遠くから音が聞こえる。小豆を零したようなノイズがうっとうしい。目を開けると、涙が一筋こめかみから枕へ落ちていく。

 陸斗はゆっくりと起き上がる。こめかみに触れて鈍い痛みを追い出す。徹夜で勉強していたとき並に頭が痛い。

 夢を見ていた。お母さんに見捨てられて死のうとする、散々な夢を。そして変な幽霊に遭遇して、最後はなぜか中学受験の記憶に着地するのだ。一貫性なんてありはしないおかしな夢だった。きっと疲れているんだ。こんな夢を見るなんて。

 カーテンを開けると雨のひどさが分かる。こんな日に塾がなくてツイてる。塾……そこで気づいた。服に手を当ててみると、じっとりと湿っている。汗の量ではない。

 おかしい。陸斗は立ち上がり、体に張り付いた服を脱ごうとする。悪寒がするのは濡れているからではない。

 テストはどうなった? 夢と現実が整理されて、記憶の輪郭がはっきりしてくる。もしかして、あれは全部――現実。

「あ、起きた。おはよう」

「わぁああ!」

 陸斗はベッドから転げ落ち、したたかに腰をぶつける。背後から聞き覚えのある声がした。

「ごめんね。驚かせちゃった」

「ゆ、ゆ、幽霊。なんでいるんだよ」

 痛みなんて消し飛んだ。幽霊が学習机の前で背もたれを抱えながら座っている。

「さっき、またねって言ったでしょ。聞いてなかったの」

 頭がくらくらする。テスト、飛び降り、幽霊。全部、夢じゃなかった。やはり現実だったのだ。

「うーーん。なにから始めよう」

 幽霊は椅子遊びに飽きたのか、勢いよくその場から離れる。背もたれが元の位置に戻るバコンという間抜けな音を軋ませる。そのまま近づいてきて、まるで値踏みしているみたいに陸斗を見下ろす。その目に生気は宿っていない……ように見える。

「ひぃ」

「そういうのはやめようね。面倒になるから」

 陸斗はスマホを嘘みたいな馬鹿力で取り上げられる。幽霊は通報されていなかったことを確認してから、ベッドに放り投げた。そのまま戸の前に仁王立ちして退路を断つ。

 このままじゃ殺される。学習机まで飛び出し、机の上に目を走らせて、武器になりそうなものを探した。消しゴム、シャーペン……素早く両手にカッターと定規を持つ。足が震えるけれどやらなきゃやられる。陸斗は足の震えを抑えて、幽霊に対峙した。あほらしい武器は身を守るには心許ないが、こんなところで死にたくない。必死で構えた。

「はぁ、そうくるか。君、大丈夫? マイナス印象が深掘りされてくよ」

「く、来るな。そそそれ以上近づいたら、こうするぞ」

 両手を振ってがむしゃらに威嚇すると、幽霊は人ひとり分の間を取って立ち止まる。

「ちょっと待って、って。わたしはただ話がしたいだけ。そんなに敵意をむき出しにしなくても」

 幽霊は興奮した動物を宥めるように手を上げ下げする。

「話ってなんだよ。アンタと話すことなんてなにもない」

「それがあるんだなー。えーと、でもまずはその物騒なものを降ろさない?」

「誰が従うかって」

「あっそう。なら」

 幽霊はカッターの刃を右手で握りしめる。敵なのに「危ない」と言ってしまったのはおかしな話だった。鮮血が掴んだ手のひらから流れる――ということはなくカッターの刃はそのまま貫通していた。

 声は出なかった。気味の悪いマジックを見てるようだった。

 それから幽霊は手のひらを広げて目一杯見せてくる。傷がない。血も出ていない。幽霊は刃を弄んで、床の上に落下させる。突き刺さるカッターと手品を終えたみたいな満足げな表情。

「どう? 立ち話もなんだし、座ろっか?」

 幽霊は余裕を見せて笑うけど、陸斗は全然笑えない。

 筋肉が弛緩するのを感じる。倒れるーー思ってから世界が暗くなるのはあっという間のことだった。

「君さぁ、気弱すぎ。それともなに、倒れる回数のノルマでもあるの?」

 問いかけられて正気を取り戻した。どうやら椅子に座らせられているようだ。立ち上がろうとしても身動きがとれない。全身がガムテープで固定されていた。

「わたしの前だからよかったけど、そんなに気絶してるようだったら、普通の人は大変だろうね。運ぶの」

 叫び声を上げるものの、そこも先回りされていて、口をテープでふさがれているから言葉にならない。幽霊は持っていた定規を片手に打ちつけてゆっくりとリズムを刻んでいる。

「んばpすでわんkjん@ばs」

「ああ――ガムテープは物置から借りたよ。一応お礼を伝えておくわ」

「かjbふぃおだう@jb」

「君、やかましいし、話も聞いてくれないし。心苦しいけど少しの間だから辛抱してね」

 わざとらしい目つきでウインクされる。冗談じゃない。早くこれをほどいてほしい。こんなことしてなにになるっていうんだ。まさか、拷問?

