#7

 『もしも』の世界による悪戯で邂逅した彼と彼女。

 『もしも』の世界による悪戯で身体と精神が入れ替わるという不可思議な現象に巻き込まれてしまった彼と彼女。

 彼は、彼女は元の世界へ戻ることが出来るのか。

 その続きをこれから語っていくとしよう。



 鐘の音に似た音がこの世界に鳴り響き、彼の精神が彼の身体へ戻ると彼は意識を失い地面へ倒れ込んでしまった。

「陽奈、大丈夫? ねぇ、陽奈ってば。自分の世界に戻るのでしょ? 陽奈!」

 自分で自分の名前を呼んでいるように感じてしまい呼ぶ気になれなかった彼の名前を何度も呼んでいることに恥ずかしさを感じているほど彼女に余裕は無かった。

 彼女の口癖を引用するのならば、彼女は何となくだけど理解していた。

 彼が意識を失い倒れてしまった原因が自分であることを。

「やっぱり」

 彼の額に手を当てると彼女の思っていた通り彼の額に触れている彼女の左手が火傷してしまいそうなほど熱くなっていた。原因は間違いなく彼女が彼の身体で当たり前のように水風呂に何十分も浸かっていたからだった。

「陽奈、立てる?」

 彼にそう問いかけた彼女だったが、彼からの返答は無かった。ただ、朦朧としている意識の中で彼は小さな声で何かを呟いているようだったが、彼女の耳にその小さな声は届かなかった。

「男の人を背負ったことは無いのだけれど」

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)

 彼を背負った彼女は心の中で何度も、何度も謝った。その謝罪は人に怒られるという経験をしてこなかった彼女にとっては初めての謝罪であった。

 彼女は深く反省した。『もしも』の世界の自分だから、男性の身体だからと少し……いや、だいぶ自由に、そして雑に彼の身体を扱っていた事を反省した。

 彼女は彼が自分であるのと同時に彼女とは生きる世界が違う赤の他人である事をすっかり忘れていたのだった。

「し……、……で……に」

「陽奈? どうしたの?」

 家までは残り二分ほどの距離まで歩くと彼は意識を取り戻したのか、彼女の背中から乗り出すようにして何かを呟いていた。

「栞、待って。栞」

 今度ははっきりと彼女の耳にその言葉が聞こえた。『栞』と彼は確かにそう言った。

 名前だけではあるが、彼女はその名前を、どこかの誰かと同じ名前である『栞』という名前を知っていた。

 きっと彼の世界にも彼女が知っている『栞』という人物がいるのだろうと彼女は何となくだが理解した。

「栞? 栞がいるの?」

 彼に聞いてみたが彼からの返事は無く、彼女の背中には彼の体重がズシリとのしかかってきた。

 彼女は何となくだけど理解した。きっと彼は朦朧とする意識の中で幻覚のようなものを見ていたのだと。

「陽奈、着いたよ」

 軽く揺すって起こしてみたが熱による疲労で彼は目を覚まさなかった。

 流石に病人をリビングで寝かせる訳にはいかないので、彼女はもう一度力を振り絞って彼を寝室のベッドに寝かせた。

 彼をベッドに寝かせた後、彼女は大急ぎでこの世界の在り方として二十四時間営業となっている無人薬局へと向かい、冷却シートと彼女の世界では医師の処方箋が無くても買うことの出来る薬を貰って家へと戻り、まだぐっすりと眠っていた彼の額に冷却シートを貼った。

「おやすみ、陽奈」

 そう呟いた彼女の表情は『もしも』の世界に迷い込んでから一番優しい表情だった。



語り手 古本屋栞

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