第2話 幼女は異世界を歩まんとす。


突然の閃光に目が眩み、視界が白に埋め尽くされて。覚えているのはそこまでだった。


気づけば幼女は森の中に仰向けで転がっていた。生い茂った木々の向こうに青空が覗いている。しばらくそのまま空を見上げた。心地良い風が木々のざわめきと知らない匂いを運んできていた。


地面に手をついて体を起こすと、ぱきりと何かが折れるような感触がした。見下ろすと何かの欠片が散らばっている。そして、それと同じ色をした物が辺り一面を覆っていた。


「これ、は……草?」


拾い上げた破片は透き通った薄緑色で、形こそ草だがどちらかと言えば水晶のようだ。周囲を見ると、辺りの木々も水晶のように透き通っており、光を映して煌めいている。およそ地球の植物ではない。それが周囲を囲むように生えており、下草のあるこの場所は円形の広場のようになっていた。


「異世界、か」


そう呟いて、幼女は先ほどから自分が喋る言葉がやけにたどたどしい事に気づいた。いや、言葉がたどたどしいと言うより、口に出すべき言葉が分からないと言った方が正しい。幼女は神の言葉を思い出した。曰く、彼女は狂っている。


「……これ、が?」


今のところ思考するのに問題は無い。実際には問題はあるのかもしれないが、とりあえず考える事はできている。しかしそれを口に出し、行動にするという行いがひどく難しくなっていた。これが「狂った」影響の一つなのだと、幼女はそう結論づけた。


あれが本物の神であったのか、それとも神を名乗る何かなのか、それを確かめる手段は無い。けれどその言葉はまるっきり嘘というわけではなかったらしい。彼女が狂っているのでなければ——いや狂ってはいるのだが——ここは確かに異世界で、彼女はこの世界へと厄介払いされたのだ。


この右も左も分からぬ世界でどう生きていけばいいのは分からない。けれど、最初に必要な物は決まっていた。


「水、食料……」


幼女は草をかき分け、森の奥へと歩き出した。不思議と裸足で歩くのも苦ではなかった。



幸いにして水源は見つかった。最初の広場から数十分ほどの場所に大きな湖があったのだ。池の周りの地面は色とりどりに輝いている。近づいてよく見てみると、それはびっしりと地面を覆う様々な色の水晶の欠片だった。微かに見える湖の向こう側にも水晶がまるで砂浜のように堆積していた。かがんで水に手をつけてみる。水は冷たく、澄んでいた。


幼女は湖から離れて、そこでしばし思案した。この水を飲んでもいいものだろうか。地球では得体の知れない水は濾過して飲むのが常識だった。そのまま飲んで寄生虫か何かがいては困るからだ。そして今それ以上に問題なのは池の周りの水晶片だ。


ここに来るまで彼女は動物の姿を見るどころか、その声すらも聞いていない。森の中であれば鳥の一羽でもいて良さそうなものなのに、この森にはそれがいない。生き物の気配というものがまるで無かった。そして、池の周りにしか無かった色とりどりの水晶片。道中で見た草花は緑や茶色が主な色だ。ならばここにある様々な色の水晶片は何の破片か。


動物だ。多分、水を飲みに来た動物が水晶の欠片となって散らばっているのだ。この世界の動物が道中で見た草木のように水晶でできているのか、あるいはこの湖に何かが潜んでいるのか、この湖の水が影響して水晶と化してしまうということもあるかもしれない。つまり。


「危ない、湖」



そう思って一度離れた湖にもう一度近づこうとした時、後ろでがさりと音がした。


振り返ると茂みから巨大な狼が出てきたところだった。体高は幼女を倍するほどで、金色に輝く鋭い目と、滑らかな灰色の体毛を持っていた。狼は幼女に気づいた様子で、しかし唸り声を上げることもなく、じっと幼女を見つめていた。



幼女は狼の方へと歩き出した。狼はじっと幼女を見つめている。だんだんと両者の距離が縮まっていく。


両者の距離がほとんどゼロになると、狼は興味津々といった様子で幼女の匂いを嗅ぎ始めた。しばらくあちこち嗅ぎ回ると、狼は体を低くして唸り声を上げ始めた。首元がよく見えるようになって、幼女は狼の首に首輪がある事に気づいた。


「おまえ、飼われ、か」


幼女はさらに近づき、狼の体を撫で始めた。


狼は驚き、噛みついた。牙はたやすく幼女の皮膚を刺し貫き、脇腹の肉に穴を開けた。


「よし、よし」


狼は困惑した。幼女が気にする風でもなく自分を撫でていたからだ。牙が抜かれ、傷から血が流れ始めても、幼女は狼を撫で続けた。奇妙な心地よさがあった。狼は毒気を抜かれて寝そべった。


そのうち幼女は寝てしまった。狼は何をするでもなくただ枕にされていた。


この幼女がどこから来たのか、何をしようとしていたのか。狼が初めに抱いた不信感は未だ消えたわけではない。けれど、害意を持つ者ではないという事だけはなんとなく分かりかけていた。


幼女が流す血が小さな血溜まりを作っていた。血溜まりの中で眠る幼女をちらりと眺め、狼もゆっくりと目を閉じた。

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