陸斗は窓越しに海を見下ろす。ガラスに触れる手がひんやりとして心地よい。

 陸斗は家族四人で県外のキャンプ場に来ていた。高台の岬に位置するキャンプ場は日中眺めが良くて、今でこそ客は少ないものの繁忙期となると都心からやってきた若者と家族連れで大層賑わうのだそうだ。

 お父さんの発案で来たキャンプもこれで三回目。芝生の上にテントを張り、星空を眺めればきっと気分が高揚するのだろう。しかし、あいにく陸人たちはコテージに宿泊していた。恵まれたのロケーションでわざわざコテージを選んだのは、姉の沙依が大の虫嫌いなことによる。

 沙依は陸斗に対して、三年先に生まれた姉の強権を存分に振る舞い、それが通用しないお父さんに対しては適当な理由を並べ立てて説得する。陸斗は不公平だと感じずにはいられなかった。しかも、そのコテージでカメムシが出現したとき、あろうことか沙依は陸斗を使役する。陸斗、あれ、アンタの出番と。

 ……ひどいお姉ちゃんだ。

 陸斗は窓際から離れ、フローリングに直に座った。痺れていた足ももう回復している。

 陸人たちはバーベキューを終えて、人生ゲームをしていた。三度目ともなるとトランプにも飽きてきたので、車に積んできてもらっていたのだ。

 都会的な騒音もないし、景色も良い。ゲームも楽しかった。

 でも、と陸斗は思う。こいつの態度はどうにかならないものだろうか。

「いつまで待たせるの。早く回してよ。それからさあ、ケーキ食べちゃいなよ。アンタのわがままなんだから」

 沙依は、陸斗の食べかけのチョコケーキを顎で指してから、薄すぎる紙幣を陸斗のスペースに投げつける。ひらひらと舞った紙幣はバラバラの位置に着地する。

「うるさいな。分かってるって」

 陸斗はルーレットを回す。沙依が投げた紙幣を集めて、丁寧に揃えて銀行に入れ、銀行から二万円札を一枚お母さんに渡した。カジノエリアではいつもお母さんの独擅場だ。 

「二人ともケンカしないの。姉弟なんだから仲良くなさい」

 お母さんは受け取った紙幣を金額順に並べ直す。十万円札がこれで三枚と二万円札五枚。

 今のところ一位がお母さん、最下位が沙依。

 沙依は反抗期と、たった今決定された最下位のせいですごく不機嫌だった。昔からこうだった。沙依はふとしたきっかけですぐ意地悪になるのだ。

「だからホールで買うなんて止めろって言ったじゃん。どうせ食べきれないし。あーあ、こんなことならアラカルトで買えばよかった」

「はいはい、そうですね。食べりゃいいんだろ」

 チョコケーキを掻っ込むと、甘ったるさが口内を占領してきた。本当はお腹いっぱいだったけれど、沙依なんかに言い負かされるのが悔しくて無理やり胃袋に詰め込んだ。

 すると沙依は口の端を歪めて、陸斗の隣を見る。

「ねぇいい加減それ捨てたら」

 それ、というのは猫のぬいぐるみのことだった。元のピンク色が剥がれて斑になっているし、お尻の部分から綿が飛び出ている。そこにあったはずの尻尾は見当たらなくて、見る人によってはまるで病気の猫かもしれない。

 でもこのぬいぐるみは大切だった。お母さんが選んで買ってくれたぬいぐるみだから。聞くところによるとまだベビーベッドで寝ているときから一緒だったらしい。汚れてしまうから無分別に持っていくわけではないけれど、気づけばプライベートな旅行などには必ず携帯していた。これがあるとどこでも家みたいに安心できるのだ。

 沙依はわざわざ触れなくていいのにそれに触れた。瞬間、頬が熱くなるのが分かった。

「うるさいな、くそブス」

「言ったな陸斗、お前」

「なんどでも言ってやるよ。沙依なんて死んじゃえ」

「二人ともやめさない」

 いつも静かなお父さんが声を張った。部屋全体が息を潜めたように静かになって、人生ゲームだけが不釣り合いな賑やかさだった。衣擦れの音も咎められそうで、陸斗はルーレットに触りかけた手をゆっくりと戻す。

 沙依はというと、私はなにも感じませんよというような風情で、余裕ぶっている。でも指の甘皮を剥がして、少なからずストレスを感じているように見えた。

「沙依、汚れたら捨てていいのか」

「うん。汚いし」

「また洗えばいい」

「綿も出てて醜い」

「修理すればいい」

「そんな面倒なことするより新品買ったほうがいいじゃん」

「そうか……」

 お父さんの机に置いた握りこぶしに少しだけ力が入った、気がした。

「じゃあ沙依の考えなら、お父さんがよぼよぼのじいさんになったら見捨てるんだな」

 これには沙依も戸惑ったようで、少しの間を置いて「……なんでそうなるの。しないよ、家族だし。でもぬいぐるみは家族じゃない」と突き放す。

「沙依にとっては物でも、陸斗にとっては家族なんだ。沙依はお姉ちゃんなんだから少しばかり寛容になりなさい」

 返事をしない代わりに沙依はお父さんを睨む。納得していないのは明らかだった。

 陸斗は、バレないようにほくそ笑む。ぬいぐるみを家族の一員と見なしてくれたことが嬉しかった。それに沙依じゃなくて自分に加勢してくれたことに、ざまあみろと言いたかった。

