第30話 景徳鎮の茶碗(中)【人が一線を越える時】試験の日

今までのあらすじ

※二十三歳のグルメライターの沙奈は、楽しいこともある反面、この仕事を続けるべきか迷っていた。

 そんなある日、日英ハーフの紅茶の先生だという「月代先生」に会う。親切なのになぜか周囲から孤立している月代の、自宅兼ティールームの奥のドアには、ナイフで切りつけたような不可解な傷があった。

 説明のつかないとまどいを覚えていると、彼女から「李先生」の中国茶の試験を受けるようにすすめられる。

 「数時間、うちで簡単な試験を受けていただくだけだから、大丈夫よ」と、あとで月代は言う。

 そして試験当日、沙奈は日中ハーフの「りんちゃん」などと三人で、月代の自宅兼ティールームで、李先生の中国茶の試験を受けることになる。

 日中ハーフの「りんちゃん」の母親は「劉さん」といい、中国で、日本人男性と離婚したあとも、年上の日本人男性と見合い結婚をし、日本に戻ってきた女性だった。(以下本文続き)

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 少し傷つき、とまどっていると、月代先生が言った。

「さあ皆さん、お試験の前にお茶にいたしましょう。日中英折衷で、私が素敵なお菓子も作ったから」


 いつの間にか、月代先生と、もう一人の「受験生」もチャイナドレスに着替えている。洋服を着ているのは李先生だけという構図になった。


 それにしても「チャイナドレス」というものは、私の知る限り、着物と比べれば着るのはこんなに簡単なのに、どうしてこんなに、女性をいとも美しく見せるのだろうか。

 日本でチャイナドレスを着る機会というのは、なかなかない。私も一度、台湾に旅行中に記念写真で一度着て、とてもいい記念になったけれど、それだけだ。興味はあるけれど着る機会がない。


 それがこの日は、皆でチャイナドレスを着られて、自分や、知っている人の美しく変身した姿に驚き、お互いに褒めあい、喜びあい、さらに、日本、中国、イギリスの珍しい、おいしいお茶やお菓子も食べられて、あとから考えれば不思議な、第三者から見ればきっとおかしなことであるが、率直にいってその時は、本当に、とても楽しかったのである。


 日本人、日中ハーフ、日英ハーフとルーツは少し違うけれど、日英ハーフの月代先生の外見が、本人の言う「日本人顔」なこともあり、また、アジア人で隣国人、そのハーフということもあり、皆、びっくりするくらい、チャイナドレスが似合った。

 そして、少しずつルーツが違うからであろう、実際に着てみると、それぞれにチャイナドレス姿の美点、微妙にそぐわない点が違う。その話題で大いに盛り上がった。


「こうして見ても、りんちゃんが一番似合うじゃん!日中ハーフだからかな?何度も言うようだけど、なにげに首、細いよね」

「そうなんです、さっきも言ったけど、純ジャパの友達と一緒に着たら、その子の方が痩せてるのに、首は私の方が細かったんですよね」


「りんちゃん、脚も長くない?李先生ほどじゃないけど、背も高いよね」

「あー、実は高めですね。でも日本では小柄な人の方が人気がありますね」


「あ、そうなんだ。でも凄く似合う!きれい、かわいい!」

「沙奈さんも、いつもと違って華やかでかわいいですよ!沙奈さん、顔は悪くないのに、いつも地味めですよね」

「カメラマンさんがいない時は、ライターが……グルメライターが、私が一人で取材もして、写真も撮るから、その癖もあるのかな。私は、『写真を撮る時、写真に自分が写りこまないように、黒っぽい動きやすい服を着なさい。あと、カメラのファインダーに化粧がつかないように、女性でもノーメイクの方がいい』って習ったから、私はそうしているの」


「そうなんですかー、顔は悪くないのに、なぜこんなに地味なんだろうってずっと思ってました。今日はついでに、化粧してみませんか?」


「でも、中国茶の試験の時は、すっぴんの方がいいんでしょ?」

「せっかくだから口紅だけでもぬりませんか?真っ赤な口紅とか!あとで、おとせばいいですよ、ねえ、李先生」


 すると李先生は、こちらを目をむけたのだけれど、今まで、穏やかに優美に微笑んでいたのが、無言で、わずかに眉をひそめて横目で私達を見たのが、それだけのことなのに、なぜか突然、とても不愉快そうに見えて、冷たい威厳すら感じさせたので、私とりんちゃんは、はしゃぐのをやめた。その場が急に静まった。


