駅前のベンチに陸斗は座っていた。少しずつ賑わってくる駅前で、意味なく改札から吐き出されてくる人々を数える。

 塾には行かなかった。そういう気分になれなかったし、皆とも会いたくない。それに、そろそろ一コマ目が始まっているはずだ。今更間に合わないだろう。

 なにをするでもなくただぼんやりとしていると、親子の姿が視界を横切った。女の子は五歳くらいだろうか。近くにあるガチャガチャを回したいと駄々をこねている。

 ――自分にもこんな時期あったかな。

陸斗はずっと前に見たテレビ番組を思い出す。小さな子がおつかいをして、その姿を見守るという内容だった。目的の物を買えても、買えなくてもお母さんは涙を流して喜ぶ。夕食の時間にお母さんとテレビを見て、温かな気持ちになったを覚えている。

 女の子がお母さんからもらった百円玉を楽しそうにガチャガチャに入れて回すと、記憶のなかのテレビの親子が二重写しになってしまう。

 誰にとっても微笑ましい光景なのだろう。でも、そう思えないのは歪んでいるからだろうか。むしろこんなことでお母さんが喜ぶということが、悔しくてたまらない。自分は交換したいくらい出来の悪い子供なのに、テストの点数や成績でしか喜んでもらえないのに。

 惨めで、消えてしまいたかった。

 陸斗はベンチから立ち上がり、歩き始める。

 自殺という言葉が頭をよぎったのはそんなときだった。

 それからは早かった。マツキヨを横切ると薬やハイターで自殺する自分を、ニトリのそばで包丁を自らに向ける姿を想像してしまう、通り過ぎるお店と死に方を結びつけてしまう。

 でも痛いのは嫌だからできるだけ楽で確実な死に方がいい。どうすればいいだろう。陸斗は歩きながら、理想的な死に方を考える。

 学校では自殺の方法を教えてくれなかった。社会に出てからの挙措を偉そうに講釈するけど、社会からの逃げ方は教えてくれない。代わりに先生は事務的に自殺防止ダイアルについて触れた。ここに電話すれば相談に乗ってくれると――。三年かけて学ぶ五教科に比べて、命の授業というのはいとも簡単に終わってしまうのだ。

 こういう状況になって分かった。自殺の相談なんて役立たずだ。だって本当に死にたかったら相談なんてしない。自殺というのは、実行するまでの間がとても短い衝動なのだから。

 死にたいと言えば、悲しむ人がいる、と力を込めて説得する。

 でも、悲しむ人がいなかったら? そういう家族がいなかったら、どうするのだろう。なんて言葉をかけるんだろう。

 死のう――。

 そう決めて、あてもなく歩いていると雨が降ってきた。傘は持ってきていなかった。

 ふらふらと学校に辿り着いたのは、慣れ親しんだ場所だからだろうか。この場所しか知らなかったからだろうか。

 学内にはほとんど人はいなかった。人目に触れることなく、そのまま屋上に向かう。

 屋上の戸は開いていた。

**

 やるぞ。――よしやるぞ。怖がることない。たったの一瞬だ。

 つま先から土踏まず。少しずつ足を縁に滑らせていく。そしてあと一歩で重心が崩れるというところで戻す。

「はあ……」

 ダメだった。これで三回目の失敗だった。テストもできない。飛び降りもできない。これじゃお母さんが愛想をつかすのも無理はない。

「ちょっと、そこの人!」

 突然、背後から人の声がした。背中を叩かれるような強烈なボリュームに、よろけて落ちそうになる。

 誰だ……。陸斗は体勢を立て直す。心臓が激しく不規則に脈打っている。こんな場所に人がいるわけない。ましてやこの雨。もしかして、と例の噂のことが脳裏にちらつく。飛び降りた男の子の幽霊が出るという話は一年のときから知っていた。この学校でその噂を知らない奴はもぐりだ。

 ゆっくりと肩越しに振り返ると、その心配は杞憂だったようで、そこには見知らぬ女子がいた。

「危ないなぁ! し、死ぬところだった」

 乱れた息を整えながら恨みを込めて言うと、その女子は、「死ぬところだったんでしょ」とフェンスを越えようとしてくる。スカートを履いていることなんて忘れているようで、陸斗は思わず目を背けた。

