さんがまだ生きていたころだから五年前くらいか。身長ギリギリだったけど、確か無理やり沙依に乗せられたっけ。

 無理やり。そうだ。そうだった。

 コースターは頂上に到達する。風が止まる。レールを走る音が一瞬消える。静かだった。そして、独特の浮遊感をもたらして、重たい車体が急降下する。隣の幽子を見る、余裕なんてない。

「うわぁぁぁーーー」

 なんで今になって思い出したのだろう。僕だって相当、苦手だったんだ。

 ジェットコースターは空振りに終わった。次に入ったお化け屋敷も同じ。二、三追加でアトラクションにも乗ったが、やってることは遊園地で遊んでいるだけで、これなら頌大と来ても別によかった。ただ、認めたくないが少しだけ、強いて言うなら小指の先っぽくらいは楽しかった。

 どのスリルも幽子の記憶を叩き起こすのには力不足だった。歩き疲れてフードコートで休むことにした。幽霊だから疲れを知らないようで、幽子は「まだ探してみる」と言って出ていった。

 幽子を見送ると、入れ替わるように目の前のソファーに男が座った。ポップコーンの容器男――さっきの三人組の一人だ。あとの一人のデカ耳は隣に座って、もう一人のシャツ男は少し離れた位置にいる。逃げられないようにしているのだと分かった。

「君、一人?」とポップコーンが言った。

「……はいそうですけど」

「あれ、おっかしいなー。さっき誰かと話してなかった」

 隣のデカ耳が耳障りなくらい語尾を伸ばす。

「ま、いっかー。それよりさ、お金貸してくんない。俺たち困ってるんだよね」

 ポップコーンが陸斗を遮ると、デカ耳がうんうんと頷く。

「そうそう。君、中二くらい? だったらさ、二万円でいいよ」

 間違った前提で、いい加減な論理をふっかけてきた。

 常習だな、と思った。話し方は慣れているし、友人を装ったデカ耳と監視しているシャツ男がいて逃げようもない。不良たちを分析できる自分は、意外にも冷静だった。

 幸いにも財布には三万円を入れていた。もしものときのためにお年玉を引き出しておいたのだ。

 どうせ誰も助けてくれない。こっちを見てくる大人はいるが、手を差し伸べることはない。気のせいかフードコートからは一人また一人と人が引いていく。まあ、そうだろうなと思う。

 待っていても状況が変わるわけではない。所詮、他人はそんなものなのだ。自分の身を救うのは自分だけ。

 お金を出せば大人しく消えてくれるだろう。そう思って、財布に手をかけるが、震えて思うようにお札が取り出せない。

「どうした?」

「いや、ちょっと。待ってください。あれ、どうしたんだろう」

 変な汗と上擦った声が出てしまう。

「早くしろよ! もしかして出したくないわけ」

「いや、そういうことじゃ」

 手の震えが大きくなって、もう片方の手で押さえつける。

 なにしてるんだ。早く出さなきゃいけないのに。これじゃ渋っていると勘違いされてしまう。

 でもどうしたことか震えは悪化するばかりで、まるで言うことを聞かない。

「じれったいな!」

 ポップコーンが財布を奪い、なかから二万円と追加の一万円を取り出し「いえーい、手数料」と言って相方に見せびらかす。空っぽの財布は宙を舞って、陸斗の隣に落ちた。

「喜んでもらえてよかったです……」

 ははっ……と、乾いた笑い声が出る。財布を拾うことはできなかった。手の震えは生き物みたいに体を蝕んで、絡みついていた。お金は渡したのに、針先に心臓が晒されている。

 助けを求めたいけど、喉を握り潰されたみたいに声が出ない。逃げたいけど、足が重しをつけられたみたいに動かない。虫が這うように汗が服の中を、一筋流れる。

 冷静な自分など最初から存在しなかった。

「おい、こいつ泣いてやがる」

 ポップコーンが嘲る。悔しさ、恥ずかしさ、恐怖……色々な感情がごちゃ混ぜになって溢れてきた。でもその気持ちをぶつけることはできない。一言でも喋ったら自分が壊れてしまうかもしれない。だからひれ伏すしかない。目を閉じて時が過ぎるのを待つ。これ以上感情が零れていかないように、自分など死んだみたいに静かになる。