 陸斗はまた暴れ出す。誰かに気づいてもらわないと――。

「gじゃすぱえ9いえypg」

「黙りなさいって」

 思いを込めた叫びは不発で、ただ意味不明の鼻息となって漏れたところに、指でおでこをこつんとつつかれる。幽霊なのに皮膚が触れる感覚が伝わってきた。そして、ガムテープ越しに腕を握って、じっと見つめられる。大きな黒目が鮮やかに濡れて光っている。こんなに凶悪なことをされているのに、どうしてだか嘘つきの目に見えないのが腹立たしい。

「順を追ってゆっくり説明するから、我慢して聞いてちょうだい。そうね、まばたきくらいなら許してあげるから。はいなら一回、いいえなら二回、ただのまばたきは三回以上。そうすれば悪いようにはしないから。分かった?」

 母性的な話し方に、かすかに人間味を感じる。どうやら危害を加えるつもりはないらしかった。それに拘束されていたら抵抗も無駄だ。熱っぽくなった頭がだんだんと冷めてきて、陸斗はこくりと頷き、動きを止める。

「まばたきだって。――まあいいけど」

 長い話をしようとしているのか、幽霊はベッドと床を見比べて、どかりと床に座った。

「さて、まずはここから。わたしがここに来たのはね、簡単なお願いを聞いてもらうため――」

 そういってこの失礼な幽霊はこちらの意向はガン無視で話し始めた。

 ともあれ、幽霊の話を要約するとこうなる。

 幽霊は現世を彷徨っていた。肉体を離れ魂の形で漂っていたところに、自分を神様と名乗る危険な存在と出会った。

「このまま転生しないと消えてしまう。魂でいられる時間は私でもどうしようもできない」

 神様は深刻な顔でそう語った。

 急に言われても――幽霊は思うが、他の魂も神様の言うことを聞いているので、嘘を吐いているわけではなさそうだった。自分としては消えたくなかったので転生の命令に渋々従うことにした。けれどすぐに転生できるわけではなく条件があった。それは生まれた場所や境遇によって個々人で違っていて、幽霊の場合はパートナーとともに自分が魂になった理由を突き止めることらしい。

 そこで転生マッチングシステムというパートナーを選定するためのふざけたシステムに登録するのだが、待てども一向に連絡はこない。多忙な神様を引き留めて、持ち前の強気で状況を問うと神様は平謝り。なんと、手違いで幽霊の登録を見送ってしまったらしい。

 詰め寄る幽霊に、逃げ腰の神様。存在が”無”になる期限は迫っている。すると神様側から提案があった。相性のいいマッチングをすっとばして今すぐマッチングできるパートナーがちょうど見つかりそうだ。それは体のいい責任逃れに見えたけれど、これ以上待てない幽霊もそれを受け容れる。さらに、さすがに気の毒だと思ったのか、神様は追加でボーナスを授けるという。すなわち、現世で良い行いをすれば、転生のみならず幸せなことが起こるというもの。当然の疑問として、悪い行いはどうなるのか訊ねると、神様は転生後の姿が人間であると保証できないと戒めた。

「わたしはね最初パートナーに、絶対に譲れない条件として同性の子がいいって希望したの。その方が楽だから。それで第二希望は謙虚でこだわりが強くないこと。なのにそれが、失礼で完璧主義の潔癖で、異性の男の子。それに加えて、余り物なんて」

 非難するように言う。そう言われても仲介者じゃないしどう反応していいか分からない。それに勝手に余り物にされていい気分はしない。

「というわけでね、君協力してくれない?」

 なのに悪口なんかなかったみたいに幽霊は希う。まばたきを二回して否定の意思表示をしたけれど、これも伝わらず幽霊は首を傾げる。アンタがやったんだぞ! と罵倒したいがこれも当然伝わらず。そして「あー」と手を叩きながら、ようやく自分が喋れないようにしたことを思い出し、ガムテープを乱暴に剥がす。

 冷たい空気が肌に触れる。なにが、というわけだよ。言葉は依頼風だけど、態度は命令調。それって矛盾してないか。

「経緯は分かったよ。でも、なんで僕が」

 苛つきながら返すと、幽霊はそれを上回る苛つき方で語尾を上げる。

「話聞いてた? 大前提としてマッチングは死を覚悟していた人と行われる。で、わたしはマッチングシステムの予約から外れてしまった。で、神様は急遽今死のうとしている人を見つけた。で、それが君。要はタイミングの話」

