切られた火蓋は一週間で閉じられることになった。

 陸斗は幽霊と睨み合っている。もう三十分が経とうとしていた。

 この一週間で色々なことがあった。朝ご飯を一品食べられたり、体育の時間でハードルをずらしてきたり、よくもまあ思いつくというくらいバラエティーに富んだ地味な嫌がらせをしてきた。それだけなら耐えられた。けど、風呂やトイレにまで現れて邪魔をしてきたり、油断してたら肩を叩いてきたり、ステレオタイプの幽霊の真似事を繰り出すのは勘弁して欲しい。昼ご飯に下剤を混ぜられたこともあった。あとで調べたらそれはお母さんの薬だった。

 こっちもただ手をこまぬいていたわけではない。幽霊の苦手な物を調べて対抗した。しかし、光を向けても眩しがるだけで、御札を向けたら薄笑い。なにをしても無駄で、参考書を我慢して千三百円払って買った幽霊の苦手な物を羅列した本はゴミ箱行きになった。

 決定的だったのは、ぬいぐるみのことだった。

「中学生なのに、ぬいぐるみ!?」

 ベッドサイドに置いてあるそれを見て、幽霊は素っ頓狂な声を上げた。

「わ、悪いかよ。イギリスでは成人男性がテディベアを抱いて寝るんだ。異常じゃない」

「別に人の好みをとやかく言うわけじゃないけど、きっとクラスの皆が知ったらビックリするだろうね。真面目な渡辺君が、ぬいぐるみを愛玩してたなんて」

 遠回しに公開処刑すると脅してきた。こいつ――。評判、内申、エトセトラ……悪い結果ばかり頭を満たす。

 陸斗は強く唇を噛んだ。不本意だが負けを認めないといけないみたいだ。もともと人間と幽霊の戦いでは、人間の方に分が悪い。ただ、無条件降伏ってわけにはいかない。一つ案がある。

「分かった。分かったって。負けを認める。協力する」

「ホント??」

「ただし、条件がある」

「げ、厭な予感がする。君、二言はないって同意したよね」

 幽霊は形のいい眉を中央に寄せる。

「僕が協力する代わりに、願いを叶えてほしい」

「なにそれ」

「ほら、ランプの精の話ってあるだろ。外に出してあげる代わりに、願いを叶えてくれる」

「わたしはランプの精じゃない。役職なしの平幽霊」

「でも、急に現れたり不思議な力が使えるんだからなにかできるはずだろう。空を飛んだり、魔法的なものを使えたりさ」

「君、ホントに中学三年生? 小学三年生の間違いじゃないよね」

「違えわ。ないのかよ、不思議な力」

「ゲームのやり過ぎじゃない? そんなのあるわけないじゃない」

「役立たずの幽霊」

「あっ、今思い出した。即席の超常現象くらいならあるかも」

 そういって、幽霊は机の上に手を翳し――。

「やめて、散らかさないで」

 陸斗は焦って制止する。散らかった室内を脳内に再現するだけで、血の気が引く。

 願いを伝えては断られる。これじゃどっちが困っているのか分からない。でもやり取りを重ねるうちに、ぴったりなお願いが思い浮かんだ。魔法でも超能力でもない真っ当な願いだと思う。むしろ、ここで願わなければいつ願うと逆に聞きたいくらいの。

「ならさぁ、お父さんに会わせてよ。僕の死んだお父さんに、お別れを言いたいんだ」

 予期せぬ願いに動揺したのか、幽霊は反抗的な態度から一転して、萎れたように静かになる。

「……残念だけど、それはできない」

「なんだよ、変に溜めて言いやがって。期待して損した」

「ごめん……しないんじゃなくて、本当にできないの。信じて」

「あーあ。あれもできない、これもできない。じゃあ、なにならできるわけ? まさか僕にやったみたいな嫌がらせだけとかじゃないよな。協力してほしいなら対価をよこせよ。マジで使えない半端もんの幽霊だな――アンタ」

 すると幽霊は黙って立ち上がり、壁面のカレンダーを捲る。雪原の景色が広がるページで手を止めてじっと眺める。こっちに戻ってきて、陸斗の手をギュッと掴む。

「なんのつも――」

 言葉が置き去りにされた。一回瞬きをしただけで、全身を鋭い痛みが突き刺す。鼻先も見えない白い闇。そこにはカレンダーでしか見たことのないロシアの雪原が広がっていた。現実か非現実を疑う前に、死の恐怖が遠のく意識に襲いかかる。