「卑怯者!」

 耳を劈く大きな声がして、反射的に顔を上げた。あまりの迫力に一瞬自分のことかと思い込み、硬いソファーの背もたれにのけぞる。三歩先の距離に幽子がいた。シャツの男はいつの間にか消えていた。

 幽子は大きな歩幅でこちらに歩いてくる。大きな声を上げようが、もちろん誰も振り返らない。そもそもフードコートの客もほとんどいなくなっていた。

 幽子は隣に座るデカ耳の腕を取った。「え」と言ったデカ耳は自分がなぜ腕を上げているのか理解できていない。そして瞬時に姿が消えた。

 陸斗は息を呑んだ。まさか、幽子が消すとは思っていなかった。

 ポップコーンは固まっている。なにか言いたいがあわあわと譫言を漏らしている。

「は? なんだよ。お前、なに、したんだよ!!」とポップコーンが狼狽えて、唾が陸斗にかかる。幽子が見えないから当然、陸斗の仕業だと思っているのだろう。

 陸斗はなにも答えなかった。そしてそれが功を奏した。

 ポップコーンはそのままソファーから滑り落ちる。目を見開いて、怯えている。

「タクミ! おい、タクミ。どど、どこいったんだよ」

 せっかく盗った三万円をその場に置いて、ポップコーンは何度も転びながら逃げていった。

 フードコートの外に出ると、ポップコーンは走り回って友人を探していた。幽子は腰に手を当てて、哀れな姿を目で追っている。

「社会科の資料集にね、北海道が載ってたの。さすがにフィンランドはかわいそすぎるでしょ。だから二人とも北海道に飛ばしてあげたわ。今は四月だし、観光にはちょうどいいんじゃないかしら」

「うん……」

「こんなときのために、行き先をストックしといてよかったわ。備えあればなんとやらね」

「ああ」

「それにしても――情けない奴らね。年下を恐喝するなんて」

 幽子は淡々と言った。それで不良には感心を失ったらしく、別方向に歩いていく。

 何事もなかったかのように隣を歩くことなんてできなかった。一歩後ろをついていくのが限界だった。

 ――情けない。その言葉には自分も含まれているだろうか。情けなく弱い姿を見て、幽子はなにを感じたのだろうか。いつもは強く幽子に当たるのに、このざまはなんだろう。無抵抗の美学といえば聞こえはいい。でも実際は怖かっただけだった。

 幽子は前を歩いていく。柔らかな輪郭の背中に、冷たい怒りが残っている。幽子は他人のために怒って、助けてくれた。もしかしたら神様に罰を下されるというリスクを負ってまで。なぜそこまでする必要がある。

 自分だったらどうするだろう、と陸斗は立ち止まる。きっと我関せずの態度を貫くだろう。さながらフードコートにいた傍観者の大人たちみたいに。そんなふうになりたくないのに、なってしまうんだ。

 しかも、幽子には友だちじゃなくてビジネスパートナーと啖呵を切ったのに、そのビジネスパートナーに助けられてしまった。でも幽子はそれをあげつらうこともなかった。

 お礼を言わなきゃいけない。でも言えない。

 陸斗はシャツの裾を指で擦る。そこの部分の生地がしわくちゃになって不細工になる。

「なにしてんの?」幽子は首を傾げる。

 なにも言えない。言う資格はない。

「ふーん。なるほどね」

 幽子はなにかを察した顔で「お礼はあれでいいよ」と指を指した。

「ふん、ふーん♪」

 部屋に戻った幽子はいつになく上機嫌だった。右手には遊園地のキャラクターを模したアイス、左手には甘くてサクサクそうなチュロス、首に提げた塩バターのいい匂いがするポップコーン。可愛いかたちの肉まんは手首で挟むようにして器用に持っている。驚くべきことはこれで全量ではなく、まだ後ろに控えがあるということ。もしや生前は大食いで名を馳せたのかもしれない。

