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 水曜日のことだった。陸斗はテストを机に叩きつける。学校から帰ってきた陸斗に幽子は驚くこともなく、足をぶらぶらさせながら寝転んで漫画を見ている。

「幽子」

「あ、おかえり」

「おかえりじゃねえよ。見ろよこれ! 幽子の言う通り勉強したけど、全然取れなかった。読みも全部外れてた」

 陸斗はしわくちゃのテスト用紙を幽子の眼前に突きつける。

 幽子は目を細め、「三十点中二十点……。悪くないじゃない」と口を尖らす。

「悪くない? どこがだよ! おおよそ七割だぞ。お母さんに見せたら三割も理解できてないのねって言われたよ」

「テストがそんなに大事? 世の中にはもっと大事なことがあると思うけど」

 幽子は漫画をひっくり返してハの字に置いて、陸斗に向き直る。

 その置き方は本に跡がつくから嫌だ。漫画を奪って、本棚にしまう。

「あ、まだ読んでるのに! どこまで読んだか分かんなくなっちゃうじゃん」

「アンタの意見は聞いてない。…………僕にはこれしかないんだよ!! ……あんなに一生懸命やったのに、上がったのはたった一点だけなんて」

 陸斗は俯いて、握りこぶしを作る。床が震えたように、揺らいだ気がした。

 ――死ぬ気で頑張るっていうのは、その程度のことなの。

 学校から帰ってきてすぐにお母さんにテストを見せた。出来を聞かれる前に、弁解したかった。すると、お母さんは不満そうにテスト用紙を人差し指でパチンと弾いてこう言ったのだ。

 陸斗はただ謝るしかできなかった。それくらいしか許されていなかった。裏切りを重ねてお母さんを悲しませていたのだから。

 そして、陸斗にはテストの点数より気がかりなことがあった。今年はテストと誕生日が珍しく重なっていた。この状況だと聞きづらいことではあったが、プレゼントは毎年成績と無関係だったから訊ねてみた。

「もちろん覚えてるけど、プレゼントも実績がなきゃね……」

 お母さんは語尾を濁し、陸斗がなにか言うのも待たず、また夕食作りに戻っていった。陸斗はしばらくガスコンロの火が揺らめくのを呆然と見ていた。

「満点を取ればご褒美あげるから」

 やがて階段を昇る陸斗に、平坦な声が届く。しかし心は癒えなかった。誕生日に祝ってもらってこそ、なのに。誕生日もテストの結果に左右されるなんてことは今までなかった。度重なる失態に、とうとうお母さんに愛想を尽かされてしまった。

 テストの点が取れない。プレゼントも貰えない。だから苛立ちを幽子にぶつけてしまう。よくないことと分かっていても抑えられない。

「プレゼントももらえなかった!」

「わたしに当たらないでよ」

 我に返ってその場にへたり込む。力が入らなかった。

「当たってない……でも悲しいんだ。前はこんなことなかったのに、とうとうここまできたかって」

「プレゼントがそんなに大事?」

「大事だよ……。言うまでもない」

「十四歳なのに子供っぽい」

「悪かったな。どうせ子供っぽいよ」

 毛布をかぶって顔を見られないようにする。

「またいじける。そんなに落ち込まれると調子が出ないわね。ただのタイミングじゃない」

「タイミング?」

「そう。たまたま成績が悪かったときにプレゼントの話を切り出したから、見送られただけでしょ」

「どうしてそう言えるんだよ? ずっと見送られたままかもしれない」

「そんなことないよ。だって君のお母さんはプレゼントを渡さないとは言ってないんだから。実績があれば、って言ってたならいずれ渡すつもりでしょ」

「実績が出るとは限らない。現に今回も、前回も、ずっとそうだった」

「だったら次頑張ればいいじゃない。そのためにわたしがいるんでしょ。後ろばっか気にするのは君の悪い癖だよ。わたしも協力するからさ、ね」

 幽子は肩をぽんぽんと優しく叩く。

「まったく……。わたしはあなたのお母さんじゃないんだよ」

 情けないと思う。たかだか二週間足らずの関係の、それも幽霊に慰めてもらっている。毛布を取って、ティッシュを二枚重ねて洟をかむ。

「ひょっとして君、泣いてんの」

「はぁ、んなわけないじゃん。花粉症だよ。女の前で泣くわけない」

 顔がのぼせたように熱い。ちゃんと表情を作れているだろうか。陸斗は後ろを向いて絶対に幽子に表情を見られないようにする。

「なあ……」

「なに?」

「アンタは僕の妄想か」

「なんでそうなるの」

「お母さんに褒められない僕が生み出した想像上のお母さんとか。いわゆるイマージナリーフレンド」

 幽子は失笑する。

「なわけないでしょ。どうしてそう思ったの」

「別に……なんでも」

「わたしは間違いなくここにいる。――まあ君以外には見えないけど。なんだったらもう一回触ってみる?」

「いや、いい」

「そんなこと考える暇あったら、勉強したら。まだまだテストはあるんだから」

「勉強……そうだ。勉強、頑張らないと」

 陸斗は机に向かう。頬を叩き、カフェインの錠剤を飲み込みペンを取る。

 勉強こそがお母さんに認められる唯一の手段だった。でも別に珍しくないと思う。医者の息子は医学部に進めば褒められるだろうし、音楽家の娘はピアノができて当然だろう。そうやってみんな認められる方法を確保している。

 特別なことじゃない。僕に求められているのは勉強なんだ。

 だから、もっと頑張らなくちゃ。もっと、もっと――。

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