#6
『もしも』の世界による悪戯で邂逅した彼と彼女。
『もしも』の世界による悪戯で身体と精神を入れ替えられてしまった彼と彼女。
果たしてヒカワヒナの物語はどんな未来へと辿り着くのか。
その続きをこれから語っていくとしよう。
「どうすれば良い?」
鏡に映っている人物が自分自身であることは間違いなかったが、彼の目に映ったのは彼自身の姿ではなく彼女。彼自身であり、彼にとって『もしも』彼が女性だった場合の世界の住人であるヒカワヒナであった。
(いやいや、待てよ。もしかしたら俺は自分を男だと思い込んでいるだけで本当は女だったのかもしれない。きっとそうだ。間違いない)
「そんなことがあるわけ無いだろ」
彼の思考は混乱のあまりそのような結論を導き出したが、すぐに我に返りその結論を否定した。
しかし、そう結論を出してしまう事により先ほど口にしていた
「どうすれば良い?」
という疑問が彼の頭の中で何度も浮かび上がって来ていた。
「訳わかんねぇ。あと髪が邪魔くせぇ」
彼にとって伸ばした事の無い長さまで伸びている彼女の髪を振り乱し彼は大きな溜息を吐いた。
「今は俺の身体だし切ろうかな」
彼は近場に遭ったはさみを手に取って血迷った決意を決めようとした。そんな彼を邪魔するように彼のものであり彼のものではないスマートフォンに見かける機会は少ないがよく覚えている電話番号から着信が来た。
「もしもし」
『やっぱり出たわね。私よ』
「俺の声? お前は誰だ?」
『その無駄に有り余っているテンションと壊滅的な知力は私の身体になっても変わらないのね』
「陽奈か?」
考えるまでもなくヒカワヒナが二人存在しているだけのこの『もしも』の世界で彼に電話をかけることが出来るのは彼女以外いないのは当たり前のことではあるが、彼は今理解したようだった。
『えぇ、そうよ。何故か外にいるからあなたの携帯を借りて私の携帯に電話したのだけど、電話番号まで私と同じなのね』
本来は彼女のものであるスマートフォンにかかって来た見覚えのある電話番号は彼のものであり彼女のものであった。
『今あなた家に居るのよね?』
「そうだけど」
『外に出ないで待っていてくれるかしら? 今からすぐに帰るから』
彼女は彼の身体になっても変わらず自分の言いたい用件だけ伝えると彼の返答を一切聞かずに電話を切り、十分としないうちに自宅へ戻って来た。
「ただいま」
「お、おかえり」
そう言い、そう返したヒカワヒナは鏡を見ている訳でもないのにもかかわらず自分自身が目の前にいる現実を不気味に感じながらもいつも通りに振る舞った。
「帰って来て早々で悪いけれど色々と話を聞いても良いかしら?」
彼と真逆で普段は睡眠時間中である彼女は瞼を何度も開いたり、閉じたりしながら眠ってしまわないように頭を働かせてそう言った。
「明日の、いや時間的には今日の朝じゃ駄目か?」
「別に、構わないけれど」
いつ机に突っ伏して眠ってしまってもおかしくはないと思えるほどぼんやりとして前へ、後ろへ舟を漕いでいる彼女はメモ帳に彼に聞きたいことを忘れないようにきちんとメモをした。
(女物のパジャマ)
「ネグリジェ」
ぼんやりとした意識の中で綺麗に畳まれていたネグリジェを手にした彼女は彼を睨みつけながら怒鳴り声でそう言った。
(今まで気にしていなかったけれど、俺の目つきって怖いな)
自身の勉強不足とはいえ理不尽に怒鳴られた彼は初めて自分の目つきの悪さを理解した。
「この服の事を女物のパジャマだと思っているみたいだけれどネグリジェだから」
そう告げた彼女は彼の身体でネグリジェに着替え、部屋に向かい再び眠りに就いた。彼の身体に彼女のサイズのネグリジェは少々小さすぎたが、睡魔に襲われていた彼女はそこまで考える余裕は無かったようである一ヶ所だけ特にきつそうなネグリジェ姿で寝室へ向かい再び眠りに就いた。
「俺も寝るか」
流石に自分自身とはいえ異性である彼女と同じ部屋で一夜を過ごすという行為に抵抗があった思春期の男子である彼は自分自身の世界では妹の部屋になっている六畳の洋室で眠ることにした。
