遠くから音が聞こえる。甲高い電子音を陸斗は無視できなくなる。

 くっついたように重い目蓋を開けると、うっすらと白い壁が目に映る。視界が鮮明になり、上下感覚が戻ってくるとそれが天井だと分かる。

 夢を見ていたらしい。六年前の余韻が体からなかなか離れない。

 なんであんな前のことを夢に見たのだろう――。

 起き上がろうとして、肘で踏んでいる柔らかいものに気づく。原因はこれか。

 ぬいぐるみを脇にどけると、また同じフレーズを繰り返そうとするアラームの息の根を止めた。それから時刻を確認する。――五時十五分。

 陸斗はベッドから飛び起きて、慌てて自室からリビングに向かう。


 リビングにはすでに沙依がいて、あくびをしながら参考書片手に朝食を食べていた。とろとろのスクランブルエッグとカリカリのベーコンはとてもおいしそうで、陸人は思わず生唾を飲み込んだ。

 キッチンから食器のぶつかるカチカチという音が聞こえる。お母さんがキッチンで洗い物をしていた。陸斗と沙依の食事は用意してあるから、今は調理に使った器具を洗っているようだ。しかも今日は金曜日だから居酒屋と清掃のパートを終えた直後だ。そのまま眠らずにご飯を作っていたのだろう。贔屓目に見ても、自慢のお母さんだと思う。

「十五分遅刻。ここでも一番になれないのね」

 四脚ある椅子の一つを引くと、後ろ向きのままお母さんが冷たく言う。陸斗はそれに返す言葉もなく、黙ってうんとだけ呟いた。確かにその通りだった。

 陸斗の席には沙依とは違う食事が並んでいた。並盛りの白米と具なし味噌汁、それに漬物が三きれだけ。陸斗は白米を口に運ぶ。冷たい。電子レンジを使おうか一瞬悩んだけど、時間がもったいないから止めた。食事があるだけマシだった。

 点数の変化が食事の質を変える。それが我が家のルール、その一だった。そうやって格付けすることで普段から社会を生き抜ける競争心を養おうというお母さんの思惑らしい。お母さんは常日頃から「一番以外は全部ビリ」と口酸っぱく言い聞かせていた。そして、「将来これが役に立つ、あなたのためなのよ」と必ずフォローを付け足した。

 陸斗だって、そう思う。この世は競争だ。なにかに秀でなきゃ生き残ることはできないし、生き残れたとしても幸せな人生は歩めない。お母さんは、自分たちのためを思って心を鬼にして辛く当たっているのだ。

 自己犠牲を厭わないお母さん。家事一つとっても、お母さんは自分の時間を削っている。毎日三食の食事を作って、洗濯や掃除をする。「私は家政婦じゃない」とタオルを投げつけられたときは驚いたけど、冷静に考えれば当然のことだと思う。お母さんは毎日この苦役を行っているんだ。だからこそ、頑張らなければいけない。一回の肩もみや家事の代行よりもずっと喜ばれる、ただ一つのことを――。

 陸斗は食事を進める。といっても量が少ないからもう食べ終えそうだ。それでも、最後まで油断しないで沙依の方は見ないように気をつける。ちょっとでも気を抜くと、きっと意地悪い顔をして、どうだ羨ましいだろうと煽ってくるんだ。少し前なんか、わざわざ聞こえるようにトーストの咀嚼音を聞かせてきやがった。それに陸斗が醤油を取ってほしいときも無視するし、逆に陸斗に頼むときは「あれ」だの「それ」だの最低限の代名詞しか使わない。もちろんお礼も言わない。沙依は会話を拒絶している。つくづく性格が悪いと思う。

 でも――今日のテストで挽回できる。この不本意な立場もここまでだ。

 今日は全国一斉学力試験の日だった。その追い込みをかけるためいつもより一時間も早く起きたのだ。最近は小テストが振るわなくて、二回も悪い点を取ってしまった。今回は大きなテストで、一年後の高校入試に向けての予選みたいなものだから絶対に落とせない。挽回してやる、と陸斗は意気込む。結果が出れば、待遇も良くなるしお母さんも喜ぶ。自分と、なによりお母さんのため頑張らなければいけない。

 陸斗は自然、食べるペースが速くなる。勉強時間を少しでも確保したい。

「陸斗、逆」

 リビングに戻ってきたお母さんが険しい顔つきで茶碗を指す。ご飯と味噌汁の並びが逆だった。慌てて直そうとして、味噌汁を少し零してしまう。すぐに布巾を取ると、「ダサっ」と沙依の心の声が表に漏れた。

「いただきますもなかったし、何回言ったら分かるの。食事のマナーなんてお勉強より簡単でしょう」お母さんは陸斗と沙依を交互に見た。

「ごめんなさい……」

 陸斗が謝ると、視界の隅で沙依が参考書をしまう。食事中に本やテレビ(NHKは特別)は禁止だったから、お母さんの注意は沙依に向けた言葉でもあった。お母さんは注意さえも効率化してしまう。

 食事を終えると、お母さんが「じゃあ……」と切り出し、椅子に座る。木製の使い古した椅子は悲鳴みたいに軋んで、沙依は背中に定規でも差し込まれたかのようにぴんと背筋を正す。

 いつものように成績報告会が始まる。

「今回の国語のテストは四十七点。平均点は三十三点。最高点と最低点はそれぞれ四十七、十八。私の点数が最高点。ミスをした一点は脱字、二点は予定になかった問題。次回は数学のテストです」

