しあわせになれない人
増田朋美
しあわせになれない人
しあわせになれない人
寒い日だった。西洋というところは、冬になると本当に寒いところになるのだ。何処に行っても有希は降るし、木々は葉を落として、雪をかぶっている。信号機の上にも雪は積もるし、いくら雪かきしても、意味がないじゃないか、という声があちらこちらから聞こえてくる。時には、雪のせいで転倒し、けがをしないようにという放送が流れるときもある。
今日もそんなわけで、転倒しないようにという放送が流れているパリ市内だったが、マークの住んでいる、モーム家では、とても深刻な問題が起きていた。
「水穂、ケーキ買ってきた。一緒に食べましょ。」
トラーは、にこやかな顔をして水穂さんに言ったのであるが、水穂さんは、嫌そうな顔をして、かけ布団をかぶった。
「大丈夫よ。そば粉のケーキだから、えーと、食べ物で具合が悪くなることを何ていうのかな。よく知らないけど、大丈夫。」
トラーはそういいながら、ケーキをフォークで切って、水穂さんの口元までもっていくのであったが、水穂さんは口にしなかった。
「なんで?生クリームも何も塗ってない、本当にそば粉だけのケーキなのよ。具合が悪くなることはないわよ。大丈夫だって。」
次いでいえばそうなのである。そば粉のシフォンケーキなのであった。小麦粉ではないから、食べても発作を起こす心配はないのであるが、水穂さんは食べようとしない。
「そば粉は嫌いではないでしょ。だから、食べよう。」
そう呼びかけてもだめだった。
「なんで?ケーキは嫌いなの?それとも食べたくないの?」
「食べる気がしないんです。」
やっと細い声でそういうことをいう水穂さんに、トラーは、一寸語勢を強くして、
「ダメよ!昨日から何も食べてないじゃないの。食べないと体力なくなって、本当に動けなくなっちゃうわよ。だから、なにか食べて元気をつけなくちゃ。」
というが、返事の代わりに返ってきたものは咳であった。
「どうしてそうなっちゃうのかな。あたしの日本語、わかりにくいのかしら。どうしてこう、食べたがらなくなっちゃうんだろう。」
そのうちに、水穂さんの口元から、朱いものが流れてきたので、トラーはケーキの皿をサイドテーブルに置き、代わりに、口元を濡れタオルで拭いてやる。
「こんにちは。」
不意に、玄関先から声が聞こえてきた。まだ、兄のマークさんが仕事場から戻ってくる時刻ではなかった。多分やってきたのは、せんぽ君こと、隣の家に住んでいるチボー君だろう。それと同時に、
「ボンジュール。」
と聞こえてきたので、ベーカー先生が来たことも分かった。トラーが、咳き込んでいる水穂さんを放置していくわけにはいかないな、どうしようと考えている間に、二人はどんどん上がってきてしまった。こういうことは、西洋では別に恥ずかしいことではない。
「どうしたんだよ。応答もしないでさ。何かあったかい?」
チボー君が、客用寝室に入ってきて、トラーに心配そうに言った。
「見てのとおり、また何も食べなくなっちゃったのよ。」
トラーは、大きなため息をついた。その間に、ベーカー先生は、水穂さんに持ってきた薬を、水で飲ませて静かにさせ、水穂さんの体を観察している。日本人がするように、一寸失礼とか、そういう挨拶は一切抜きで、いきなり本題を切り出してしまうのは、やはり西洋人だった。
「いつから?」
とチボー君が聞くと、
「昨日から。今日の朝食も食べないし、お昼も食べないし、今ケーキ出したけど、結局口にしてくれなかった。」
と、トラーはがっかりした口調で答えた。
その時、ベーカー先生が、また何か言い出した。それは二人にとっては望んでいた事だったかもしれないど、日本に居る蘭たちが聞いたら、きついセリフになってしまうだろうなと思われる言葉だった。
その次の日。トラーが、客用寝室に、ご飯をもってやってきた。とりあえずご飯はサイドテーブルの上に置いて、水穂さんに声をかける。
「それじゃあ、ご飯の前に着替えようか。昨日と同じ格好では、気が滅入るでしょ。」
と、トラーは、トランクを急いで開けた。トランクを開けると、銘仙の着物ばかりはいっていた。
「あーあ、全く。なんで、こんな派手な着物ばっかり、持っているんだろ。」
トラーはそういいながらも、着物を一枚取り出して、
「ほら、着替えてよ。あたしじゃ、着せ方もわからないから、ここだけはちゃんと着替えて。」
と、水穂さんに一番地味だと思われる着物を渡した。
「でも、わざわざ着替えなくても。」
水穂さんはそういうが、