 気まずい雰囲気を直そうとしたのだろう、月代先生が焦ったように言う。

「さあ、皆さんすっかりおしゃべりに夢中で、せっかくのお茶やお茶菓子が手つかずよ。どうかもっと召し上がって」


 紅茶で、月代先生が作った英国風のお菓子を食べ終わったあと、お茶を変えることになった。

 中国茶が出てきて、お茶もおいしかったけれど、その茶碗に、私は心惹かれた。


 月代先生が言う。

景徳鎮けいとくちん(陶磁器の生産地として有名な中国の地名)で買った、蛍透かしの茶碗よ。中国では『茶杯』と言うそうね。……このタイプは、今は珍しくなっているんですって」


「素敵ですね!」

 その茶碗は、澄んだ白の地色に、冴えた青色で模様が描かれていて、さらに、米粒ほどの、半透明の部分が、点々とある。それが優しい輝きを散らして、閉じこめたかのように見えた。


 華やかではないはずなのに、遠くから見ても、輝きを隠し切れない。手にとって近くで見ると、さらに美しい。本物の美しさだ。

 私が中華圏の文化で魅力を感じるものは、たいてい、華やかなものだったのに、これは違った。このつつしまやかな美しさは、日本に通じるものがあるのに、きっとやはり違う。惹き込まれた。


「きれい。こんな美しい茶碗でおいしいお茶をいただけて、幸せです」


 月代先生が言った。

「景徳鎮には、李先生と一緒に行ったのよ。懐かしいわ。もう、五年も前になるのね」

「そんなに前から、お友達だったんですね」


「皆さん、景徳鎮にも、ご一緒に行きましょう!ああ、楽しみ……!」


 月代先生のその言葉を聞くと、私はまた、大きな不安に襲われた。


「さあ皆さん、お試験を始めましょう。りんちゃん、あれ出してきて。沙奈ちゃんも手伝って」

「何をですか?」


 りんちゃんと李先生が一緒に持ってきたのは、紙袋に入った、大きな、帯状の長い布だった。

 その布を、部屋の中心にはって、画鋲でとめる。

 この、月代先生の自宅兼ティールームは和洋折衷、こちらのティールームの部分は英国風の洋館で、奥は日本家屋だ。窓から見える和室を隠すためにも、この中国の布をはって、目隠しにするのだ、という。


 その様子を見ていると、町内会か、学校でクリスマス会をした時の、室内の飾りつけをするのと何も変わらなかった。違うのは、その布が案外派手で、見たことのない模様がついていることだけだった。

「日本の公民館でも、行事があったら、こういう布、目隠しや飾りに使いますよね」

「でもやっぱり違う。こういう柄ってありそうで見たことない」


 月代先生が突然こう述べた。

「ほら、そこ、窓の外が見えてるわよ!ちゃんとやって!もっと右!……ああ、最初から全部やり直して」

 りんちゃんが答える。

「ええ、全部やり直すことないんじゃないですか」

「駄目です!すべてやり直して。でないとお試験はさせません」


 そして本当に、いったん、その中国製の目隠し用の布をいったんすべて外したあと、はりなおすことになった。結構な時間がかかった。


 月代先生は皆を座らせ、試験用紙を配り、その横に、私達に持参するように言ったパスポートを置かせ、その光景を写真に撮ると、こう言った。


「皆さん、ここは上海です!絶対に人に言ってはいけません!」


「やっだ、月代先生、やっぱり、本当に面白い人ォ!」

「うふっ、うふふっ。ねえ、来てよかったでしょう」

 今日初めて会った、もう一人の、受験をする中年の女性と、月代先生は朗らかに笑いあった。だが私はもう笑えなかった。最初はとても若々しく見えた月代先生の白い顔にうっすらと浮かぶシワが、最近、なぜかとても気になるようになった。

「本当は、上海で受けなければいけない、中国茶の国家資格の試験だからね。来年から日本人はまず合格しないように試験方法が改正されるそうなの。取らなきゃ損!だから私が、皆さんをご推薦いたしました」

「イエーイ!」

「ありがと!……皆さんはラッキーだわ。三万八千五百円で、横浜にいながらにして、そんな免許が取れるんだから」


 そして、私は中級だという中国茶の試験の問題用紙を見た。日本語訳の問題用紙であるが、問題が難しすぎて何が書いてあるのか全然分からない。


 月代先生は、心底、心配そうにこう呟く。

「沙奈ちゃん、また、お具合悪いのかしら?お仕事がお忙しいから。水でもお持ちする?」

「いえ……」


「試験の答え、見る?無理しないでね。どうかうちでは、リラックスしてちょうだい」

「答えは、見ないです」

「大丈夫よ。この試験は、形式的なものですからね」

 他の人も、答えは見なかった。不思議なほど穏やかな時間が過ぎていく。(続く)

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