#10

 『もしも』の世界に迷い込んでしまった彼、ヒカワヒナと彼女、ヒカワヒナ。

 『もしも』の世界の悪戯によって互いの身体と精神が一日だけ入れ替わるという不思議な体験をした二人。

 互いが不意に思い出した男の子と女の子。

 その子は、彼に似ているようで。彼女に似ているようで。

 彼と彼女がそれぞれ手にした手作りの『きっぷ』が『もしも』の世界とどのような関係にあるのか……。

 では、続きを語る事に致しましょう。


 どんなに遅くとも一週間以内には元の世界に戻ることが出来ると思っていた、信じていたヒカワヒナであったが、現実は残酷なものでヒカワヒナが『もしも』の世界に迷い込んでから一ヶ月もの月日が経とうとしていた。

 知らず知らずのうちに新しい商品が何処からともなく供給されているこの世界の在り方のおかげでヒカワヒナはこの一ヶ月の間、衣食住に困ることなく生活することが出来ていた。

 そうして、『もしも』の世界に来てから一ヶ月目となる日の朝。

「ついに、ついに、ついに来たぁぁぁ」

 この世界に来て一番大きな声を上げた彼女と言う名の目覚ましで彼は目を覚ました。

「陽奈、うるさい」

 一ヶ月前は関係にお互い自分であり自分ではない存在に対して距離感があったが、一ヶ月も一緒に暮らしている内にヒカワヒナの関係は次第に兄妹または姉弟に似た関係性になっていた。

「見てよ。ほら、これ」

「あぁ、よかったな」

 彼は顔色一つ変えずにいつもの大人っぽい口調を忘れて幼い子供のようにはしゃいでいる彼女の胸を雑に見た。

 一ヶ月前までの彼なら腰を抜かし、大声を出して驚いていたことだったであろうが、彼女のAほども無かった胸がDほどに大きくなったところで今更驚いたりはしなかった。

 その原因は『もしも』の世界側にあり、『もしも』の世界はほぼ毎日鐘の音に似た音と共にヒカワヒナに何かしらの悪戯もたらし続けて来た。

 初日の入れ替わりが終わった翌日には彼が彼女そっくりの少女に女体化するなんて現象が起こり、彼女が胸相応の小学三年生程の身長に縮んだこともあった。彼が二人に分裂しヒカワヒナが三人になった事もあった。

 そんな一ヶ月を過ごしていたのだから、ヒカワヒナは今更この程度では驚かなくなってしまった。一時的な幸福に酔って彼女は大層喜んでいるが。

「どう?」

「普通」

 どうせ明日には戻ってしまっているのにもかかわらず、ドヤ顔でそう告げる彼女を軽くあしらった彼はさっさと制服に着替えた。

「ほら、陽奈も早く着替えて駅に行くぞ」

「わ、分かっているわよ」

 ヒカワヒナがまだこの世界に居る時点で分かりきっていることではあるが、ヒカワヒナは未だに黒い列車を見つけることは出来ていなかった。

 来たばかりの頃、早く元の世界に戻ろうと思った彼は、

「この線路を歩いて行ったら帰れるかもしれないな」

 と、三日目から共に駅で黒い列車を待つことにした彼女に言ってみたことがあった。

 しかし、彼女は、

「帰る方法は黒い列車に乗る以外に無い」

 と、無駄に綺麗な真顔できっぱりとそう告げた。

「あっ!」

「うるさいわね。いきなり大声を上げてどうしたのよ」

 彼女も今朝大声を上げていたのだからお互い様だと思った彼だったが、何故か強く怒られてしまっていた。

「家に置いて来たはずのお守りが制服のポケットに入っていたから驚いただけだよ」

 彼がこの世界で熱を出したあの日に見つけた『きっぷ』は彼の記憶が確かであれば机の中に大切に仕舞ったはずであったが、いつの間にか彼の制服の胸ポケットにその『きっぷ』は入り込んでいた。

