第16話 河岸の夢
従姉妹が城にやってきた時、城内の目は冷ややかだった。それは王弟である彼女の父の不始末のせいだ。
大公領を治める身でありながら、民を顧みず放蕩を尽くしついには暗殺された。戯れの狐狩りの最中、護衛のはずの兵士に襲われたのだ。逃げようとしたところを背中から一突き。
王族の恥さらし。背中の傷で死んだ臆病者。愚か者の娘。公女もそんな先入観で迎えられた。
幼い従姉妹は放蕩者の両親には顧みられず、部屋に押し込められ何も知らないままだった。子供に罪はないと、父王も言っていた。
王族の姫とは思えない、顔色も悪くうつむいたままの瘦せっぽちの少女。到底放ってはおけなかった。
「父様の娘になったのだから、私たちは姉妹よ」
同い年の従姉妹にそう言い、何くれとなく構い倒した。従姉妹に隔意を持つ侍女や女官には抗議した。二人の間に格差をつけようとする者は許さなかった。
やがてうつむいていた従姉妹は、顔を上げて微笑むようになった。二人の少女は面白いほどに得意分野が真逆で、互いに助け合うようになった。勉強やマナーを教え合い、ダンスや刺繍を共に嗜んだ。
その頃になると、城内の者は温かい目で二人の姫を見守るようになっていた。王女と公女の仲睦まじさを皆が見ていたし、互いが互いをフォローしあっていることも理解していた。公女が王や王女の助けになろうとしていることも伝わり、城で働く者たちは美しく花開き始めた二人の姫の幸せを願うようになっていた。
だが、城内は落ち着いても社交界はそうはいかない。王弟の不祥事はまだ記憶している者も多いし、そのせいで公女を侮る風潮も残っていた。
デビューの日が近づくにつれ伏し目がちになっていく従姉妹を見て、彼女は出会った頃のことを思い出した。見知らぬ場所で敵意を向けられて、怯えていた小さな少女。
せっかく笑うようになったのに、またあんな顔をさせはしない。
そしてリリシャは近衛騎士になった。
ざあざあと流れる水音が耳に聞こえてくる。寒さと、まとわりつく衣服が不快を訴えてくる。なんだか昔の夢を見ていた気がする。
「あ……」
ずしりとする重さに気づいて、リリシャは体を起こした。自分の上からその重さが滑り落ちる。
どさりと音を立てたそれを見て、リリシャは息を呑んだ。人の手だ。その持ち主はすぐ横に倒れていた。
「ハラル、リクム様……」
おそらくここは峡谷の底だ。すぐそばには轟々と流れる川、その向こうにはそびえ立つ崖。二人がいるのは岩場の間にある斜面で、川までの間には濡れた後が残っている。
状況を考えれば、あのあと川に落ち、ここへ泳ぎ着いたところで力尽きたということだろう。
「ハラル様!」
慌ててリリシャはハラルリクムを揺さぶった。反応がない。ぞっとして彼の体を抱え起こし、胸に耳を当てる。心臓が動いていることと、呼吸していることを確かめて、リリシャは全身の力が抜けたようにへたり込んだ。
呆けていたのは束の間。膝の上のハラルリクムが怪我をしているのに気付き、リリシャは我に返る。ここにはリリシャの他に誰もいない。早くハラルリクムの状態を確かめて手当てをしなければ。
周囲を見回して比較的安全そうな岩棚を見つける。荷物を管理していたのはスズルナだが、リリシャも万一のために最低限のものは持たされていた。スズルナ謹製の傷薬もある。リリシャはハラルリクムを背負って岩棚まで移動した。
濡れそぼった衣服をはぎ取り、傷の具合を確かめて処置していく。自分が深窓の姫君なんかでなくてよかったと心から思った。騎士団で色々と仕込まれたことがここで役に立つ。
裂傷が多い。流れの中、岩で傷つけられたのだろう。自分にほとんど怪我がないのは、きっと彼にずっと守られていたのだ。込み上がってきたものをリリシャは唇を噛んで耐えた。感謝するならハラルリクムが目を覚ますまで彼を守らなければ。