「だめ、一日ごとに、着物を変えなきゃ。ちゃんと着替えなくちゃダメ。」
トラーはそういうことを言った。
「あ、はい、分かりました。」
水穂さんは、そういって、着物を受け取って、よろよろと立ち上がって、着物を着換えた。まだ何とか立てるから、悪くはなっていないのかなとトラーは思った。いや、思いたかった。
「ねえ水穂。」
トラーは着替を終えて、ふたたびベッドの上に座った水穂さんに、こう尋ねてみる。
「ねえ、水穂さ、どうしてこんなに趣味の悪い柄というか、似合いもない柄の着物を着ているの?こんな柄の着物、杉ちゃんの着ているのとは、ぜんぜん違うじゃないの。」
「さすがはファッション大国だけありますね、そういうことを気にするんですか。」
と、水穂さんは、静かに言った。
「そんなこと、今は関係ないわ。ただあたしは、どうして、こんな着物を着ているのか、気になるのよ。それだけの事よ。」
トラーは、そういうことを言った。
「それだけの事って言っても、あたしは気になるの。だって、同じ日本人でも、杉ちゃんのとは全然違うし。ねえ、日本では、着物というモノを、よく着ているんだそうだけど、そういう柄の着物も、平気な顔をしてきているの?」
「平気な顔じゃありませんね、こういう柄の着物というのは、特別な身分の人ではないと着ないんですよ。」
「特別な身分って何?」
水穂さんの答えにトラーは聞いた。
「日本は、そういう所なの?あたしもね、少しばかり学校で習ったことはあるけれど、確か、日本には、士農工商という四段階あるっていう事は聞いたわ。でも、もう撤廃されたんでしょ?そうなっているはずよね?」
「そうでしょうか。撤廃されたのは、ほんの少しで、事態は何も変わってはいませんけどね。」
トラーの問いかけに、水穂さんはそういうことを言った。
「そうはいっても、それは日本にいればでしょ。でもこっちへ来たんだから、もう幸せになっても、いいんじゃないの?少なくとも、あたしは、そう思うけどな。」
「でも、僕みたいな身分の人が、幸せになったりしたら、ほかの身分の人たちが、どうなってしまうか。
それを考えたら、とてもそういうことは出来やしませんよ。」
水穂さんがそういうと、トラーは何の事だかわからないという顔をする。
一方そのころ、杉ちゃんは、チボー君と一緒に買い物に出ていた。最近のヨーロッパでは、健康にいいという事で、日本の伝統食が大量に売っている。其れが日本では嫌われている食材ばっかりだ、と杉ちゃんが言うと、チボーは、一寸驚いていた。そんな話をしながら買い物をして、そのあと道端の喫茶店でコーヒーを二人で飲んでいると、チボーが、杉ちゃんにこんなことを話し出した。
「ねえ、杉ちゃん、一寸お尋ねしてもいいでしょうかね?」
「ああ、何だ?」
ケーキを食べながら、杉ちゃんは、そう返した。
「ええ、水穂さんの事ですけどね。このまま、こっちに居させてやるという事は、出来ないでしょうかね?」
「なんで?」
チボーがそういうと、杉ちゃんは、すぐそう返した。チボーはいきり立って、
「だってそうじゃないですか。此間ですね、ベーカー先生が来て、診察してくれたんですけどね、もうかなり悪いようじゃないですか。水穂さんは。それに、水穂さんも言ってましたけど、日本では特殊な身分であるせいで、ちゃんと医療を受けられないそうですね。それじゃあ、そんなところに返すわけにはいきませんよ。そうじゃなくて、ちゃんとした治療を受けさせてやるのが、周りの人の務めじゃないでしょうか?」
と、杉ちゃんに言ってみる。杉ちゃんは、ウーンと腕組をして、一寸考えて答えを出した。
「だけどよ、本人は、日本に帰りたいみたいだけどなあ。」
「そうですが、それは杉ちゃんの意見でしょう。でも、日本では人種差別がひどいと聞きましたよ。そういうところに、水穂さんを戻したら、ちゃんと治療も受けられなくて、このままでは本当に最悪の事態になってしまうかもしれないじゃないですか。それを避けるというのが、人間のすることじゃないかなあ。少なくとも、神様は、くるしんでいる人間を見捨てたら、いけないってことくらい、ご存知なんじゃないでしょうか?」
西洋人というか、キリスト教徒の言いそうな発言だった。何かあると必ず、神様の事を持ち出してしまう。
「ああ、そうですけどね。神様対決になっても困るんだよね。」
と、杉ちゃんはそういった。
