第3話 幼女は泉守と邂逅す。
『知らない天井だ』という表現で特筆すべきなのは、目覚めて初めて見るものを天井だと正しく認識できているという事だ。だいたい起きてすぐに自分が天井を見ているのが分かる事なんてあるだろうか?無いだろう。つまるところ起きた時に知らないものが見えたならば、もっと混乱すべきなのだ。
そんな事をぼんやりと考えながら幼女は辺りを見渡した。
壁に、天井に、椅子に、棚。そこは彼女が眠った湖のほとりではなく、ほのかに木の香りが漂うログハウスのこぢんまりとした一室だった。目が覚めた時にはベッドに寝ており、腹には包帯が巻かれ、毛布まで掛けられていたのだった。
窓は無かったが、部屋の中は明るく照らされていた。光源を探すと壁際の上の方に光の球が浮いていた。蝋燭なんかが光っているという感じではなく、例えるならすりガラスのランプのような柔らかい光だった。しばしそれを見つめていると、ぎいと音を立てながらドアが開いた。
「おや、起きたのか」
部屋に入って来たのは深緑色のローブを着込んだ女性だった。彼女は両手で盆を持っていた。
「あんた、湖の水を飲まなくて正解だったね」
盆をベッドの端に置き、スープの入った器を差し出しながら女性は言った。
「あの湖は皆砕きの泉と言ってね。飲めば体が水晶になって死ぬって曰く付きの場所なのさ」
幼女はスープを飲みながらそれに耳を傾けた。
「あまり驚かないな。もしかして知ってた?」
「観察、した」
「ふうん。そうなのか」
実際のところ、驚きが無いわけではなかった。半ば予期していた事とはいえ、水を飲めば水晶になるなんて常識ではあり得ない。けれど世界が変わればそういう事もあるのだろうと無理やりに自分を納得させていた。
「ところでそのスープに使ったのは皆砕きの泉の水なんだがね」
「げほっ!」
「ああ、心配はいらない。皆砕きの泉の水はある程度温度が高くなるとその力を失うんだ」
本当は知ってるんだとばかり思っていたよ、と女性は悪びれもせず豪快に笑った。幼女は女性に恨みがましい目を向けたが、彼女がそれを気にする様子は無かった。
「いやすまないね。その性質上、皆砕きの水は狙われやすいんだ。だからその場所やら何やら一切合切が伏せられている。あんたもあの水を取りにきたのかと思ってたんだけど……」
「違う」
「その様子だとそうだろうね。泉の水の事も知らなかったみたいだし。ああ、君も聞きたい事があるでしょ?言ってみてよ。何でも答えるよ」
幼女はしばし考え、言った。
「ここ、どこ?」
「私の家。場所は皆砕きの泉の近く。南側だよ。あんたがいたのは西の方。北側には町があるけど結構遠いよ」
「あなた、誰?」
「私はメリー。皆砕きの泉の泉守さ」
「いずみ、もり」
「泉守ってのは皆砕きの泉を守る番人のことさ。皆砕きの泉みたいに特別な力を持った物が湧いてる場所はそうそう無い。そしてそのどれもがそれなりに危険だったり便利だったりする。そういう物は狙われる。だから特別な場所には番人が必要なんだ」
「おおかみ」
「うちのポチの事だね。あんたポチに寄りかかって寝てたんだよ。血塗れで。と言うかよく自分を噛んだ奴の側で眠れたね」
「噛まれ、た?」
「何さ。気づいてなかったとか言うんじゃないよ」
「……」
幼女は包帯に手を這わせ、強く押した。押しのけられてずれる肉の、ぶよぶよとした気持ち悪い感触がした。
「お、おい、痛くないのか!?」
「……いたい」
「そうだろうさ!なんでそういう事をするかね……待ってな」
そう言うとメリーは早足で部屋から出て行った。幼女がする事も無く開け放されたドアを眺めていると、狼、ポチが現れた。
「ポチ」
ポチは幼女に寄ってきて、ベッドの側で丸くなった。幼女はベッドから手を伸ばしてポチを撫でた。ポチは気持ち良さげに耳を垂れた。
メリーが痛み止めを持って戻ってくるまで、一人と一匹はそうしていた。
—
傷が治るのには時間がかかった。幼女はそれまで部屋からほとんど出してもらえず、退屈な日々が続いた。ベッドから出る時といったらお手洗いに行く時くらいのものだった。
「退屈」
そう訴えたのは1週間は経ってからの事だった。メリーは驚いた様子で言った。
「えっ!あんたそういうの気にしないのかと思ってた!」
幼女は思わずメリーを睨みつけた。メリーは困ったように笑った。
「ごめんごめん。魔力でも吸ってたら?ここら辺は濃いからさ」
魔力?吸う?濃い?幼女の頭を疑問が埋め尽くした。しかしそれを言葉にする前にメリーは部屋から出て行ってしまったので、仕方なく幼女は寝返りをうった。
魔力とは何だろう。いわゆる魔法を使うための力だろうか。それを、吸う?この辺りは濃い。濃い場所と薄い場所がある?幼女は宙に手を伸ばした。
つまり、魔力が魔法を使うための力で、人間はそれを吸っているとする。けれどここで言う『吸う』とは呼吸するのとは別の事だ。もっと何か……よく分からない手順で取り入れているのだ。なぜなら、能動的に行わなければならない事でないと暇つぶしにはならないからだ。魔力が濃いか薄いかで何が違うのかは分からないが、とにかくその手順が問題だ。どうすれば魔力を吸えるのだろう。
そこまで考えて幼女は思考を投げ出した。こればかりはやってみなければ分からない。ひとまず自分の呼吸に集中してみることにした。
息を吸って、息を吐く。
息を吸って、息を吐く。
息を吸って、息を吐く。
かなりの間それを続けたが、何も分からなかった。暇つぶしになるからには何かが分かるはずだ。この方法は間違いらしいと幼女は悟った。
ではどうすればいいのだろう?吸う、とは。どのようなイメージをすればいいだろう。吸う、吸い取る、吸い上げる。息を吸ってみたが何も分からなかった。『吸う』ではない。『吸い取る』というのも違う。吸い取るのであれば吸い取る対象が必要だし、ベッドの上ではその対象は有限だ。ならば『吸い上げる』というのはどうか。空気から吸い上げる。吸い上げる、吸収する。そういう物を幼女はひとつ思いついた。スポンジ。
人間はスポンジだ、というのはどうだろう。乾いたスポンジのように、魔力に浸かると魔力を吸い上げて膨らむ。穴の開いたところに魔力がすっと入ってくるのだ。ではどうすればいいのか……
幼女はベッドに大の字になってくたりと力を抜いてみた。普通に寝ている時よりもなお一層力を抜いた。すると何かが体を覆っているかのような、そしてそれが体に入ってくるかのような感覚に襲われた。
「ひっ……」
初めての感覚に幼女は恐怖した。何かが全身に入り込もうとしてくるような感覚。それがたまらなく気持ち悪く、怖かった。
「はあ……はあ……ふー」
幼女は毛布の中に潜り込んで丸くなった。兎にも角にも恐怖を抑えなくてはならなかった。幼女は体を抱きしめて震えた。そのうちポチがやってきたが、それにも気づかぬほどだった。
そうしてこの日は過ぎて行った。
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