「悪いけど先いい?」

「は?」とわざと刺々しく言うと、わかるでしょとでも言いたげな表情で「飛び降り」と下を指さす。まるで、先にトイレ譲ってくれませんかくらいの軽いノリで。

 陸斗はギョッとした。声をかけられただけで驚いたのに、その発言内容は常軌を逸していた。

 自殺しようとしている人の隣に並んで、先に自殺をさせてと頼むのはどういう心情だ。あり得たとしても今まさに死にそうな人に声をかけるなんて相当ぶっ飛んでる。心が壊れているのか、まずかかわりたくない人種だ。

 陸斗は自然、後じさる。寄らないでほしい。

 しかしふいに、譲ってもいいかもしれないという考えが頭を擡げた。先に下で死なれるのは気持ち悪いが、自分もすぐに後を追うのであまり関係ない。だったら、譲ってもいいのではないか。そう考えた。いくら異常な奴でも、初対面が最後の対面なら構わない。

「別にいいけど。急いでないし」

「助かった。譲ってくれてありがと。じゃあ、また」

 女子は縁ギリギリのところに立ち、両手を広げる。ふぅ、とかはぁとか言う声が雨音に紛れて聞こえきて、それから急に静かになる。深呼吸をしていて、そのときが迫っていた。

 それにしても、と思う。

 整った横顔だった。なんで自殺なんて選んだんだろう。普通にしてたら色々優遇された人生だろうに。もしや性格が災いしたのだろうか。人間関係とかの悩み――。

 ま、関係ないか。どうせ、自分も死ぬし。そもそもそんな余裕ないし、どうでもいい。見ず知らずの女子が死のうが僕の人生にはかかわらない。これから飛び降りるんだ。僕だって準備しなきゃ。

 陸斗は精神を集中させる。この世界には自分一人だと言い聞かせる。隣にいる女子なんか気にならない。四度目の正直を、今度こそ。

 そうやって、空に倒れかけた女子の姿なんか無視する――つもりだったのに気づいたら手を伸ばして、この見知らぬ女子の細い腕を掴んでいる自分がいた。

「うわっ」と女子は尻餅をついて、「へぇー、優しいところあんじゃん」と憎たらしい笑顔を向ける。

 なんでこんなことをしたのか分からなかった。たとえるなら、車の前に飛び出す小さな女の子を止めるのと同じような反射なのかもしれない。はたまた目の前の人を救いたいという陳腐な発作なのかもしれない。理由は分からない。いずれにせよ、ただ言えることは――とにかく、本当に最悪の気分だった。


 雨が強くなってきた。その合間を縫うように雷も鳴っている。

 陸斗は屋上に出る戸の前の踊り場にいた。顔を見られたくなくて膝に顔を埋めている。家には帰れないし、自殺も不発。自分はこれほどまでに意気地なしだったのかと失望する。

 不本意にも助けてしまったあの見知らぬ女子はなぜかまだここにいて、距離を開けて座っている。帰ればいいのに、ただこっちを見てくる。なにがしたいか分からない。意味不明だ。腕の隙間から覗いていると、女子はあぐらなんかかいている。女なのに性別を分かっていない。

 三度目の雷にタイミングを見いだしたのか、女子は突然に口を開く。

「で、君はどうして死のうと思ったの? 死ぬのにはいい天気だと思わないけど」

 カウンセラーぶって、そっけなさを装って聞いてくる。答える必要なんてない。

「雨すごいよね。急に酷くなったよね」

 天気の話でも世間話でも、話す気はさらさらない。というか、アンタは誰だ?

「ひょっとして私の声聞こえてない?」

 膝の前で交差した腕に力を込める。雨音に耳を澄ませて、暗闇を見ていれば気が紛れる。

「泣き虫君」

「は」

 なんだって――。ムカついて思わず顔を上げる。

「よかった。聞こえてるね」女子は悪戯っぽく笑う。

 騙された。こんな挑発に乗せられるなんて。恥ずかしさが内側から膨らんでくる。陸斗は、耳の赤さを見られたくなくて、再び顔を伏せた。

 けれど、彼方から変な空気が漂ってくる。顔を伏せても分かってしまう視線。我慢比べは君の負けだよ、と言われている気がする。無視していた状態から反応してしまうと居心地が悪い。どのみち話すまで帰らないつもりだろう。だから、観念して話してみようと思った。

