狂った彼女と優しい世界

@ergo

第1話 天才は研究を完成す。


「やったぞ!ついに完成だ!」


その男は天才だった。残した研究成果は数知れず、築いた財産の額を数える事も忘れて久しい。誰もが羨む才能を持って生まれ、それを最大限に発揮した人。それが彼だ。


自らの築き上げた財産を費やし、彼は研究を行った。誰にもその内容を知らせず、たった一人で。


天才の頭脳を持ってしてもその完成は困難を極めた。10年、20年、30年。自宅の地下に建設された冗談のような研究室は、機械音と動物の鳴き声でいつも騒がしかった。その音が今日、止まった。


「ああ、俺の夢がやっと叶う……!」


人一人は入ってしまうだろう巨大な培養槽が並ぶ前で、彼は大の字になって歓喜の叫びを上げた。


「人格転送!新しい体!新しい人生!やるぞ!幸せを掴んでみせる!」


彼は跳ね起きると、一つの培養槽の前へと歩いた。数多く並んだ培養槽の中でそれだけが空だった。「人格転送装置」なんて月並みな名前が付けられたそれは、二つの培養槽と無数のケーブル、そして制御端末から成り立っている。


彼は制御端末を覗き込んだ。調整は完璧だった。そうでなければ困る。装置が完成したとはいえ、一歩間違えれば記憶も人格も何もかも失う危険な行いであることに変わりは無い。


彼の頭に人体実験の四文字が過ぎった。自分自身が実験台になるのは些か危険すぎはしないだろうか?馬鹿馬鹿しい、と彼はすぐその懸念を振り払った。実験台をどうやって募集すると言うのか。失敗した時の責任の所在は?第一、そんなことができると知れれば到底無事ではいられまい。そんな選択肢は最初から無い。


彼は制御端末の端のボタンを押すと、開いた培養槽に入った。蓋が自動的に閉じ、液体が注入されていく。自分が作ったのだから全ての工程を把握している。それでも液体が迫ってくるというのは中々に怖い体験だ。彼は目を閉じ、上ってくる液体を気にしないよう努めた。それで良かった。安全な水位が確保できた時点で麻酔ガスが流れ、溺れる恐怖を味わう心配は無い。


(……どうか上手く行きますように)


そう願ったのを最後に、彼の意識は闇へと沈んだ。





培養槽が並んでいる。そのうち二つがライトアップされ、傍目にもわかるほど輝いている。液体に満たされた培養槽の一方には、若い男が浮いている。


そしてもう一方には、齢十にも届かぬだろう幼女の体が浮いていた。



ばしゃりばしゃりと水音を立てて液体が排出されていく。培養槽の中に風が吹き、濡れた体を乾かした。開いた扉から踏み出してきたのは。


「あー、はは、成功だ……」


幼女であった。


「成功か?成功だ!やった!やったぞー!」


幼女が狂喜乱舞するその場所に、突如として拍手が響いた。幼女は訝しんだ。この場所を知る者は自分の他にはいないはず。ましてや三重に設定したセキュリティを突破して入る事ができる者などそうそういない。幼女は賊が何者なのか考え、周囲を素早く見渡した。何か使えそうな物は無いか——


そんな焦りをよそに、暗がりから少年が現れた。


「まずはおめでとう、と言わせてくれ」


幼女は答えず、手近なドライバーを握りしめた。


「ああ、君に危害を加える意図は無いよ。それにしても人の身でよくそこまで辿り着いたね」


「お前は……何だ?」


「神。あるいはそれに類するものだと思ってくれればいい」


「その神が私に何の用だ?」


「君の研究は人の限界を超えたものだ。さっきも言ったがよくやってのけたね。ただ、それが後世に広まってしまうのは、困る」


「困る?」


「そう、困るんだ。業腹だが、人には人の範疇でやっていてもらいたいから」


だから君の研究成果を壊しに来た。そう言って少年は笑った。そこにはどこか自嘲にも似た雰囲気があった。


「お前は私の敵というわけだ」


「そう、なのかな?敵対するつもりは無いけど」


「御託はいい」


幼女は走り出した。真っ直ぐ、自称神へと向かって。体格に見合わぬ速さだった。男はこの体に手を加えていた。そして、ドライバーを振りかざし。


「あ、れ?」


ドライバーは幼女自身の胸に深く突き立てられ、幼女は呆けた顔で崩れ落ちた。


「何を不思議がっているんだい?」


「え、あ、俺、なんで」


「なぜって、君が狂っているからさ」


「く、る……?」


「天才とも言える君の人格を記憶をそのままに幼女に移すなんて、そんな無理が通るはずがないだろう?」


「だが」


「だが実際にそれは為された。それは何故か。その脳に君の記憶が入った代わりに、本来その部分に収まっていたもの……すなわち正常な認識、体の動かし方、感覚、衝動……そういったものがごっそり抜け落ちているんだよ。今は僕が抑制しているけどね。有体に言えば、君は狂っている」


「は、は。そんな、馬鹿な」


「いいや、本当だとも。ところで本題に戻るけれども、君の研究は偉業と呼ぶにふさわしいものだ。それを無に返しても……何を?」


幼女がもがいていた。幼女は胸に刺さったドライバーの柄を探し当てると、ドライバーを引き抜き、振りかぶって腹に突き刺した。


「ぎ、あ」


「無駄だよ。言っただろう。君は狂っているんだ。外敵への攻撃をしようとすれば自分自身を傷つけてしまう」


「うる……さい!」


幼女は再びドライバーを抜くと、今度は腿に突き刺し、悲鳴を上げた。少年はそれを見てため息をついた。


「とにかく、研究機材が無くなっても君がこの世界に残っていては意味が無い。別の世界に行ってもらうよ」


少年は幼女に触れると、何やら呪文らしきものを呟いた。幼女の周囲に円形の陣が描かれ、光を放つ。


「これ、は」


「向こうでなら狂った君でも生きられるかもしれない。頑張ってね」


「待て、やめ——」


陣がひときわ強く光を放ち、辺りを眩い閃光が覆い尽くした。光が消えた時、そこに幼女の姿は無かった。

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