「いや、宗教がどうのとかじゃありません。今、水穂さんを日本へ返したら、ちゃんと治療もできていないのに、戻してしまうという罪を背負うことになります。トラーも、彼女のお兄さんも、そうなってしまうんですよ。杉ちゃん、もうちょっと、こっちにいてください。もし、日本の方々が何か言ってきたら、僕たちが水穂さんの具合が悪いと、ちゃんと言いますから。」
チボーは一生懸命そういうことを言った。西洋の人は、そういう風に、罪のことをすぐに口にする。だから罪の文化といわれるのであり、日本人は恥の文化と言われてよく比較される。
「もう、しょうがないなあ。まあ、こっちに居て、食べ物に多少不自由という事はあるけど、最近、日本の食べ物も、手に入るようになってきたしな。そうするかな。」
と、杉ちゃんは、あーあ、とため息をついた。
「でも、杉ちゃん、僕にはどうしてもわからないんですけどね。どうして水穂さんは、人種差別されないといけないんでしょうか?例えばですよ、アメリカみたいに、白人と黒人で差別されるとか、そういう事ならあり得るかも知れません。しかし、日本は、そういう異人種が住んでいるとは聞いたことがないんですよ。なんで水穂さんは、ああしてつらい目にあってきたんでしょうか?」
チボーはさらに、杉ちゃんに聞く。
「ウーン、説明が難しいんだけどねえ。日本には、死んだ家畜の処理をして、その革を剥いで鞄とか帽子を作るという仕事があってねえ、その人たちが、山の奥深くとか、そういうところに住まわされて、一般の人は立ち入り禁止区域とされていて。それを、今の言葉では、同和地区というらしいが、、、。」
と、杉ちゃんは、答えた。なかなか日本の部落問題を説明するのは難しかった。
「水穂さんはその立ち入り禁止の区域で生まれたんだ。奴の家は、そういう革細工を扱う所だったもんでね。で、そこで生まれた人は、人種差別に会うという訳だよ。」
「そうですか。では、こちらの例で言いますと、ワルシャワゲットーと同じようなもんでしょうね。ワルシャワにも、戦争中、そういう立ち入り禁止区域があって、中にはユダヤ人が住んでいたんですよ。水穂さんもそれと一緒かなあ。」
「まあ、似たような例と言えばそうなるな。その人種差別が日本ではまだ続いているという事だ。一応解放令というのは出たらしいが、それなんてなんの役にも立たないっていう事だなあ。」
チボーが、西洋で歴史的にあった例と当てはめると、杉三もそうだなと同調した。何処の世界にも、そういう差別的に扱われた人はいるという事である。日本では、いくら同じ大和民族と言っても、そうやって身分を決めて、立ち入り禁止区域を作ってしまうし、西洋では、民族が違うからといって、差別してしまう。
「でも、それを反省する声も高まっています。僕たちは、あの戦争の後で、人種差別はしないようにと、法令が出たという事を、学校で習いましたよ。日本だって、そうしないように、法律で義務付ければよかったのに。」
「そうだねえ。」
と、杉ちゃんは、チボーの話にちょっと言葉を濁した。
「解放令は出たけれど、反省はしないのはおかしいですね。なんで、そういうことはしなかったんでしょうか、今までしてきたことを、謝罪するとか、日本人はしなかったんですか?」
「うん、しなかったね。」
杉ちゃんは、チボーの投げかけた疑問に即答した。そこだけは、はっきりしている。
「そうですか。日本ってそういうところがありますよね。そうやって、ちゃんと処理をしないであいまいにしちゃう。だから、おかしくなるんじゃないですか?そうじゃなくて、解放令を出した時に、人種差別をしたら罰則をつけるとか、そういう風に工夫をすればよかったんだ。少なくとも僕たちはそうすると思いますよ。」
チボーは、そう熱意をもっていった。確かに、外国人であれば、そういう風に見えてしまうのだろう。日本は、江戸時代が長すぎて、つまり、自分たちだけで暮らしてきた時代が長すぎたせいか、何でもあいまいにしてしまうような気がする。何だかもうちょっと、歴史的なこととか、国家的なことは、徹底的に取り組んだ方がいいのではないだろうか。そうすれば、もうちょっと平和的な国家になるだろう。
「まあねエ、日本の歴史は、おかしなところが多いから。僕も詳しくは知らないけど、もうちょっと、周りのやつらの意見を聞いたほうがいいというのは、確かにあるよな。」
杉ちゃんもそこまでしか、発言できなかった。
一方、モーム家では。
「でもね、水穂。いくら日本の歴史のせいと言ってもよ、そのせいでわざわざ、いじめられたままでいるというのもどうかと思うわ。それに、その着物を着て、わざわざいじめてほしいというような危険信号みたいじゃない。」
と、トラーが、水穂さんにそういっていた。