「意味がないから……生きてる意味が。僕は無価値な人間なんだ」

 陸斗は理由を話した。少しだけ話すつもりだったのに、赤の他人の女子は付き合いのある頌大より話しやすくて、気づいたら洗いざらいぶちまけていた。ツイッターで饒舌になるあの感覚、仲間が集まる高揚感。どうせここだけの付き合いだし、つい口が滑ったのかもしれない。全て話し終わると少しだけすっきりした。

 女子はうーんと唸ってから、顎に手を当てる。

 さて、どんな慰めがくるだろう。

「なるほどね。君の言い分はよく分かったよ。でもホントに無意味かな」

 思ってもみなかった。

「どういう意味だよ、それ。お母さんに褒められなかったら、僕は生きてる意味がない」

「褒められても褒められなくても人の価値は変わらないと思うけれど。君は他の人の評価で、価値が変わるの。わたしにはその感覚分からないな。ダイアはダイア。褒められても褒められなくてもその輝きは変わらないのに。なんというか、変わってるね、君」

 なんだよ、そのたとえ。変わってるのはどっちだ。慰められると思っていたら、逆に反論されるとは。やっぱりこいつはおかしい。

「分かって欲しくて話したんじゃない。どうせ僕の気持ちなんて分からないよ――それよりアンタの方はなんであんなことしようと思ったんだよ? 僕にそんなこと言える立場かよ」

「それはまだ話せないんだよね」

 噴き出しそうになった。威勢のいいこと言っておいて、話せないだって。

「は? まだってなに。どういうわけ? 話せない意味が分からない」

「うーん、なんというかそのままの意味なんだけど」

「なんだよ、人には聞いといて」

 人から恥ずかしい話を聞き出しといてズルい。それが命の恩人にする仕打ちか。

 すると、今度は女子がだんまりを決め込む。都合の良い奴だ。煙に巻こうとしたってそうはさせない。思い切って、聞いてみる。

「急に絡んできてさ。ひょっとして本当は自殺しにきたんじゃなくて、僕の自殺を止めに来たわけ? 校舎のどっかから見てて可哀想だと思ったとか。だったら、お節介な奴だな。偽善者だよ。――ていうか、そもそもアンタ誰だよ?」

 一瞬だけだが、女子は戸惑った表情を見せる。これまでの挑発するような斜に構えるような態度が少しだけ動いた気がする。もしかして図星だったのかもしれない。

 女子は案の定口を閉ざした。けど、さっきからその質問の答えより気になることがあってそれどころじゃなかった。暗くてよく分からなかったが、この女子は私服だ。私服の女子がなんでここにいるのだろう。忘れ物をしたことに気づいて戻ってきたのだろうか。違和感はそれだけではない。でもその正体が掴めなくてもやもやする。

「名前は言えない。ここにいる理由も」

「名前は言えないって、名前も、だろ。結局全部秘密じゃん。卑怯な奴」

 女子はやっぱりそう言った。これじゃ話し損だ。分かってはいたけど、はっきりと拒否されると苛つく。だったら、これ以上得るものはないと、階段を降りようとしたときに女子の足下に気づいた。

 女子は服が濡れていなかった。雨に濡れていたのに湿り気一つない。自分のぐしょぐしょになった上履きと見比べて、表情が固まる。なんだよ、これ――。

「……そうよね。確かに君の言うことは一理ある。卑怯に見えるかもしれない」

 女子は立ち上がる。音として聞こえても、脳内で消化できない。

「少しはわたしも秘密を教えなきゃ、アンフェアよね」

 女子は一方的に話して、屋上へ駆け出す。数十秒の間に、女子はフェンスを越え、屋上の縁に立つ。

 反応ができなかった。思考が整理できなくて、目が動くものを追いかけていただけ。走った道筋には濡れた靴跡も、水しぶきもなにもなかったのだ。

 遠く、両手を口元に当てる女子の姿が雨と同化している。 

「よく見てて。実はわたし……」

「危ない!!」

 叫んでも届かない。時間が静止して、女子の体が宙に浮く。

「幽霊なの!!」

 姿が消えると同時に、陸斗の視界は闇のなかに落ちていく。

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