「まぁ、お守りを持って来るのは良い事だと思うわ。私も常日頃からお守りを持ち歩いているし」

「もしかしたら、俺の持ってきたお守りのおかげで黒い列車が来たりしてな」

 彼は冗談のつもりでそう言ったが、彼女は馬鹿にすることも肯定する事も無く遠くを見つめていた。

「『往復券 残り1回』か」

 彼が子供の時に作ったものであることには間違いなかったが、彼女の持つ『きっぷ』同様に彼の『きっぷ』も裏面には何かで印刷したかのように整った字でそう印字されていた。

「この世界からもこの『きっぷ』一枚で出られたら良いのに」

 本人にとってはくだらない事を考えている間に太陽は沈み、辺りは街灯の明かりと月の光だけが目立つほど暗くなった。

「陽奈、今日はもう帰ろう」

 この二週間ほどからヒカワヒナは来るのかわからない列車を夜遅くなるまで待つ事をやめた。これは彼の案ではなく就寝時間が決まっている彼女が彼に言った提案だった。

 『もしも』の世界がヒカワヒナに仕掛けてくる様々な悪戯で疲労していた彼としてもその提案には賛成だった為、彼がこの世界に来た時に黒い列車から降車した時刻と大体同じ十時前後までと時間を決めてヒカワヒナは出来るだけ一緒に駅に張り込んでいた。

「今日も来なかったな」

 彼は彼の眺めていた1番線の真後ろにある2番線を眺めていた彼女にそう呟いてベンチから立ち上がった。

「はぁ」

 溜息か、はたまた欠伸か彼には判断が出来なかったが、彼女がいつも通り眠たそうにしていることだけは分かった。

「帰ったら冷たいシャワーでも浴びたらどうだ?」

「えぇ、そうさせてもらうわ」

 ヒカワヒナの視線が線路からホームを下る階段に向くと今まで一度だって鳴ることがなかったスピーカーから随分と久しぶりに聞く列車の到着音が流れた。

『まもなく1番線、2番線に列車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』

 忘れようと思っても忘れることの出来ない、でも忘れていた全身の毛を逆立てるようなアナウンスが聞こえた彼は咄嗟に1番線を見た。何度も言うまでも無く、彼と真逆の性格をしている彼女は2番線を見た。

 ヒカワヒナが耳を澄ませると上りの線路と下りの線路の両方から同じ速度、同じテンポで線路を鳴らしてやって来る列車の音が聞こえてきた。

 彼は2番線を見ることなく、彼女も1番線を見る事は無かったが、ヒカワヒナの前には例の一両編成の黒い列車が一台ずつ停車した。

 列車のドアが開かれると彼の意識は自然と黒い列車の中に引き込まれて行った。

列車のドアが開かれると彼女の意識は自然と黒い列車の中に引き込まれて行った。

彼は彼女に、彼女は彼に何か一言言うべきだと頭ではわかっていたけれど、口に出すことは出来ないまま彼は、彼女は、ヒカワヒナは、それぞれ黒い列車に乗車した。

 そうして、互いが互いの顔を合わせることがないまま黒い列車の扉は閉まりゆっくりと静かに発車した。

 『もしも』の世界に来た時がそうであったように帰りも彼は次の駅に着く前に眠りに落ちてしまった。


***


 目が覚めると彼はごく普通の列車の中に一人きりで座っていた。服装は制服、手元にあるスマートフォンの日付は彼が『もしも』の世界で暮らしていた分だけ巻き戻っていた。

「夢、だったのか?」

 寝ていた訳ではないのは確かだったが、ぼんやりとした頭で唯一ハッキリとしていたのは一ヶ月もの間共に生活してきた彼女に一言も別れを言う事が出来ないまま別れてしまったという後悔だった。

「夢だったなら必要無いか」

 そう思ったが、仮にあれが夢だったとしても彼の中では一ヶ月間を共に過ごした他人であり、姉であり、妹のような存在で、もう一人の彼だった彼女に別れの挨拶が出来なかったのは何故だか涙が溢れてしまうほど悔しかった。

 列車はあの時と同じように彼以外の乗客を乗せることは無かったが、『もしも』の世界に向かうことは無く順調に彼の住む町へと向かっていた。

 しばらく窓の外の真っ暗な景色を眺めているとその景色にはこの列車には乗っていない彼女の姿が映った。


***


 彼女も彼と同じように列車の中で目を覚ましたが彼とは違って意識がはっきりとしているようで折角大きくなっていた胸が元のサイズに戻っていたことに即座に気付いた。

「なんで? どうして戻るのよ!」


***


 実際にはそんな声は彼の耳には届かなかったが、彼はきっと彼女がそう言っているのだろうと何となくだけど理解できた。


 長かったようで短かったヒカワヒナの少し不思議な物語。お楽しみいただけましたでしょうか?

 最後にもう少しだけヒカワヒナの物語を語ってこの本を閉じる事に致しましょう。

 ただ、今回はここで栞を挟ませていただきます。

 続きはまた近い将来語らせていただきます。


語り手 古本屋栞

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