「そうですが、この着物を着ていないと、えたの癖に、なんで同じ着物を着ているだって、またひどいことをされるんじゃないかと不安なんですよ。だから、どうせそうされるなら、こういう着物でいたほうがいい。」
と、水穂さんはそういうことを言った。
「でもね、水穂。しあわせになっていいという権利は、誰でも持っているんじゃないの?それをなんでわざわざ取ってしまうような、そんな事するのよ。」
と、トラーは、いきなりそういうことを言い出した。
「いえ、だから僕は幸せになってはいけない身分だって、いったじゃありませんか。そうなると、ほかの人が必ず不幸になるんですよ。それだけはどうしても避けなきゃ。」
「そうね。」
と、トラーは一つため息をついた。
「水穂がそうなように、どうしても変えられないこともあるのかな。それを言うならあたしのほうが、周りの人をもっと不幸にさせていると思うけど?」
「トラーさんの方が?」
水穂さんは、そう、思わず言った。
「ええ、あたしの事で、お兄ちゃんだって、困っていると思うわよ。あたしは、リセをやめてから一度も働いたことはなかったもの。でも、働けそうな場所がないし、どうにもならないのよ。」
と、トラーは、ちょっと悲しげに言った。
「トラーさんは、ずっとお兄さんと二人なんですか?」
と、水穂さんはそう聞いてみる。
「ええ、リセにはいる前に、親が事故で死んでね。そのあとはずっとお兄ちゃんと二人。十年離れているから、お兄ちゃんは、別の町で仕事やってたんだけど、あたしが、リセをやめてから、もっと近いところにって言って、こっちに来たのよ。何回か、病院に行ったりもしたけれど、解決のしようがなくて、ずっとこの生活よ。どう?あたしの方が、周りの人を余計に不幸にしていると思わない?水穂、一寸考えなおしてよ。そういうことだってあるのよ。」
「そうですか。僕も似たようなものでしたよ。親が、僕だけおいて、姿を消してしまったので、僕は、部落のリーダーに育ててもらいました。なぜか、こういう地区では、近所の人も仲が良くて、僕に何かしらと世話をしてくれたりしましたね。大学に行った時も、まるで出征するように、近所の人たちが見送ってくれました。」
トラーの発言に水穂さんは、そう答えを出したが、その次の発言を言えなくて、その代わりに咳き込んでしまったのであった。
「いいわね水穂は、そうやって、少なくとも、愛されたことがあるんだから。あたしはどこに行っても、お兄ちゃんの事困らせている悪い奴としか見られないわよ。」
と、トラーは、そういうことを言い出した。確かに、彼女の言う通りなら、そういう事になるんだろう。でも、水穂さんは、彼女の話を肯定しなかった。
「でも、お兄さんは、一生懸命やってくれているじゃないですか。それは、トラーさんがいるからではないのですか?」
それだけ言って、また咳き込んでしまう水穂さんに、トラーは、その背中をさすってやりながら、水穂さんにこういうのであった。
「ううん、お兄ちゃんがあたしの事どう思っているかは、正直あたしもよくわからないわよ。若しかしたら、本当に消えてほしいって思うときもあるんじゃないかしら。事実あたしは、そういうことをしてきたんだから。でも、こんなこと言っては難だけど、あたしは、水穂にここにいてほしいの。だから、ほら、食べる気がしないなんて言わないで、食べて。」
なんというこじつけであるが、トラーはどうしてもそうしてほしいんだなという気持ちを丸出しで、そういった。水穂さんも、こういう言い方をされて、どう反応していいか困ってしまったようだ。それがもしかしたら、彼女なりの愛情表現なのかも知れない、という事に気が付いて、水穂さんは、わかりました、とだけ言った。
一方、チボー君の方は、コーヒーを飲みながら、杉ちゃんにいわれたことを、考えていた。そして彼なりの結論を導き出すことができたのか、一つため息をつく。
「杉ちゃん。やっぱり物事は、あいまいに片付けちゃいけませんね。そうじゃなくて、やるときは、徹底的にやらなくちゃ。」
「そうだねえ。まあ、そういう事かなあ。」
杉ちゃんは、にこやかに笑ってそういうことを言った。
「じゃあ、僕も徹底的にやりますよ。杉ちゃん。水穂さんが、そういう立場の人間なのなら。」
と、チボーは、ある事を決断して、杉ちゃんにもう帰ろうと促した。
しあわせになれない人 増田朋美 @masubuchi4996
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