第172話 爺の眼


「なっ……」


 こ、こいつ、目を開けろと言われて迷っておるかと思えば、なんの躊躇いも無く、儂の目に手をかけて、無理やり開けよったぞ。もう、何年も目を開いたことすら無かったと言うのに、なんちゅう奴じゃこいつは。無茶苦茶すぎるぞい。


「先生! 先ずは何をすれば良いのですか?」


 はっ、先生って、どんなギャグじゃ。それよりも、こいつは目を開けることが出来たせいで、もうここに居座る気満々ではないか。誰も許可しておらんというのに、まあ、儂が目を開けさせると言ったのは確かじゃからのう、とんだ間違いを犯したものじゃな。


 それにしても、何をすれば良いか、か。もう、こうなってしまった以上、一応指導のようなものはしなければいけないじゃろうのう。此処で急に出て行けとか言って、問題になるのも望ましくないからの。此処はいつも通り、きつすぎる鍛錬のあまり逃げ出す、という方向でいくかの。結局これをするなら、最初からやっておけば良かったわい。


「そうじゃの、この道場を走ってくるのじゃ」


 延々と走らせておけば、その内、嫌になって出て行くじゃろう。それまでの辛抱じゃの。



 そんな風に思っていたのはいつまでじゃったかの……あやつ、ずっと、ずーーっと走っておる。気になってまともに寝れんわ! 真面目とか、律儀とかそういうの通り越して、頭悪いし、気が狂っておるわい! 正気の沙汰とは思えんぞ! 早く出て行ってくれ……


 やっと慣れてきたと思ってきた頃、あいつが、急に目をキラキラさせて儂の元へきた。


「先生! 走ることを漸く身につけました! 次は何をすれば良いのでしょうか!」


 な、なんでこいつはこんなにも元気なのじゃ? もう、ここ何日もずっと走っておっただけじゃろ。なんでこんなにも清々しい顔をしておられるのじゃ?


 それに、儂が止めと言ってないのに、勝手にやめおったな。じゃが、そんな何かを得たような顔されては、まだまだ走ってこいとは言えんではないか。次にすることと言っても、儂は剣について何もわからんのじゃぞ?何をさせればいいんじゃ?


 はっ、剣と言えば素振りじゃ、素振りをさせよう! これをずっとやらせればいつか嫌になって出て行くじゃろう!


「つ、次は剣じゃ、剣の素振りをするのじゃ」


 そしてまた、数日が経ち、再びあの忌々しいあいつがやってきた。素振りは動き回らん分、気が散らず、よく眠れるというのに、心地よい時間というのはあっという間に流れていくものよのぉ。


 前回と同じように清々しい顔で、成長し、何かを掴んだような顔をしておるの。どうやって素振りで成長するというんじゃ、教えてくれ、そんなんで人は変わらんじゃろ。


「先生! 次の指示をお願いします!」


 それでもこいつは更なる指示を仰ぎにきた。もう、ここまでくれば教えることなんて無いじゃろ。そりゃ儂には教えることなんてないが、もう普通のそこら辺の道場開いておる者なんかよりもよっぽど強そうじゃがな。


 それにしても、これ以上何をさせれば良いか本当にわからんぞ。適当なこと言って露見するのも嫌じゃならの。うーん、はっ! そうじゃ、今までの二つを組み合わせればいいのじゃ。それぞれが単体でおかしくなかったのならば、それらを組み合わせてもおかしくないじゃろう。これなら間違いなくいけるの。


「次は……走りながら剣を振るのじゃ」


 ふぅ、なんとか切り抜けることができたのう。ギリギリ思いついて良かったわい。ただ、次が問題じゃの。次は正真正銘ネタ切れじゃ。なにも思い浮かばんぞ。浮かんだとしてもボロが出そうで、言いたくないのじゃ。


 いつ、走りながら素振りが終わるのか、気が気でなかったのじゃ。まともに眠れず、この安心できる寝ぐらが崩れそうで、不安じゃった。


 じゃが、その不安とは裏腹に、あやつの鍛錬は続いていった。何日も何日も日が経って、もうそろそろ一ヶ月になろうかというところじゃった。


 急に鍛錬をやめたのだ。毎日毎日続いており、もう無限に続くかと思われた鍛錬が終わったのじゃ。もう、いっそ終わらずにこのままでもいいから、と何度思ったことか。


 それでも恐れていた日がやってきた。あやつは止まって、自分の手を見つめておる。儂の虚言に気が付いたのだろうか。儂のことを告発するのだろうか。そう、不安に怯えていると、向こうから近づいてきた。


「先生、今までありがとうございました。俺は先生にもらったものを大切にこれから歩んでいきます。先生も、辛く、険しい道のりだとは思いますが、お互い頑張りましょう。では、失礼します」


 こやつ、何を言っておるんじゃ?

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