第31話 景徳鎮の茶碗 (下)【人が一線を越える時】試験の日

今までのあらすじ

※二十三歳のグルメライターの沙奈は、楽しいこともある反面、この仕事を続けるべきか迷っていた。

 そんなある日、日英ハーフの紅茶の先生だという「月代先生」に会う。親切なのになぜか周囲から孤立している月代の、自宅兼ティールームの奥のドアには、ナイフで切りつけたような不可解な傷があった。

 説明のつかないとまどいを覚えていると、彼女から「李先生」の中国茶の試験を受けるようにすすめられる。

 「数時間、うちで簡単な試験を受けていただくだけだから、大丈夫よ」と、あとで月代は言う。

 そして試験当日、沙奈は日中ハーフの「りんちゃん」などと三人で、月代の自宅兼ティールームで、李先生の中国茶の試験を受けることになる。

 日中ハーフの「りんちゃん」の母親は「劉さん」といい、中国で、日本人男性と離婚したあとも、年上の日本人男性と見合い結婚をし、日本に戻ってきた女性だった。

 筆記試験のあと、実技の試験へ。(以下本文続き)

――――――――――――――――――――――――――――――

「試験の答え、見る?無理しないでね。どうかうちでは、リラックスしてちょうだい」

「答えは、見ないです」


「大丈夫よ。この試験は、形式的なものですからね」

 他の人も、答えは見なかった。不思議なほど穏やかな時間が過ぎていく。


 そんな筆記試験、「学科試験」のあと、実技の試験になった。


 実技の試験は、最初はりんちゃんがやった。李先生の前で茶器を並べ、中国茶を淹れる。

 中国の「茶芸(茶藝)」と日本の茶道は、私の見た限り、かなり違うものだ。

 中華圏に行ったことがある人なら、日本の茶碗とくらべると、はるかに小さい器でお茶を飲んだことがあるだろう。この時、使われたのも同じ種類のものだった。


 日中ハーフで、日本の有名な大学に通うりんちゃんは日本語が達者である。解説を中国語でやるか、日本語でやるか、相談をしていたが、中国語で話すと月代先生が分からないので、日本語を使うことになった。


 中国の小さな茶器をたくみに操り、すらすらとお茶を淹れるりんちゃんは別人のようだった。茶葉がお湯にひたると、陶然とさせられる香りが、あたりにひろがる。

 エキゾチックななまりの残る日本語で、けれど流暢りゅうちょうに、りんちゃんは、その茶葉の種類、産地、特色なども解説した。

 そして淹れられたお茶は、こんな時なのに、驚愕するほど美味だった。私が今まで飲んできたものはなんだったのだろう。今の私でも分かる、奥深い香りと味、特に香り。中国茶がこんなにおいしいものだったなんて、知っているようで知らなかった。


 そう伝えると、月代先生が言う。

「私もそう思ったの。うちは、李先生のおかげでいい茶葉が手に入るしね」

「考えてみれば、中国料理があんなに奥深いんだから、中国茶も、きっと本当は深いんですね」


 それと先ほどは、急にまた謎めいて、少し冷たく見えた李先生であるが、今、受験者の実技を見る李先生の表情、眼差しは、打って変わって真剣というか、真摯で、こういういい方はやはり語弊があるかもしれないけれど、理解できる、国や文化が違っても同じ気持ちがある人間なのだ、という風に見えた。私の知る限り、李先生は、いつも落ち着いた堂々とした美しい人で、同時に、ミステリアスというか、何を考えているのか分かりにくい時と、理解できるように思える時の差が激しい人だった。私にはそう見えた。

 りんちゃんの実技試験が終わると、李先生は、厳かに言った。

「大変、素晴らしい。茶藝師にふさわしいです。よく勉強していますね」


 私もそう思った。りんちゃんと会ったのは久しぶりだけれど、いつの間にこんなに上手になったのだろう。

 最初に会った時は、茶芸はやったことがない、アルバイトと学業で忙しい、習いたいけれどお金がないと言っていたのに、それが本当なら、どうしてこんなに上手になっていたのだろう。それに、日本語の解説も。

 

「りんちゃん、よかった!頑張ったものね」

 と月代先生が言って、笑いあう二人を見て、私はやっと、そうか、本当は月代先生に、きっと特別に習っていたんだな、と気がついた。

 そういえば月代先生は、りんちゃんがこの頃、アルバイトが終わってから、遅めの時間だけど、よく遊びに来てくださるの、と言っていた。それが中国茶のレッスンで私に知らされていないなら、特別な個人レッスンで、たぶん、料金を安くしているだとか、何か優待があったのだろう。