「どう、これでも使えない幽霊??」

「わ、わわわ分かったから、部屋に戻してくれ」

 陸斗は殴りつけるような雪に負けないくらい必死で声を張り上げた。

 幽霊は再び陸斗の手に触れる。次に目を開けたら見慣れた景色、自分の部屋にいた。

「死ぬ、かと、思った…………」

「君、ずっと失礼だから。荒療治」

「だとしても、ロシアなんかに、飛ばすなんて」

「予想より寒かったね。でも良い薬になったでしょ。――あ、それからあそこはロシアじゃなくてフィンランド」

「どうでもいいじゃん」

「どうでもよくないよ。君ってあやふやな知識で物事を語りたがるよね。協力をお願いする側だから遠慮してたけど、イギリス成人男性のテディベアの話だってごく一部の層の話でしょ。一部を全体かして、さも一般論のように話すのってわたしは感心しないな」

 そうやって重箱の隅をほじくるように、突っかかってくる。

「うるせぇな。嘘吐いたくせに調子に乗りやがって。アンタだって魔法使えるのに、黙ってた」

「しょうがないじゃない。知ったら君が悪用しないとも限らないから、内緒にしてた。それって当然の自衛策でしょ」

「端からまるっきり信じてないじゃん。屋上のときもそうじゃないか。自分のことはまるきり教えない。これじゃ信頼関係は結べないだろ。協力なんてできっこない」

「そうやって決めつけないでよ。わたしにも悪かった部分はあるって認めるわ。――はいはい、分かりましたよ。全部、教えるからさ」

「今度は隠さないで、洗いざらい話せよ」

「しつこいわね。黙って聞いててよ」

 幽霊は大儀そうに、細い指を四本立てた。

「一つ目……は言うまでもないわね。行きたいと思った場所にどこでも行ける。ただ、縛りがあって、一回でも見た場所じゃないと飛ぶことはできない」

 それで家まで運ばれたのか。でも、そうだとしたら気になることがある。

「なら家はどうやって知ったんだよ。写真なんて見せてないぞ」

「そのスマホ。ロックがかかってなかったから、アルバムから家の写真を見たの。着慣れない制服を着て満面の笑みで家族と写ってるから、ここが家だと直感したよ」

 それは入学式のときの写真に違いなかった。僕と沙依と、お母さんの写真。

「勝手に見たのか」

「なら、なに屋上でそのまま放置された方がよかった? 安心して他の画像は見てないから」

 幽霊は指を一本曲げて、話を先に進める。

「二つ目。触れたいと思ったものに触れられる。普通の人間と同じように物体に干渉できるってこと」

「周りにはアンタが見えてないから、うまく使えばポルターガイストを起こせるってことだ」

 こいつが他人には見えていないことは、この一週間の初日で学んだ。幽霊だから当たり前だけど。

「そうやって、すぐ悪用する。だから、わたしは」

「冗談も言えない。で、三つ目は」

「体を乗っ取れる」

「幽霊っぽくなってきた」

「人の意識に入って、うまくいけば操作できるみたい」

「その、みたいってのはなんだ」

「使ったことないから。神様に聞いただけ。だって、まだここに来て少ししか経ってないでしょ。そんな能力使う状況に合うわけがない。そもそも使う気もないけどね」

 幽霊は大きく伸びをする。準備運動をしているように見えた。

「四つ目は面白いよ。まあ見てて」

 幽霊は腕まくりして、目を瞑る。なにが、始まるんだ一体。すると、幽霊の姿がぐにゃりと歪んだ。部屋の空気に溶けていなくなって、現れたのは――。

「お母さん……」陸斗は独りごちる。

『陸人ちゃん、ちゅぱちゅぱしましょうね』

「は?」

『わたしよ、わたし』

 それで我に返って、後ろに飛び跳ねる。

「す、姿も変えられるのか」陸斗は素直に驚いた。

『そうよ。満足した。――じゃなかった。陸人ちゃん、満足しまちたか?』

「その喋り方止めろよ。全然、お母さんに似てない」

『君、急にマイルドになった。戻るのはもう少し楽しんでからにするわ』

「もう分かったから、戻れって」

『どうしよっかなー』

「いい加減怒るぞ」

「うるさいって!!」

 そうやって揉めていると、外れそうな勢いで戸が開いて、沙依が怒鳴り込んできた。部屋を見渡し、許可してないのに勝手に入ってくる。友だちを呼んだのかと思っているようだ。青筋を立てて怒っている。