「はぁ……」

 陸斗は財布の中身を見て嘆息する。今月分のお小遣いをかなり使ってしまった。これから節約しないといけない。幽子はお構いなしで、もぐもぐと食べることに夢中だ。

「盗めばいいのに」

 独り言のつもりだったのに、幽子はチュロスの砂糖を唇につけたまま「利私欲のために能力は使えないって言ったでしょ。それに道徳的にどうなの、それ」と言った。

「ちょっとくらい神様も許してくれないかなぁ。――いいよなぁ、幽子は透明になれて。僕がもしその立場だったらお金に困ることはないだろうね」

「そんなにお金が好きなの」

「ああ、好きだよ。お金があればなんでもできる。たとえばブランドのシャツだって靴だって気にせず買える」

「働けばいつでも買えるじゃん。合法的に」

「僕は今欲しいんだ。洋服とかに興味があるうちに。おじさんになったら似合うか分からない」

「ふーん。そうなんだ。わたしは物欲とかあまりないから分からないな」

「女なのに!?」

「そういうレッテル貼りは止めて。――大体君はブランドとかに拘りすぎるから、あんな目にあったかもしれないんだよ。きっと小ぎれいで、お金持ってそうに見えたんだよ」

「うっ」と、陸斗は口ごもる。続く言葉が霧消する。それを言われたら反論できない。

「それは確かにそうかもしれないよ。でもさ」

「でも、なに」

「幽子っていつも不機嫌だよな。眉間に皺を寄せて、僕を罵倒するときだけ機嫌がよくなる。そういえばこんな言葉があった。『人類最大の罪は不機嫌である』――ゲーテの名言だ。幽子はもっと優しくなった方がいい」

 反論でもなんでもないすり替えだけど、前々から思っていたことを口にした。

「人類じゃなくて人間、ね。また知ったかぶりが始まった。君がそう言うなら、わたしからはアウレリウスの言葉を贈るわ。『君がこんな目に遭うのは当然だ。今日善くなるよりも明日善くなろうとしてるからだ』。どう、刺さった?」

 刺さった。それは遠回しに遊園地のことを語っているようだった。でも悟られたくない。平静を装って、頭の隅に感情を押し込める。

「全然響かない。聞いたこともないし」

「もっと勉強したらいつかは知ることになるわよ。それと響かないのは当然じゃない。わたしの言葉じゃないし。わたし名言を利用する人嫌いなの。虎の威を借りる狐みたいで嫌い」

「その虎の威を借りる狐だって故事成語じゃん」

「作成者不明ならいいのよ」

「なんだそれ」

「じゃあこんなのはどう? 強制されることは不自由である。けれど従順であることは自由である。君に送る言葉」

「それいいな。誰が作ったんだ」

「作った人の名前はまだ分からないの。記憶を思い出せないから。で、気に入った?」

「幽子かよ」

「名言なんて結局、断定したり反対の言葉を並べればそれっぽくなるの。大事なのはそれを言った人とそのシチュエーションだから響くんでしょ。ただの渡辺陸斗が、十畳一間で発言したってなんの輝きもない。やっぱり君は少しだけあの人たちに殴られた方がよかったかもね。優しく教育的パンチされて、さ」

 幽子には少なからず恩があるから、なんとか歯ぎしりで抑えた。

 その後、テストのことを話し合った。

「今度のテストだけど、家庭教師は止めてくれよな。それをやるくらいならもっと問題自体を簡単にしてほしい」

 次回テストの作成者、高野教諭はひねくれた問題を作ることで有名だった。だから今更付け焼き刃の対策をしても無駄だ。それならば幽子の力でどうにかして問題を簡単にしてくれた方がはるかに得点できる可能性がある。

「了解、了解」

 聞いてんのか分からない幽子は二つ返事で了承した。

「ああ、それと実はさっき遊園地で絡まれたせいで少し記憶を思い出したの」

 幽子は付け加えるように、けれど極めて重要なことを言った。

 予想外の収穫だった。とんだ災難に巻き込まれたけど、結果的にはよかったということか。

「へぇー、どんな記憶」

「断片なんだけど、ね。わたしもまだ消化できてなくて混乱してるの」

「まあ、まずは言ってくれよ」

「ふざけてるんじゃないからね」

 幽子は人差し指を屹立させて、もったいぶる。

「いいから」

「ええと、映画、センター、蜘蛛」

それは、どう考えてもふざけていた。

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