 と言って沙依は得意げにテスト差し出す。

「沙依、よく頑張ったわね。でも脱字はいただけないわ。見直しはちゃんとしたの?」

「時間がなくて――。でもこれは言い訳です」

「次からは時間配分も課題ね。あと参考書を変えましょう。丸川書店の方がいいって教えてもらったから。それから、数学は確か――」

「小柴先生」

「なら、学校の問題集で平気ね。あの先生、数字だけいじるけど問題集からしか出さないから」

「目標は?」

「満点です。満点以外取る価値はありません」

 沙依の定型文を聞いて、お母さんは満足げに頷く。不安材料がないから、沙依のテスト結果のときはお母さんも安心しきっている。すでに知っている点数をもう一度聞く感じ。何度見たか分からないいつもの光景だった。

 お母さんは陸斗を促す。油断していて一拍、反応が遅れる。目が合ったら非難されると思って下を向いていたのが間違いだった。陸斗は伝える項目を即座に思い浮かべる。自分の点数、平均、最高と最低……。

「しゃ、社会のテストは二十五点。平均点は三十八点。最高は五十点、最低は……えっと、覚えてません」

 裏返った声に早口。自分でもしっかり言えたか分からない。すると、お母さんは「原因」とだけ言った。その点数を取ってしまった原因を聞かれている。

「勉強不足です。あとは時事問題かと思い……ます」

 消え入りそうな声で言う。時事問題は嘘だった。少しでも傷を小さくしたかった。お母さんは重たさの感じられる大きなため息を吐き、コップのなかのコーヒーが少しだけ揺れる。

「なにが悪いのかしらね。参考書はレビューで高評価のもの。塾は大手。社会科の先生は板書一辺倒だけど、悪い先生とは思わないし」

 お母さんは頬杖をついて考える。いや、考え込むフリなのかもしれない。考えられる原因を列挙して、自分で潰していく。逃げ道をなくしていく。追い込んで実力を出させるいつものやり方。怖いけど、これで力が発揮されたことがあるのも事実だ。

 反論の余地などないところに、お母さんは一旦話題を転換する。

「昨日電話で話したけど、加藤さんのお宅はすごいわね。長谷川塾の近くに引っ越すみたい」

 長谷川塾というのは県内有数の学習塾で、お母さんはこのところご近所の教育熱心な加藤さんとその話題ですっかり夢中だ。これで三回は聞いた話になる。それで話の最後に必ず、『羨ましいわね。私達には無理だけど』とオチがつくのを知っている。でもこれで、昨日深夜の話し声と、沙依の目に彫られたくまの原因が解決した。沙依の部屋は階段に一番近い位置にあるから、きっと眠れなくてずっと起きていたのだろう。

 とにかく、とお母さんは続ける。

「教科書と参考書の該当部分は最低六回は読むこと。読めば覚える。コラムも必ず、ね。指でなぞって、声を出して、反復して読む。分かった?。全感覚を投入するのよ」

 それで反省会は終わりだった。陸斗はほっと胸をなで下ろした。

 今回は罰はなさそうだ。去年は得点が悪いと徹夜をさせられた。眠ったら冷水を掛けられるし、十五分ごとの見回りもあった。点数の取れない自分が完全に悪いとハッキリ分かるけど、そのときはさすがに参ったし、一年のときの体育の集団行動の授業で倒れてしまったのはすごく恥ずかしかった。

「それと、あの験担ぎは止めなさいね。みっともないから」

 沙依が自室に戻ったのに便乗して切り上げようとする陸斗をお母さんは呼び止めた。柔らかな口調だと余計に棘を感じる。それとなく言えたつもりだろうが、本当は前から言うのを決めていたことに思えた。

 100と書いた手製のお守り。お母さんはこれが嫌いだった。お母さんはエビデンスがないものは信じない。科学やデータ一筋で、宗教やまじないはお母さんの前では禁句。それであるときから初詣もクリスマスもなしになった。これはおばあちゃんとの関係が原因だと、仄めかされたものの詳しいことは聞けていない。その話は我が家ではタブーだった。

「はい……。すぐに捨てます」

 聞きたいであろう返事をする。こうしておけば機嫌を損ねることはない。

 ようやく成績報告会が終わると、お母さんはまたキッチンに引っ込み、お弁当作りに励む。

 お母さんがそっちに意識を集中させているのを確認してから、お父さんの部屋になっている和室に行く。そっと襖を閉めて、一人になると肩の力が抜けていく。歩くごとにい草の香りが鼻を撫でる。朝食の時間は緊張するけど、この部屋に入ると落ち着く。

 壁面にクリーニングの袋のかかったままのスーツがかけてある。触れると乾燥したビニールの破片が畳に落ちる。装飾の施された机には使い込まれた仕事道具があって、柱には陸斗と沙依の身長を刻んだ鉛筆の跡。お父さんの部屋の表情はいつまでも変わらない。足りないのは本物のお父さんの姿だけ。

 陸斗は線香を折って火を付ける。

 よくある高齢ドライバーの事故だった。車が歩道に突っ込んできて、そこに運悪く買い物中のお父さんが居合わせた。ただそれだけの話だった。

 仏壇に手を合わせる。

 時間が傷を癒やすと言うが、そんなことはなかった。お風呂で髪を洗っているとき、公園を歩いているとき、なんの関連性もないのにふと記憶が蘇ってきて、五年経った今も夢に出るお父さんは新鮮な悲しみを思い出させる。

 陸斗は最近あったことを報告して、最後にいつもの誓いで締めくくる。お父さんが亡くなって以来陸斗の習慣になっていた。

 お父さん、僕頑張るから――。お母さんを守るから。

 陸斗は自室に戻って、学習机に向かう。あと二時間で登校。最後の追い込みは、いつもより熱が入った。

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