 しかし、お父さんは陸斗に対しても厳しい視線を向けた。それも沙依に対するそれよりもさらに厳しい視線を。

「陸斗、ケンカは大いに結構。若いうちは傷つかないと学ばないこともある。でもな、言って良いことと悪いことがあるのは分かっとけよ。死ねなんて言葉は使っちゃいけない。絶対だ」

 怒られるとは思っていなかった。陸斗は小さく震えた声で「はい」と言う。たった二文字の簡単な返事が締め付けられた喉には辛かった。死ねという言葉はありふれていて、クラスメイトの口論では頻繁に飛び交っていた。そんなにいけないことなのだろうか。陸斗はお父さんの説教を素直に受け止められなかった。

 沙依はまだむくれている。陸斗が全部悪くて、私は悪くない。そう顔に書いてある。

 二人の様子を見て、お父さんはふっと表情を緩める。

「二人ともこの世で一番大切なものはなにか分かるか」

 話の方向が見えなくて陸斗は面食らった。けれど、無言でいることはお父さんを苛立たせてしまうと思い「お金」と深く考えず言ってみる。続いて沙依が「才能」とぞんざいに言う。

「お父さんも若い頃はそう思ってた。でもな、本当に大事なのは血なんだよ」

「ち?」

「血筋、血縁、つまり家族だ」

 陸斗は沙依と顔を見合わせた。もっと刺激的な言葉が出てくると思っていたし、家族という言葉はなんだかとてもくすぐったくて恥ずかしい響きに感じられた。もちろん家族は大事だ。道徳の教科書にも書いてあるし、心でも分かっているつもり。けど、言葉にするとちょっと違う。大事さが安っぽくて、どこか遠くの方へ離れていく気がする。

「冗談みたいだろう。でもこれが真実だ。家族以上に大切なものはない。今はそう思えないかもしれないが、ピンチのときに初めて分かる。そういうときに助けてくれるのは金でも才能でもなく、必ず家族だ」

「じゃあお父さんを大事にするよ。もちろんお母さんも。沙依はいじめるから嫌い」

「私だって、こんな頭の悪い弟、願い下げ」

「お父さんとお母さんが死んだら?」

 死という言葉が唐突に差し出されて、胸が硬くなる。そんなこと言わないでほしい。お父さんたちはここにいるのに、死んでしまった姿を無理やりイメージさせられる。

「そのときどうする? この世に血が繋がった存在は陸斗と沙依、それからその先の未来にある新しい家族――多く見積もっても十人程度しかいないんだ。その一人を失うことはどれだけの損失かよく考えるんだ。だから――お母さんの言うとおり。姉弟は仲良く、な」

 そう言ってゲームの車に、ピンク色の棒人形を差し込む。沙依は黙ってお父さんの動きを見ていた。お父さんは沙依の頭を撫でようと手を伸ばすけど、沙依は嫌がって体を反らす。お父さんが淋しそうな顔をして笑って、行き先を見失った手でそのまま陸斗を手招きする。

 陸斗はお父さんの大きな手のひらが頭に載るのを感じた。その瞬間、水中にいるときみたいに鼻の奥がつーんと痛くなって、息がしにくくなる。我慢できたと思ったのに、透き通った涙が、堪えていた気持ちが、溢れてくる。

「こんなに泣けるのは、今だけだぞ」

 お父さんは優しく笑った。手のひらが温かくて気持ちが徐々に麻痺してくる。悲しい気持ちの上に優しさと温かさが塗されていく――。

 さんざん泣いて、陸斗は眠くなってきた。お父さんの元を離れ、いつしか陸斗はお母さんの膝を枕にしていた。色あせたお気に入りのぬいぐるみを抱きながら。

「マザコンだ」

 沙依に言われても気にならない。それよりも本当に眠ってしまうことの方が怖い。お母さんの膝枕が終わってしまうし、頭も撫でてもらえない。本当に眠ってしまったら寝床に移されて一人になってしまうので頑張って起きていた。

 一人は怖かった。暗い部屋で目覚めた幼稚園の頃の絶望感を思い出す。部屋には誰もいなくて、リビングに降りていくと三人は楽しくテレビを見ていた。「なんで起こしてくれなかったの」と聞くと、「ごめんね。眠たそうだったから」とお母さんは言った。お母さんはよかれと思ってやったのだろうけど、取り残された感覚は二度と経験したくない。

 ――でも、もう我慢できない。

 陸斗の呼吸がゆっくりと、次第に寝息へと変わっていく。

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