目を瞑ると、彼の頭には彼の姿をした彼女のネグリジェ姿が浮かんできた。
彼女の姿をしている彼の身体ではスカスカと言っても過言ではない胸の部分が彼の姿をした彼女では特にパツパツになっていたことに彼は笑いを堪えきれず数時間ほど静かに笑い続け朝日が昇る少し前に笑い疲れて眠りに就いた。
***
彼が彼女に、彼女が彼に入れ替わるという不可思議な現象が起こってから七時間以上が経過した。
残念ながら眠りから覚めても元の身体に戻ってはいなかった彼女の姿をした彼だったが、そんなことがどうでもよくなるほどに食欲を掻き立てる香りが彼を目覚めさせた。
「自分以外の身体で料理を作るのは初めてだったから昨日の夕飯と比べて味は落ちているかもしれないけれどそこは我慢してもらえるかしら」
彼女は謙遜をしてそう告げたが、その味は料理の苦手な彼の身体で作ったとは思えないほど上質なものであり、彼はあまりの美味しさにテーブルの上に並べられた高級ホテルレベルの朝食を口いっぱいに頬張ってしまうほどだった。
「その身体は私の身体なのだから少しは遠慮してくれる? あと、豆乳も飲んで」
「お前、甘いものは苦手って言わなかったか?」
「少しくらいは我慢して飲んでいるわよ」
(我慢してまで飲む理由が何処に……あっ、このほとんど引っかかりの無い胸か)
「まぁ、豆乳は嫌いじゃないから飲んでやるよ」
「ありがとう。お礼に私はひじきをいっぱい摂取してあげる」
「俺は禿げていないからな」
彼は口にも表情にも出さずに彼女のコンプレックスを心の中でだけ馬鹿にしていたが、それは彼女にはお見通しだったようで屈辱的な仕返しを返された。
「ふざけるのはこれくらいにして、昨日の夜から日を跨いで私の身体に移るまでに何か見聞きをしなかった?」
彼女が昨晩、睡魔と戦いながら必死にメモしたのはそれだけだったようで彼にそう質問を投げかけると左手でメモ紙をぐちゃぐちゃに丸めて二メートルほど先にあるゴミ箱へ放物線を描くように投げ入れた。
「私の行動を食い入るように見なくて良いから早く答えてくれない?」
「分かっている」
寝起きの良い彼と違い寝起きが良くない彼女はすぐに質問の答えを告げない彼に腹を立て、睨みつけながらそう言った。
自分の瞳とは思えないほど恐ろしい視線で睨む彼の姿をした彼女に彼は日付が変わる瞬間に鐘の音に似た音が鳴り響いていたことを伝えた。
「なるほどね、何となくだけど理解したわ。あくまで根拠のない憶測だけれど日付が変わる時にその鐘の音が鳴り響く。それを今夜、私たちのどちらか一方が聞くことを出来れば戻る可能性はありそうね」
「つまり、俺たちは自分の身体に自分の意識が戻るまでは帰り方が分かっても元の世界に戻れないって事だよな?」
「そうなるわね」
彼と彼女にとっては絶対に考えたくはない話であるが、元の世界へ帰る方法が見つかったとしても、鐘の音に似た音が鳴り響いたとしてもお互いの精神が本来の身体に戻らない限りは元の世界には帰ることが出来ない。つまり、永遠にこの世界に二人きりで、ヒカワヒナだけで留まり続ける可能性もゼロではなかった。
「何でそんな辛気臭い顔をしているの?」
「お前、頭良いくせに何もわかっていないのか? もし、元の身体に戻れなかったら俺たちは自分の世界に帰れなくなるんだぞ」
彼は無意識のうちに今の彼の身体よりも僅かな膨らみのある彼女の胸ぐらを掴んでいた。
「それくらい分かっているわ。だけど、戻れたとしても戻らなくても良いかも……。なんて、嘘に決まっているでしょう。私の身体でそんな怖い顔をしないで」
彼女は嘘だと冗談っぽくそう言っていたが、そう言っていた彼女の表情は嘘を言っているとは思えないほど真剣で、どこか悲しそうだった。
「気分を悪くさせてごめんなさい。ちょっと頭を冷やしてくるわ」
「あ、あぁ」
彼はてっきり寝室に行くものとばかり思っていたのだが彼女の世界で『頭を冷やす』というのは物理的な意味合いを持つようでは浴室に向かっていた。
(もしかして、あいつ水風呂に入る気じゃ?)
