#8
『もしも』の世界に迷い込んでしまった彼、ヒカワヒナと彼女、ヒカワヒナ。
『もしも』の世界の悪戯によって互いの身体と精神が一日だけ入れ替わるという不思議な体験をした二人。
そんな中、彼女の不注意で彼が高熱で倒れてしまった。
彼女は自分の不注意を心から反省し彼を看病するのだった。
では、その続きを語っていくとしよう。
「朝?」
彼が目を覚ますと、よく見知った天井が彼をじっと見つめていた。
「陽奈、目が覚めたのね」
「陽奈?」
彼はすぐに彼女の彼に対する呼び方が『あなた』から『陽奈』に変わっていることに気が付き互いを同じ名前で呼ぶことに対する違和感を覚えたがあえて言及はしなかった。
「俺はどうしてここに?」
「憶えていないの?」
うっすらと覚えてはいたが、それが現実であるという保証が出来ないほど安定した記憶ではなかったので彼はこの場は覚えていないと言う体で話をすることにした。
ただそんな中で、とても安心する誰かを見たというぼんやりとした記憶だけははっきり覚えていた。
「元の身体に戻った瞬間『私の不注意』で陽奈が熱を出して倒れたから私が陽奈を背負って帰ってきたのよ」
「悪い、重かっただろ?」
「別にそれくらいの事で気にする必要はないわ。私が陽奈にしたことはそれくらいで許されることでは無いから」
「自分を責めるなよ。俺が倒れたのは俺の身体が弱かったからだ」
彼の立場からなら彼女が悪いと言い切ることも出来たが、彼はそんな事はせずに今の彼に出来る精一杯のフォローを優しく告げた。
「語彙力の無い限りで出来る精一杯のフォローをありがとう。でもまだ熱は下がっていないみたいだから黒い列車の事は私に任せてゆっくり休んでいなさい」
彼女のダイヤモンドのように固いプライドはどうしても病み上がりの彼に無理をさせたくはないようで、とても彼を駅から背負って帰ってきたとは思えないほどか弱い力で彼をベッドに押さえつけてきた。
「わかった。陽奈の言葉に甘えて今日はゆっくりと休ませてもらう。陽奈も疲れているなら休んでいいからな。『思い立ったら即実行。実行したらゆっくり休む』俺の友達が言っていた言葉だ」
彼がそう言うと彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「その調子だと今日中に全快しそうね。おかゆを作ってあるからお腹が空いたら食べなさい」
彼女はそう言うとそそくさと駅へ向かってしまい、彼だけが残された家の中はシンと静まり返っていた。
その不自然さは彼の眠気を誘い、彼は再び夢の世界へ落ちて行った。
***
「もう夜か」
漆黒の闇は空を覆っていたことで、彼がとても長い時間眠っていたことを彼は嫌でも理解した。しかし、家の中はまだシンと静まり返っていて、彼女の気配は全く感じられなかった。
看病という看病をされた実感は無いようであったが、それでもやはり彼女のおかげで彼の熱は下がったようだった。
寝ていただけだから特に空腹にはなっていなかったが、流石に作ってくれたものを手も付けずに無駄にしてしまうのも悪いと感じた彼は彼女が作ってくれていたおかゆをご飯茶碗一杯分だけ食べるつもりだったが、二杯はおかわりしていた。
「美味しい」
彼女はやっぱり大雑把で適当な性格の彼とは真逆で心配性な性格のようで薬も準備しておいてくれた。
「もう十時か」
二日前、この世界に来た時に彼女がこれくらいの時間に眠くなっていたのを彼はふと思い出した。
昨晩も彼の事を背負いながら眠気と戦っていたが、その事で彼に文句を言ってくることは無かった。
毒舌は吐かれていたが。
「身体の調子も良いし迎えに行くか」
彼の性格上、身体の調子が悪くても彼女を迎えに行くのは間違いなかったが、自分に対する言い訳としてそう呟いた彼は少しだけ厚着をして駅に急いだ。
迷うことなくホームへ向かった彼はベンチに横たわる人影を見つけた。そして、彼はすぐその人影に駆け寄った。
「おい、陽奈」
ヒカワヒナしかいない『もしも』の世界なのだから改めて言うまでもないが、ベンチの上に横たわっていたのは彼女だった。
昨日の自分のように風邪か何かで倒れているのではないかと心配になった彼だったが、どうやら彼女は睡魔に負けて眠ってしまっているだけのようで、彼からしてみれば憎たらしいほどに可愛らしい寝息をたてていた。
「ったく、心配させるなよ」
昨日の彼が彼女にされていたように彼も彼女を背負って駅を出た。首元に彼女の寝息が当たりくすぐったかったのか彼は何度も身体をねじらせて歩いていた。
「ひ、な?」
駅を出てから五分ほど経つと彼の背中からそんな声が聞こえた。
「陽奈、やっと起きたのか」
「こんなことをして身体は大丈夫なの?」
「絶好調とは言えないけど陽奈のおかげで随分と良くなった」
「そう」
彼の背中で再び眠ったという訳ではなかったが、しばらく彼と彼女は言葉を交わさず『もしも』の世界に鳴り響く彼の足音を聞いていた。
元の世界なら風の音や車のエンジン音が気まずさを少しだけ和らげてくれるけれどこの世界では気まずさが和らぐことは無く、ただただ彼の足音とヒカワヒナの呼吸音だけが不規則なテンポで妙な空気感を作り出していた。
「重いなら降りるけれど」
「重くは無いけど、俺に背負われるのは嫌か?」
「そんなことは無いわ。むしろ乗り心地が良くて最高よ」
褒めてもらったわけではないだろうが、少なくとも毒舌ではないのは理解力の乏しい彼でも何となくだが理解できていた。
「昔を思い出すわね」
「昔?」
唐突にそんな事を言った彼女だったが、元々住む世界が違う彼と彼女が昔の記憶を共有するなんてことは基本的にあり得るはずの無いことであるのは考えるまでもなく明らかだった。
それは彼女もすぐに気付いたようで、
「ごめんなさい。昔、陽奈の様な男の子と遊んだことがあったような気がして、陽奈と会ったのはこの世界が初めてなのにおかしなことを言ったわ」
と、訂正した。
しかし、彼は彼女の言っていることが分からなくも無かった。
彼女と同じように彼も過去に彼女の様な女の子と遊んだ記憶があった。それが彼女本人では無いことは当たり前に分かっているつもりだった。
それでも彼は彼女と一緒に過ごしていると何故か時折懐かしい気持ちになっていた。何故なのかは彼自身にも理解は出来てはいなかったが、とても不思議な気持ちだった。
唐突に思い出したその女の子の事を考えながら彼はその女の子と似ているようで似ていない雰囲気を持つ彼女を地面に降ろすことなく家に帰った。
互いが不意に思い出した男の子と女の子。
その子は、彼に似ているようで。彼女に似ているようで。
その記憶が『もしも』の世界を出る鍵となるのか、ならないのか。
この続きはまた近い将来語る事に致しましょう。
語り手 古本屋栞
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