第29話 景徳鎮の茶碗(上)【人が一線を越える時】試験の日
今までのあらすじ
※二十三歳のグルメライターの沙奈は、楽しいこともある反面、この仕事を続けるべきか迷っていた。
そんなある日、日英ハーフの紅茶の先生だという「月代先生」に会う。親切なのになぜか周囲から孤立している月代の、自宅兼ティールームの奥のドアには、ナイフで切りつけたような不可解な傷があった。
説明のつかないとまどいを覚えていると、彼女から「李先生」の中国茶の試験を受けるようにすすめられる。
そこには、日中ハーフの「りんちゃん」もいた。
りんちゃんの母親は劉さんといい、中国で、日本人男性と離婚したあとも、年上の日本人男性と見合い結婚をし、日本に戻ってきた女性だった。(以下本文)
―――――――――――
「とにかく、試験はお受けなさい。……この試験は中国の国家資格でね、来年から日本人はまず合格しないように試験方法が改正されるそうなの。数時間、うちで簡単な試験を受けていただくだけだから」
その後、けっこう長いやりとりがあって、私はその試験に行くことになった。あとで友達にはこう言われた。
「やばくない?それ、ヤミの試験じゃないの?……法にふれないの?」
そう言われるまで気がつかなかった。一緒に受けた人にも、そういう気配はなかったように見えた。あっけないほど無邪気に、そして考えてみれば無責任に、その試験は行われた。
人は誰もが、一線を越える可能性を持っているのだ。そしてその一線を越えるさい、多くの人はそれに気がつかない。
ただ、事件というものが起こる場合、普段その人がやっているよくない癖が、何かの事情で強調されてしまうことが多いのではないか、と思う。
月代先生は、普段から他人の大切なものを、少なくとも、軽く見ることをやめようとしない人だった。他人の時間、個人情報、約束、気持ち、お金……。自分が危なくなったさいも、それを止める人を持とうとしなかったからこういうことになったのだろう。
試験は横浜の月代先生の自宅兼ティーサロンで数回に分けて行われた。手書きの時間割がグループラインでまわってきた。
私は辞退しようとしたけれど、強くひっぱられて、つい受けるだけ受けることになった。
私は三人で試験を受けた。りんちゃんも一緒の日時で、もう一人は初めて会う中年の女の人だった。その人が当日、車を出してくれたので、私とその人と月代先生が一緒の車に乗っている時、車中で、月代先生が中国語で印刷された紙を渡して、こう言う。
「これ、沙奈ちゃんの免許の下書き。李先生のご厚意で、沙奈ちゃんの免許は中級になりましたからね!」
浮き浮きした顔でいたずらっぽく笑い、月代先生はウインクをする。その健全な、魅力的な表情と剥離した何かが、私はこの頃、本気で怖くなっていた。
「どうしてなんですか。初級のごく簡単な免許だっていうから、この話お受けしたんですよ。私、中国茶の知識もほとんどないのに」
「言ったでしょう。来年から日本人はまず合格しないように試験方法が改正されるそうなの。取らなきゃ損!数時間、うちで簡単な試験を受けていただくだけだから、大丈夫よ」
「そんな」
「中国の国家資格の免許だから、持っていると、中国を旅行するさいのいい身分証明書にもなるのよ。来年か再来年あたりに、上海を拠点にした中国茶ツアーも開催予定ですから!沙奈ちゃんも、そのメンバーになっていただきたいと思ってるから。あなたは選ばれた人!知識はこれから私がしっかりお教えしますからね。ご遠慮しないで」
説明のできない苦しさをなんとか訴えたかったが、どうすればいいのか分からなかった。とりあえずその感情をぐっとかみ殺すと、また胃が痛んだ。
月代先生の自宅兼ティールームに行くと、李先生とりんちゃんが待っていた。李先生は平服で、りんちゃんはチャイナドレスを着ていた。月代先生から貸してもらったのだ、と言う。
「りんちゃんチャイナドレス似合う!首が細い。さすが日中ハーフだね」
「あー、そうかも。前、純ジャパの友達と一緒に、本場でチャイナドレス着て記念写真撮ったら、その子の方が痩せてるのに、首は私の方が細かったんですよ」
「『純ジャパ』って何?」
「『ハーフではない日本人』のことですね。私達は、そう呼んでます」
そう言われて、なんと答えていいのか分からなかった。
そこで月代先生がこう言った。
「李先生にご紹介されて、上海でしたててもらったチャイナドレスなのよ。たくさんあるから、沙奈ちゃんもどうぞお好きなものを着なさい。貸してあげるから。新品のものでも、どうか着ていただいていいのよ」
月代先生はこんな立派な和洋折衷の館に住んで、でも特に最近、私には、『お金がない、お金がない』とよく言う。
でも新品のものがあるなら、この上海でしたててもらった、美しい、たくさんのチャイナドレスは、いつ買ったのだろう?そのお金はどうしたのだろう?
「そんな、新品のものはお借りできません」
「いいから、いいから!……沙奈ちゃんにはこれが似あうと思うわ。細いからサイズは大丈夫ね。さあ、着替えていらっしゃい」
「せっかくだったら、私はこういう、シンプルなものが着たいです。せっかくのチャンスなので」
「いけません。それは沙奈ちゃんの魅力を殺してる!前から思ってたけど、沙奈ちゃんって、せっかく可愛らしいお顔立ちをしてらっしゃるのに、自分の魅力を捨てた日々を送っているわね。これからは私がしっかり指導させていただくから、おまかせして!ああ、楽しい!人生って素晴らしい!どんどん素晴らしくなっていくわ……」
私は思わず、はーっと大きなため息をついて、気がつくと、涙を流していた。この部屋には鏡があり、それを見ると、自分がもの凄く嫌な顔をしているのが見えた。月代先生が驚いた表情でいる。理屈抜きでほっとした。
だが、月代先生はまったく気にした様子がなく、
「だからグルメライターなんて、低俗なお仕事はもう見切りをつけた方がいいっていったのに。さあ、お試験をしましょう」
受験申込の顔写真を用意するさい、すっぴんか、なるべく薄化粧のものを、といわれたのだけれど、李先生も今日は化粧をしていなかった。大分印象が違った。
そうは見えなかったが、思ったより凝った、華やかな化粧をしていたのだろう。顔立ちはやはりとても整っているが、調子もあるのか、今日は肌がくすんで、年相応に見える。
だが、落ち着いた、優美な、そして、謎めいた雰囲気は相変わらずだった。
試験を初級から中級にされたのは疑問だったけれど、私は、それは月代先生が勝手にやったことなのかもしれないと思っていた。李先生に会えること自体は嬉しかったので、
「李先生、お久しぶりです。またお目にかかれて光栄です」
と本心から言った。我ながらはずんだ声で。
ところが、李先生は最初に会った日のような、感情の読みとれない表情でいて、ゆったりと微笑したまま、確か、何もこたえなかったような気がする。
この前に一緒に京都へ行って、距離が縮まったように思ったのに、また元に戻ったように見えた。それとも、単に文化の違いなのだろうか。
少し傷つき、とまどっていると、月代先生が言った。
「さあ皆さん、お試験の前にお茶にしましょう。日中英折衷で、私が素敵なお菓子もつくったから」(続く)
※参考(特に「純ジャパ」という言葉について)
『ニッポン在住ハーフな私の切実で笑える100のモンダイ』原作/サンドラ・ヘフェリン 漫画/ヒラマツオ(メディアファクトリー)
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