 次に私が実技をやることになったが、非常に難儀した。私が中国茶の淹れ方を習ったのは随分前である。

 私が月代先生から習ったやり方では、淹れたお茶を出す前に、茶杯(茶碗のようなお茶を飲むための器)を逆さにして、聞香杯(「もんこうはい」お茶の香りを楽しむための器)にかぶせてひっくり返すのだが、私は、それがうまくできたことがない。普段から熱いお湯を扱うのが怖い人間で、今日も熱くて、怖くて持てなかった。

 あと、本当はもう嫌だと思っていたので、その日はもう頑張らなかった。


「沙奈ちゃん、そこでひっくり返すのよ」


「怖くてできません」


 李先生はそれをとがめはしなかったけれど、同じように真剣にそれを見たあと、月代先生にこう言った。

「これは問題がある。よく教えるように」


 月代先生は、また、心底すまなさそうに言った。

「李先生、申しわけありません。私の教え方が悪いからです。これから責任を持って、きちんと教えます」


 それを聞いて、私もそろそろ、本当だろうか、と思った。私は紅茶が習いたかったのだ。紅茶のレッスンの授業料を受け取って、横浜まで気軽に呼びつけているのに、一方的に中国茶を教えて、怒っても無視していた。

 それに、私やりんちゃんには、最近、強気でなってきたのに、こうやって見ていると、月代先生は、李先生には絶対服従という感じで、時々おろおろして、それだけ見ていると、まるでいたいけな少女のようだった。

 こういう月代先生は前にも見たことがある。確か、近所のある人には、凄く気をつかっていて、おどおどして、私に陰口を言うことも、相談することもしなくて、同情していた。なぜ、私達には、特にこの頃、急に、横柄になってきたのだろうか。

 

「分かった。これからちゃんとフォローして下さい」

 李先生がそう言うと、月代先生は飛び上がるようにして喜んだ。もう一人の受験者で今日初めて会った人も、実技がまったくできなかったが、李先生は「この人にもしっかり教えておくように」とだけ述べる。


「よかった!……今日は素敵な日ね!幸せ。うちに来て下さる方は、本当に素敵な、いい方ばかり。会えてよかった。これからばっちり、恩返ししますから。皆さん、お茶、特に紅茶と中国茶と一緒の人生で、ご一緒に、もっと人生をエンジョイしましょう!」

「イエーイ!」


「まずは免許……『証書』の受け取りよ!李先生は来年、二〇二〇年の二月頃、皆さんの証書を持って、また日本にいらっしゃいますから、皆さんで、盛大にお迎えいたしましょう」


「イエーイ!」

「あー、ワクワクする!ねっ、その時、一緒に旅行とかいかない?」


 りんちゃんも喜び、その場はすっかり盛り上がった。私だけがついていけずにぼおっとしている。


「いけない!沙奈ちゃん、本当はお忙しいのよね。私が急に無理に呼んで」


「はい」

「そろそろお返ししなきゃね。今回の受験者の中にも、京都から来てくださった方もいたのよお。急だったのに呼んで、私っていけないわね、うふふっ」

 京都から急に横浜に呼んだのか。その人に仕事があったら、それはどうしたのだろう。


「私もそろそろ帰らないと」

 今日、初めてあったもう一人の受験者が言った。


「じゃあ、その前に、今日の記念に、皆さんで写真を撮りましょう!……りんちゃん、今すぐ、その目隠しの布をとりなさい。ここがうちだって、うちのティーサロンだって、分かるように!」


 そこで私達は記念写真を撮った。そのアングルは、月代先生のティーサロンのホームページに載っている写真と同じだった。

「あとで、グループラインで送るからね!」

 と月代先生は言う。


 私達が帰るしたくをしても、りんちゃんは何も言わずにその場にいる。ここに残るのだろう。

「沙奈さん、久しぶりなのに、あんまり話せませんでしたね」

「うん、会えてよかった」

 そう言いつつも、私は、頭がぼおっとしたままだった。この気持ちをどう言っていいか分からなかったけれど、私はとにかく早く帰りたかったのだ。


 月代先生は、李先生とりんちゃんと、三人で私を笑顔で見送った。私はこの時、結局この人達には、また会うことになるのだろうと思っていた。

 そうではなかった。それが試験の終わりで、思わぬことの始まりだった。(続く)

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