僕と私の通心簿

佐藤苦

プロローグ

「ねぇ知ってる? この学校の秘密」

「なにそれ」

「あれだよ。男の子の」

「ああ、飛び降りたっていう」

「そう。成績が悪くてね」

「幽霊のでしょ。そんなのみんな知ってるよ。それのどこが秘密?」

「あれ成績が原因じゃないらしいよ」

「え。そうなの」

「学校が隠してるみたい」

「嘘っぽい」

「ホントだって。あっ」

「今度はなに」

「鈴木先輩……」

 鈴木波蒼が廊下の角を曲がると、数メートル先から二人の女子生徒が見ているのに気づいた。

 目が合った瞬間、しまったと思った。職員室に向かうのにこのルートを選んだ自分を呪いたい。けれど、今更戻るのもあからさますぎるし遠回りになってしまうから、不本意ながらも彼女たちの方向へ向かうことにした。

 学年章の色は一年だ。二年後輩の初々しい制服姿はやっぱり見覚えがあった。確か同じ委員会の子で、その片方の女子生徒がもじもじして口を開きかけている。

「鈴木先輩、あのぅ」

 波蒼は最後まで聞くことなく素通りした。たぶんいつものやつだったから。構うな寄るなの精神は伝えられたかな。

 自分が下級生から人気があることは知っていた。ある生徒は容姿を褒めてくれて、またある生徒は成績を讃えてくれた。だから女子生徒がなにを言おうとしていたのかは分かっているつもりだ。つまり、リスペクトや友だち志願的なもの。きっと下駄箱近くの掲示板で成績が張り出されているのを見たのだろう。

 でもそういうのって、冷めちゃう。本当の私を知らないくせに勝手に美化して奉ってる。

 波蒼は早足で歩き、背中に貼りついた視線を落とそうとする。

 なんで意図的に避けていることに気づかないのだろうか。所属する委員会がたまたま一緒だからってなれなれしく話しかけないで欲しい。

 中学卒業まではあと一年だった。グループに入らず己を貫き、かつ『近寄りがたい女子』として巧く立ち回れたと思う。新しいクラスの自己紹介も上出来だったと信じたい。でも、心労は尽きない。可哀想な女子をお情けで誘ってくれるお人好しなクラスメイトがいないとも限らないからだ。もしも強引に話しかけられたら、と想像してしまう。こっちはあえて独りを選択しているというのに、お人好しはいつだって透明の盾を突き破ってくる。

 ――まったく。なんで、私がこんなことに気を取られなきゃいけないんだろう。もっと他にやることはあるのに。

 いっそのこと、あなたと話すなら教科書の索引を読んでいる方が百倍マシとでも、面と向かって静かに怒鳴りつけてやろうか。そして、私と話すと碌なことにならないよと、言葉を添えてやるのだ。

 窓の外に影が見えて、波蒼は立ち止まる。向かいの校舎の屋上に男の子がいた。

 見覚えのある顔。もしかしたら先日あった三年二組の顔合わせにいたかもしれない。でも、名前は思い出せない。三十人弱の文字列なんて覚えてもすぐ忘れる。どうせみんな同じだし。

 波蒼は首を傾げ、しばし見つめる。

 どうするんだろう? 飛び降りるのかな。でも、できることなんてないけど。

 ――どうせ、みんな贋物なんだ。

 そう自分に言い聞かせ波蒼は職員室へ急ぐのだった。

 渡辺陸斗は天を仰ぐ。鈍色の空から零れた雨が顔をつつく。四月の雨はまだ冷たい。雨は天の涙というなら、もう少し温い温度で見送られたい。

 屋上のフェンスを越えると、手にざらっとした感触が残る。もしやと思って見てみると、チョコレート色の錆が手のひらの肌理に沿って刻まれていて、制服にもしっかりと帯状の汚れが付いている。一瞬どきりとしたけど、もうお母さんに怒られることもないから別にいい。

 家に帰ってから衝動で出てきてしまったので、遺書は用意していなかった。

 ――お母さん、ごめんなさい。期待通りの子になれなくて。お母さん、ごめんなさい。頭がよくなくて……。お母さんの子供に生まれて、よかったです。さようなら。

 陸斗は即席の遺書を心に書いてから、ふっと息を吐く。

 一日前にはこうなる未来は考えもしなかった。どうしてこうなったのかは、いまだに分からない。分かっていたらもっと努力していたけど、今となっては後悔しても仕方なかった。

 街はどこまでも濁っていて、灯りといえば家々からカーテン越しに漏れる淡い光くらい。ないと分かっていても、明るい空が見たかった。

 そういえば、と思う。まじまじと空を見たのは久しぶりかもしれない。

 六年前のキャンプ、楽しかった思い出。空を見たことで、脳内に鮮烈に蘇ってくる。

 あのときはよかったな――。無意識に出た陸斗の呟きは雨のなかに溶けていく。

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