第3話 辺境伯領(2)

 馬はもう言うことを聞かない。リリシャは諦めて馬から飛び降りる。馬に神経を割くより、あれにどう対処するのか確認しなければ落ち着かない。


「リリシャ様ぁ!」

「落ち着け!」

「だって」

「農民たちを見ろ」


 チェカナを黙らせるためにリリシャは言った。

 一応農具武器は持っているが、集まっているだけで動きはない。逃げる気配がないということは、少なくともあのムカデをどうにかできると農民たちは思っているのだ。


「実は見掛け倒しとか……」

「そうだったらいいな」


 ムカデは向かってくる兵士に威嚇音を立て、頭から突っ込んだ。恐ろしい速度だった。同時に跳ね回る尻尾が地面を薙ぎ払う。

 リリシャの認識では、この攻撃で相当数が吹き飛ばされ、大惨事になるはずだった。だが誰一人として兵士は脱落しない。各人がそれぞれ、かわすなり受け流すなりして身を守ったのだ。

 ムカデが突っ込んだ地面はえぐり取られ、土砂が跳ね飛んでいる。


「見掛け倒しの威力ではないな……」

「勘弁してください、リリシャ様あ!」


 上官の背中に隠れようとするチェカナをちらと睨んで、リリシャは視線を前へ戻す。

 兵士たちは包囲を緩めず、盾を持つ者を前面に出し後衛が斧槍ハルバードを向けた。互いに隙を伺い、どちらも構えたまま睨み合う。


「ちっとでけぇな」

「あいつ食えないから、でかくても嬉しくない」

「キーキーうるさいね。赤ん坊が起きちまうじゃないか」

「暴れた後の、後片付けが面倒なんだよ」

「掘られた地面、埋め戻さないといけないからなあ」


 一緒に見物している農民たちの気の抜ける会話。あんな化け物を前にしてどうとも思っていない。

 リリシャの背を冷や汗が伝う。一体この辺境領とはどれほど異常な場所なのか。


「あ」


 農民の一人がふと声を上げた。


「若だ」

「お!」

「終わったな」

「おっしゃ! なら後始末も楽だな」


 ムカデと、それを取り囲む兵士たちのさらに向こうから、誰かが走ってくる。体格からして男だろう。シルエットからどうやら背に何か長いものを背負っているようだ。

 それに気づいた兵士が、まるで場所を空けるように素早く散開し、後退する。

 何故、とリリシャが疑問に思った直後、不意にその人影が視界から消えた。


「おおりゃああっ!」


 腹に響く大音声の後。空を切る音、地響き、吹き上がる土砂と青黒い飛沫、それに背筋を寒くする金切り声が重なった。

 リリシャの目に、切り離されたムカデの尻尾が見えた。弓ぞりになってのたうつムカデの残り前半分。それを斬り上げる剣閃。

 長い、2メートルを越えるだろう片刃の剣。見たことのないその武器を振るったのは、がっしりした体躯の若者。

 瞬殺。

 一体どうやって距離を詰めたのか、ムカデはあっという間に三分割されて絶命していた。最後についでのように、のたうち回る胴体を重ねて剣で縫い止める。

 茶色の短髪。太い眉、力強い笑みを浮かべた唇。肩も胸も分厚く、手足も丸太のよう。逞しい、という言葉をそのまま人にしたような男だった。

 リリシャは呆然とその男に見惚れた。見たことがないという意味では、武器だけでなく持ち主もそうだった。リリシャの知る王都の洒落た若者や、典雅な貴公子とは真逆。これほど圧倒的な男は騎士団のどこにもいない。


「……あ。逃げて! そこの人逃げて!」


 その彼が、こちらを見て慌てて叫んだ。さっきの雄叫びとは違い、悪戯が見つかった少年のような声音だった。

 案外可愛い人なのかしら。

 そんな益体もないことを考えて、リリシャは自分に影が差しているのに気付いた。


「え?」


 振り仰ぐと、真上に斬り飛ばされたムカデの頭部。当然落下中。チェカナも、周囲の農民たちもとっくに散っている。

 硬直して動けないまま、リリシャはムカデの頭に圧し潰された。

 体に当たる固い甲殻の感触、切り口から流れ落ちる体液、絡まる足。ムカデの頭と抱き合って転がったリリシャは、一瞬呼吸を止める。目の前で、まだ弱々しく動く口ががしゃりと噛み合った。


「ひっ……ひゃあああああああっ!! いやあああ!!」


 騎士の矜持も何も吹っ飛んで、リリシャは生涯最大の派手な悲鳴を上げた。





「大変申し訳なかった」


 目の前で平伏して謝罪する青年。リリシャは涙目でまだふるふると震えながら、青年を睨みつける。

 使者の大役、シンクレアのためという使命感。騎士のプライドなどで固めていた鎧が、一気に砕かれた感じだ。

 普通の女の子みたいに叫んでしまった。

 恥ずかしい。ただその一点である。


「……、…………です」


 リリシャの小さな声を聞き取ったのか、青年が顔を上げる。


「もう、いいです! あなたのせいではありませんから!」


 実際皆さっさと逃げていた。警告もしてくれた。自分がぼうっとしていたのが悪いのだ。たかが虫の死体にぶつかった程度で、か弱い娘のように悲鳴を上げるなど、軟弱な精神が悪いのだ。

 今もだらしなく腰を抜かして女の子座りをしている。とても王都の知り合いには見せられない。


「本当にすまなかった」


 もう一度謝って、青年は立ち上がり、リリシャに手を差し伸べた。男の手が大きいと思ったのは初めてだ。幸い立ち上がってみれば足が震えることもなく、リリシャは外面を取り繕うことができた。


「若! 戦闘に巻き込まれた人がいるって……」


 駆け寄ってきたのは藍色の髪の女性だった。白い貫頭衣のようなものを被り、手には四角いバッグ。背が高くスタイルの良い美人だ。


「ああ、スズ。念のため診てくれるか」


 スズ、と呼ばれた女性はリリシャをじっと見て、隅に転がっているムカデの頭を見て何か察したらしい。


「とりあえず、お風呂入ります?」

「お願いします!」


 地面に倒されて土まみれ、ムカデの体液を被ってドロドロ。ぶっちゃけ泣きたい。


「案内しますわ。王都の方?」

「近衛騎士団のリリシャだ。王より辺境伯へ書状を届けに参った」


 訊ねられてリリシャは我に返った。物見遊山でここまで来たわけではない。騎士モードで返答する。

 女性は固まり、青年の方を向いて怒鳴った。


「何してくれてんの!」

「えっ……別に狙って落としたわけじゃ」

「狙ってたら反逆罪でしょうが! ああ、うちの若が申し訳ありません。あたしはスズルナ。アンサト家に仕える者ですわ。すぐ館へお連れします!」

「スズ……」

「あなたはすぐにそこのゴミを片付けて館に戻ってください。御館様に報告しておきますからね!」


 スズルナはリリシャとチェカナを領館へ連れて行くと、メイドたちを呼び寄せた。


「王の御使者です! 失礼のないように。まずは湯殿にお連れして洗って差し上げて! あたしは御館様にお知らせしに行きます」


 てきぱきと差配する様子は、まるで彼女がここの女主人かのようだ。だが先ほど名乗った時には家臣のような口ぶりだった。


「どうやら若が大変ご迷惑をおかけしたようで……できれば穏便に」

「私も不注意でしたので、もうそのことは……ところで若、というともしやあの方が?」

「当家の若殿、ハラルリクム様です」


 スズルナは苦笑しながら、だがどこか自慢げに言った。

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