「さっき、そんなこと言ってなかったじゃないか」

「そうだっけ」

「それにもし百歩譲ってタイミングがあったのだとしても協力する義理はない。そんな面倒なことしたくないね」

 すると幽霊は大げさに落胆する。仰々しく跪いて上目遣い。悲しい音楽を鼻歌で奏でる。

「面倒って。屋上で助けてくれたときは優しいと思ったのに」

「は? まさか試してたのか。アンタが飛び降りようとしたら、僕がどんな反応をするか確認したわけだ」

「ご賢察。人は究極のシチュエーションじゃなきゃ本性を現さないって言うでしょ。自分のためにどれくらい真剣になってくれるか見ときたいからね」

 悪びれる様子なく舌をちらりと出す。そのことのためだけに飛び降りようとしたなんてどうかしてる。人の善意を踏みにじりやがって。なんて幽霊だ。

「ますます協力したくなくなった。普通、死んだらそこで終了だろ。転生なんてしないで、大人しく諦めろよ」

「ひっど。わたしが消えてもいいっていうわけ?」

「僕に関係ないし。ていうか、見て分からない? 僕はすごく忙しいんだ。これから勉強しなくちゃいけない。君と違って、暇じゃない」

 陸斗は幽霊を手で払い、椅子を回転させて机に向かう。塾は結果的にサボってしまったけど、お母さんには連絡がいってないみたいだった。もしバレてたら部屋に乗り込まれて、今頃大目玉を食らっているはずだ。

 ――加藤さんの息子さんと交換したいくらい。

 お母さんの言葉がちくちくと蘇る。陸斗は結局心の奥底に封印することにした。なにも言われていない。というか、勘違いの可能性が高い。落ち込んでいたから、脳が勝手にネガティブな響きに変換したのだろう。そう考えると幾分気持ちが楽になった。それに成績が上がれば沙依にするみたいに、認めてくれるし。つまり一刻も早く勉強するために、幽霊には早くここから出て行ってほしかった。

「ふーん、そんなこと言っていいんだ」

「なんだよ。脅しか? その手には乗らないから。どうせ大したことできやしないんだろ。だって本当に協力を求めるんだったら力ずくでも従わせるに決まってる。それをしないってことは、そもそもそんな力ないんだ」

「君、鋭いね。ただの勉強のできるインテリ君じゃないわけだ。――ところで」

「なに」

「男の子の部屋にしては、ずいぶんキレイにしてるね」

 幽霊は部屋を見回す。そして陸斗の方へ歩み寄る。近づいたり遠ざかったり忙しい。

 部屋は週に二回掃除をしていた。定位置にものがないとストレスが溜まるし、散らかっていると勉強に集中できない。しかし、それがなんの関係がある。もしかして、おだてようとしてるのか。そうはいかない。

「話を逸らすなよ。……まあでも、部屋は綺麗にしてるよ。雑然としているよりシンプルなのが好きなんだ。心が現れるっていうからね。常日頃から掃除をして――ってわぁああああ、なにしてんだよ!?」

 いきなり幽霊は机の上の物をブルドーザーみたいに落としていく。

「あー落ちちゃったね」

「落ちちゃったんじゃねーよ! アンタが落としたんだよ。せっかく掃除したばかりなのに。どうしてくれるんだよ」

 色順で並べていたペンや、自分ルールで並べた教科書、参考書が死体みたいに散らばる。これを片付けるのに一時間は必要だ。貴重な時間が失われていく。しかし、幽霊はそのことにはお構いなしでクローゼットを開ける。ハンガーをずらして、物取りみたいに物色する。

「勝手に開けるなって! アンタは一体なにがしたいんだ」

「ブランド、ブランド、ハイブランド……。ひょっとしてこれ香水? 色気づく中学生か」

 幽霊は香水を押し出し、咳き込む。

「別にいいだろ! 好みなんだよ!!」

「悪いとは言ってないよ。ただ服とかわたしでも着れそうなサイズだなって」

 許さない。こいつ茶化しやがって。身長のことを馬鹿にしやがって。

 身長が小さいのは、中学生になって生活リズムが崩れたからだった。小学生のときは順調に伸びていたし、背の順も真ん中くらいだった。つまり中学校生活に責任がある。生活が規則正しくなればきっとすべて元通りになる……はずだと思いたい。

 陸斗は香水を奪い取って、乱暴にクローゼットを閉める。

「きっとお気に入りの服が消えたり、掃除したばかりの部屋が汚くなったりしたら、嫌だろうなー。あー可哀想だなー。残念だなー」

 彼方を見つめながら、棒読みで言う幽霊。こんなに情感のないセリフあるだろうか。

「これから一生つきまとわれるなんて、どんなに大変なんだろう。想像を絶する困難が待ってるんだろうね」

 陸斗は舌打ちする。――なるほど。こいつのやりたいことが分かった。直接的には脅せないから嫌がらせをして、従わせようとしているんだ。もったいぶったやり方だと思う。でも、こっちだって切羽詰まってる。成績を上げられなきゃもっと大変なことになる。生物学的な死より社会的に死ぬ方が嫌だ。これ以上お母さんに嫌われたくない。

「好きにすればいいさ。言っとくけどなにしても無駄だから。僕は勉強しなきゃいけないんだ。幽霊なんか怖くない」

「へぇー、なかなかしぶといね。いいわ、勝負しましょう。君が負けたら協力する。私が負けたら潔く引き下がる。それでいい?」

「ああ」

「二言はなしね。せっかくパートナーを見つけたんだから意地でも協力してもらうわよ」

 こうして戦いの火蓋が切られた。

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