「さっきからベラベラと、なにしてんの? こっちは部屋で缶詰してるんだよ。テストが近いんだから気ぃ遣えよ」沙依がまくしたてる。

「こ、こっちだって勉強してる」

「は? 勉強?」

「ああ、悪いかよ。お母さんに言われたから音読してたんだって。何回も読めばどんな馬鹿でも覚えるって。それを実践してただけなのに」

「にしては、感情がこもってた。ただの音読、それも暗記に感情を込める? アタシは騙されないよ」

「違うって。お母さんが、感情を込めれば暗記項目と紐付けされて記憶が強化されるって言ってたんだ」

「どうだか。本当はゲームとかで遊んでたんじゃないの。お母さんにチクろうか」

『陸人ちゃん、ファイト!』

 すると幽霊が横やりを入れてくる。沙依には聞こえていないようで、部屋に友だちが隠れていないかまだ疑っている。

『やればできる。口論も負けちゃダメよ』

「ああぁーーー! うるさいぃぃぃ!!」

「はぁ? 誰に向かって言ってんの」沙依は眉根をつり上げる。

「いや――だから、沙依だって夜中、うるさいじゃん。毎晩、うめき声みたいなの、アレなんなの。自分のことを棚に上げるなよ」

 最近、深夜に沙依の部屋から声が聞こえて困っていたことを思い出した。結局、英語のラジオを大音量で聞いていることが真相だと判明したけど、それまではトイレに降りようとしたら、それこそ幽霊の声かと錯覚してしまっていた。

「ああ言えばこう言う。言い訳の達人だな、お前……もう分かったから、静かに音読しろよな」

 思いつきの言葉が意外に効いたのか、沙依は恨めしそうな顔をして部屋を後にした。

 戸が完全に閉まるのを確認してから、陸斗は口を開く。幽霊はなぜだか拍手をして、下手くそな指笛を吹いている。姿も元の女子に戻っている。

「……二度と、あんなこと、するなよ」

「あんなことって」

「茶茶を入れたこと。それから、お母さんの真似をすること。よく考えれば僕だけに姿が変わったアンタが見えても意味ないし」

「はーい。わっかりましたー。君、先生みたいだね」

「先生なんて言わ……ん、先生。……そうだよ! いいことを考えた」

 陸斗は興奮して、幽霊の肩に手を乗せる。これしかない。最高の願いが閃いた。

「わっ、近いって」

「空は飛べないんだよな?」

「さっきも言ったでしょ」

「魔法も使えないし、お父さんにも会えない」

「うん、だからそうだって」

「なら僕の成績を上げてよ!」

 唾がかかる勢いで投げかける。

 成績のいい鈴木波蒼の答案を盗み見たり、あるいは答案を改ざんして成績を下げたり、今まで聞いていた幽霊の能力を使えばそれは容易いはずだった。いや、そんなまどろっこしいことしなくてもテストの答えそのものを持ってきてくれればいい。とにかく応用は無数にある。

 陸斗は自分の名前が掲示板の一番上に張り出されるのを夢想する。幽霊がイエスというのを心待ちにする。幽霊は熟考するそぶりを見せ、やがて口を開く。

「うーん、それならなんとかできそう。……けど、それで君は満足?」

 抱きつきそうになって浮き足だった体勢をなんとかその場に固定した。

「もちろん。点数が上がるなら何でもいい」

「本当に? どんな手段でも」

「ああ、もちろん」

「急にやる気になったわね。じゃあ、わたしが成績を上げる代わりに、君はわたしの真相を調べる。――それでいい?」

「ああ、契約成立だ。それと、肝心なことを忘れてた」

「疲れるなー。今度はなに」

 幽霊は面倒くさそうに言う。でもこれはうやむやにできない。大事なことだ。

「名前を教えてくれよ。アンタは僕の名前を知ってるんだ。もういいだろう?」

「ああそれね、分からないの」

「分からない? 自分の名前が」

「名前と魂になった理由の両方が分からないの。そもそも名前が分かれば、君の協力なんてなくても新聞記事とかで自分で調べられるでしょ。」

 屋上で名前を教えてくれなかった理由が今、分かった。でも分かったことで真相究明はより前途多難なものだと理解してしまう。つまり名前を特定することで魂になった理由に辿り着き、魂になった理由に辿り着くことで名前を特定もできるということだ。けれど、それがどれだけ難しいことか。

「じゃあ本当に隠してないんだな」

「だ、か、ら、何度も言わせないでって。神様に誓って隠してないよ」

「アンタの神様はいい加減だ」

 幽霊は「そうだね」とくすりと笑い、「でも名前がないと不便なのは確かね」と顎を手で弄る。それがこの幽霊の癖みたいだ。

「幽子……幽霊の女子だから。幽子は?」

「安直。でも悪くはないかな。それでいきましょ。そうと決まれば早速――」

 いい加減に仮の名前を決定して動き出した幽霊に、待ったをかける。

「最後に」

「まだあるの?」

「隠し事は絶対なしだ。これは僕たちのルールだ」

「はいはい。君は先生じゃなくて、しつけに厳しいお母さんみたいだね」

 幽霊は、やれやれといった調子で溜息を吐く。

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