「陽奈、ちょっと待て!」
気付いた時にはもう遅く、彼女は昨日同様に着ていたネグリジェと下着を廊下に脱ぎ散らかして気持ちよさそうに冷水に浸かっていた。
「よく漫画で女の子が男の子にお風呂を覗かれるなんてベタな展開があるらしいけれど、男の子が女の子にお風呂を覗かれている場合も例に倣って『きゃー、えっちー』と言っておくべきなのかしら?」
「今はそんな事を考えなくて良い。というか冷水に浸かっているとはいえ冷静過ぎるだろ。って、そうでも無くて、冷たいのになんでそこまで平然と俺の身体で水風呂に浸かっていられるんだよ」
彼は怒鳴りながらも、我ながらうまい事を言えた気がすると思っていた。
「ごめんなさい。気を利かせて昆布とか浮かべておくべきだったわね」
「何だよ、お前。そこまで同一人物である俺が将来禿げると思っているのか?」
「冗談よ、冗談。今は禿げるなんて思っていないわ。少なくとも今は」
「そろそろ俺のメンタルが耐え切れなくなるからやめてください」
コンマ一秒たりとも年上でも年下でもないではあったが、流石にメンタルが耐えられず彼女に敬語を使って懇願した。
「マイナスな事を考えていても仕方が無いし、今日は死に物狂いで戻るための可能性を探してみましょう」
「じゃあ、俺はあの黒い列車が来るかもしれないから駅に行ってみる」
「それなら私は元の世界に帰るためのヒントが無いか探してみることにするわ」
お互いの予定を大雑把に確認して彼はひとまず浴室から出た。
「あっ!」
リビングに戻ったところで彼は彼女に今日の行動予定を聞きに浴室へ行ったのではなく、彼女を水風呂から出す目的で浴室に行ったという事を思い出し再び浴室へ戻った。
***
午後十一時三十分、彼の世界とこの『もしも』の世界では時間の流れ自体は変わらないが、
「まだこんな時間なのか」
彼の体感時間では丸二日は経っているように感じられていた。
そんな長く感じられた時間の内、正午と午後六時頃に彼女が駅まで昼食と夕食を運んできてくれた時以外に彼が人や動物を見ることは無かった。
それどころか、彼がこの世界に乗ってきた黒い電車はおろか見慣れた電車さえもこの世界の線路を通ることは無かった。
「はぁ」
彼が今日だけで何十回目になるのかもわからない大きな溜息を吐いていると、ホームへ続く階段の方からからコツン、コツンと足音が近づいていることに気が付いた。
「陽奈か?」
一度目、二度目は自分たち以外の人か動物が来たのだと期待した彼だったが、三度目ともなると流石にそんな期待はしていなかった。
「長い事お疲れ様、夜食にと思っておにぎりを作ってきたのだけれど食べる?」
「貰う」
ほとんど動いていないとはいえ、電車が来るまでの間は学が無い彼なりに色々と元の世界に戻るための案を考えていたので、いつもは絶対使わない部分がエネルギーを使っていて、彼の腹の中では午後九時くらいから存在し得ない虫がエネルギーを欲して大声で叫ぶように鳴いていた。
「収穫はあったのか?」
どこで調達したのか、彼の好みではない組み合わせの服を着ている彼女が持って来てくれたおにぎりを一つ食べ終えた恐らく彼女の好みではない組み合わせの服を着ている彼は、一日中線路を見つめていただけで動いていない彼とは違い一日中街中を巡っていたのであろう彼女にそう尋ねた。
「帰るためのヒントは見つからなかったけれど、この世界でしばらく暮らしていく術は見つかったわ」
彼女の本心はともかく、彼としては一刻も早く元の世界に戻りたいというのが本音だったが、少なくとも今日は帰る術がないというのは明確だったので彼はそのしばらく暮らしていくための術とやらを聞くことにした。
「従業員はいなかったけれど、見た限り全てのお店が開いていて必要なものをいつでも持って行くことが出来るような仕組みになっていたわ。私の世界ではその商品に見合ったお金と言うものと交換しなくてはいけないのだけれどあなたの世界ではこれが常識なの?」
「いや、俺の世界も陽奈の世界と同じだ」
「なるほどね、何となくだけど理解したわ。見た目は同じこの世界にも私たちそれぞれの世界とは異なる世界の在り方があるのね」
彼らの世界とは異なる『もしも』の世界特有の在り方のおかげで、この『もしも』の世界で息絶えるという彼らにとって最悪の未来になるのは避けることが出来そうだった。
「もうすぐ、日付が変わるわね」
彼女がそう言った事で彼は日付が変わるまで残り五分を切っていることに気が付いた。
「ねぇ、日付が変わるまでは絶対に眠らないと約束するから少しあなたの膝に頭を乗せても良いかしら?」
「もう寝ている時間だったな」
彼が優しくそう言うと、彼女は彼がまだ許可を出していないのにも関わらず彼の膝の上に頭を乗せて横になった。
彼女の姿をした彼の膝に乗せられた彼の姿をした彼女の頭はほんのりと温かかった。温かいというよりは、
「お前じゃなくて俺の身体熱くないか?」
「そうかしら?」
「気のせいかもしれない。忘れてくれ」
ヒカワヒナが沈黙したのは午後十一時五十九分五十六秒だった。沈黙したヒカワヒナは頭の中で、
三。
二。
一。
と、カウントダウンをした。
***
そうして日付が変わると、あの鐘の音に似た音がこの世界に鳴り響いた。
***
「戻った、みたい、だ、な」
(おかしい)
彼の精神は彼の望み通り彼の身体に戻っていた。しかし、慣れているはずの自分の身体は凄く重くて、顔は燃えるように熱くなっていた。それなのにも関わらず身体は凍えるように冷えていた。
(世界が、回っている)
「陽奈、大丈夫? ねぇ、陽奈ってば。自分の世界に戻るのでしょ? 陽奈!」
彼女が必死に彼の名前を叫んでいたが、彼はその声がとても遠くに聞こえた。
元の身体に戻った彼は彼の好みの服を着た彼女の膝から転げ落ちて、コンクリートで出来た冷え切ったホームに倒れ、満天の星空を見上げていた。
入れ替わりという不可思議な現象から抜け出したヒカワヒナ。
それを喜ぶ間もなく倒れてしまった彼と驚きを隠すことが出来ず彼のものであり自分のものである名前を叫ぶ彼女。
この続きはまた近い未来で語るとしましょう。
語り手 古本屋栞
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