岩の上に脱いだ服を干し、リリシャは斜面の上の森に薪を集めに行った。日が落ちる前に行動しなければ暗闇の中で一晩過ごさねばならなくなる。
ここのところずっと山中での野宿を繰り返していたせいで、リリシャも大分慣れていた。幸い危険そうな獣の痕跡も見当たらない。実はワイラ軍が魔獣をかき集めたせいで、普通の獣は逃げ出していたのだ。
野営の準備を整えて、リリシャはまだ目を覚まさないハラルリクムの様子を見た。
「冷たい……」
体温が下がっている。水中で傷を負い、出血が多かったのか。
このまま冷たくなってしまったら。そう考えた途端、いてもたってもいられなくなった。
いつも力強く活力に満ちていたこの男が、人形のように動かないのはとても恐ろしいことだった。
「嫌です! そんなの、絶対許しません!」
リリシャは躊躇なく服を脱ぎ捨て、ハラルリクムに寄り添って抱き着いた。最初に乾かしたマントに一緒に包まる。体の芯から暖めなければならない。リリシャはハラルリクムの胸に頬を寄せ、腕を回した。
抱き締められた時は包み込まれるようだったのに、抱き締めようとしても届かない。それがそのまま及ばない力を示しているようで、リリシャは目を伏せる。
「早く目を覚ましてください、ハラル様。でないと私……泣いてしまいそうです」
リリシャは消えそうな声で小さく呟いた。
目覚めると胸の上に長い黒髪が流れ落ちていて、ハラルリクムはぎょっとする。腕にも足にも柔らかく温かな感触がまとわりついている。思わず心臓が跳ねた。
リリシャは眠っているようだった。起こさないように軽く首を動かして周囲を確認する。
燃え尽きた焚き火に、広げられたシャツやズボン。落とさずに済んだらしく、愛剣もそこに置かれている。空は夜明け前の薄明るさだった。
転落するリリシャを見て思わず飛び降りたのは覚えている。当てがなかったわけではなく、下が川であることは把握していた。
高さを考えれば無茶には違いないが、リリシャ一人では確実に助からない。自分が一緒ならまだ勝ち目があると思ったのだ。どうやら賭けには勝ったようだった。
空いている方の腕を上げて見れば、包帯が巻かれている。きっと血を流しすぎてひどい状態だったのだろう。でなければリリシャがこんなことをするわけはない。白い肩が丸見えだ。マントの下は想像してはいけない。
随分世話になってしまったようだと、ハラルリクムは小さく息をつく。自然と胸の上のリリシャに目が行った。
長いまつげも、桜色の唇も可愛らしい。女とはこんなに可愛いものだっただろうか。
抱き締めたくなって、ハラルリクムは慌てて自制する。勢いがついてしまったら止まらなくなりそうだ。それは彼女にも失礼だし、立場的にも危険すぎる。
「……やはり辞退するか」
ぽつりとハラルリクムは呟いた。話が来た時から考えてはいたが、口に出してみるとすっきりした。
もう少しこのままというのも悪くはないが、リリシャを起こそうと思った。いつまでも自制が続く気がしなかったのだ。
「リリシャ……」
声をかけようとして視線を落とすとリリシャと目が合った。起こすまでもなく目覚めていたらしい。
「ハラル様」
「お、おう。すまん。世話になった」
「辞退するって……何をですか?」
さっきの独り言を聞いていたらしいリリシャが、胸の上で身を乗り出す。想像すまいと思っていたものが目に入って、ハラルリクムは叫んだ。
「リリシャ! 頼む、服を着てくれ!」
「えっ、ああああ!?」
真っ赤になって飛び離れたリリシャが自分の体を抱き、ハラルリクムの目に曲線を帯びた白い背中が焼き付いた。
ハラルリクムは慌てて体ごと反対側を向いた。
衣擦れの音を聞きながら、怪我はないようだ、傷をつけずに守りきれたらしいと、ハラルリクムはその達成感に意識を逸らし続ける。目を閉じるという選択肢を取らなかった報いだった。
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