陸斗は玄関の前で俯く。近所の人の目線が気になって、音がしないように陸斗は鍵を差し込んだ。

 静かだった。もしかしてお母さんはまだ買い物中なのかもしれない。靴を脱いで、洗面所に向かう途中のリビングで、畳んである花柄のエプロンが目に入った。

 お母さんは家計簿をつけていた。お父さんが死んでから、家計は全てお母さんが担っていた。

「おかえり」

 レシートとスマホを交互に睨めっこしながらお母さんは疲れたように言う。その響きで大体の機嫌が分かる。神経を逆なでしないように気をつける。

「ただいま」

 陸斗は手を拭いて冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。そのまま二階へ向かおうとする。この場所に留まりたくなかった。

「どうだった」

 刺すようなお母さんの声はテレビのついていないリビングによく響いた。なにを、と聞くのは野暮だった。テストの出来に決まっている。

 観念して、正直に告げた。途中でお腹が痛くなって、テスト自体放棄したことを言葉を選びながら説明する。なにを言っているか自分でも分からないくらいぐちゃぐちゃな説明だった。原因は分からないけど、本当に痛かった。本調子じゃなかった。ごめんなさい――。でも次は必ず、いい点数を取ると忘れずに伝える。もちろん一番を、一番じゃないと意味がないから。

 非難を覚悟していたけれど、お母さんは意外にも優しかった。

「今回も調子が悪かったのよね。また頑張りましょう」

 今回も、の部分に圧力を感じたけど、怒られることはなかった。疲れているのか、それか薬がよく効いているのかもしれない。

 お母さんが変わったのはお父さんがいなくなった頃からだ。昔は勉強のことなんて言われたことがなかった。どちらかというとマイペースで放任主義のお母さんで、勉強の面倒はお父さんが担当していた。でも、一人でなにもかもこなさなきゃいけないプレッシャーがそうしたのだろうか。優しさは厳しさに変わって、そのうち躁鬱病という病気を患った。テンションの高い状態と低い状態を行き来する厄介な病気は薬でコントロールできるが、感情に波があって難しいものだとウィキペディアに書いてあった。

「はい。死ぬ気で頑張ります」

 はっきりと言い切る。こうしないと、決意が甘いと怒られてしまう。

 返答はなかった。代わりにお母さんは立ち上がり、キッチンでコップに水を注ぐ。それで次になにをするか分かった。薬だ。

 お母さんは絶対に薬を飲んでいるところを見せなかった。それは弱さを見せたくないお母さんなりのプライドなのだと思う。

「塾の準備をしてきます」

 やはり返答はない。お母さんは薬を飲まず、ただコップの淵をなぞっている。

 無言の圧力を感じて、陸斗は自室へ引っ込んだ。戸を閉めて、その場に座る。長時間の説教を覚悟していたから、心臓がまだバクバクしている。

 助かった、と胸に手を当てる。軽い注意で済んだのは奇跡だ。点数が取れなかったどころか、テストを放棄したのにお母さんは許してくれて、再びやり直すチャンスまでくれた。罰の宣告もなかったし、格下げもなかった。見捨てられなくてよかった。一時はその覚悟もしたけど、やっぱりお母さんは優しい。

 安心すると眠気が襲ってくる。塾の時間までまだ三十分あった。重い荷物を降ろしたときみたいな疲れが一気に出る。陸斗は制服のまま倒れるようにベッドに横になった。


 階下から笑い声が聞こえて、陸斗は目を覚ます。お母さんだ。よそ行きのときの明るい声で誰かと話している。この声を聞くといつも、薬を飲んで無理していないか心配になる。

 塾の時間が迫っていた。渡されていたカフェインの錠剤をお茶で流し込んで、気怠い体に鞭を撲つ。本当は眠たいけど休むなんて無理だ。お母さんには三度の成績停滞で迷惑をかけているのだから、一段と気合いを入れて頑張らなきゃいけない。

 リビングのお母さんは話に夢中で陸斗に気づいていない。ボールペンで紙にくるくると重なり合う黒丸を描いている。今日も長くなるかもしれないな、と今朝見た沙依の目の隈の深さが頭を掠める。

 邪魔しないように、玄関を開ける。

「いえいえ。そんなお世辞でも――うちの子は出来が悪くて。嫌になっちゃうわ」

 人工の音声みたいな笑い声。大きくない話し声なのに、聞きたくない言葉がそこだけ強調されて耳にねじ込まれる。出来が悪い……。誰の話だろう、と陸斗は思った。

「ええ、本当に。でも、テストから逃げるなんて。この先嫌なことがあったら毎回逃げるのかしら。先が思いやられるわ」

 血液が冷たくなって全身を巡ったみたいな寒さと、小さな虫が這う気持ち悪いむず痒さが一瞬で背中に広がる。これからなにをすべきか分からなくなって、玄関の戸の取手から手を離せない。

 聞き違いだと思いたかった。振り返りたくない。どんな顔をしているか怖くて見られない。

 嘘だ嘘だ嘘だ。お母さんがそんなこと言うなんて。

「加藤さんの息子さんと交換したいくらい」

 追い打ちをかけるように、笑い声が陸斗の背中を押す。逃げるように家を飛び出した。行ってきますは言わなかった。

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