第11話 私の立証できなかった苦しみと…

 今、思えばそれは前兆だった。直後に友人と食事をして、その話をしたら、

「えーっ、そこまで言ったのに帰らせてくれなかったの?しかもそれで大事な仕事がなくなっちゃったんだね」

 と皆、驚いた。また、その日の紅茶教室、それまで見てきたものになんとなくつじつまのあわないものを感じ、自分が味わった苦しみと少なくない被害――そうだ、被害だ――と、それを説明できないもどかしさがあって、そのもどかしさが新たな苦しみを呼ぶ気がした。


 私はこの時から月代先生が苦しかった。「自分は苦しめられている、苦しい」ということを立証できないのもまた、苦しかった気がする。


 それでもその後、短くないつきあいを続けていたのは、今となってはよく分からない部分もあるのだけれど、自分の苦しみと被害を立証できなかったからと、月代先生が、私が行くと本当に幸せそうな顔をして、彼女なりに一生懸命に世話をやいていて、そのうちに悩みも一生懸命聞いてくれて、それが純粋に見えて、悲しませては悪いような気がしたからだ。ただ、正直をいえば、そこがかえってこういう件を複雑化させるように思う。


 前述のように横浜は私がずっと憧れていた街だ。実は、親戚や友達もいるのだけれど、横浜で育った人はいないし、月代先生のようないい場所に住んでいる人はいないので、比較的手軽な価格の月謝を払えば、定期的にお邪魔できるのも魅力だった。


 これはどの土地でもそうだが、特に都会は、魅力のある場所で生まれ育った人の経験、知識、話は独特の価値や面白さがある。


 私の住んでいるA市は、また違う歴史や人をひきつける力があるけれど、大都会ではないし、東京や横浜のベッドタウンでもある。


 距離的にそんなに遠くはなくても、面白い場所で遊んだあと、家に帰るまでに酔いがさめてしまう場所に住んでいる人と、すぐ帰れる人、次の日の日常の街角で、その街にしかいないであろう個性豊かな人々と、隣人や、いきつけの店や、同級生、近所の人、縁のある人間としてふれあえる人は、よくも悪くも違うものなのだ。


 月代先生は私が初めて会った横浜育ちの人だ。本にも載っていない穴場な場所、お店、思い出話を聞かせてもらうのは本当に楽しかった。


 教室に通う途中に、教えてもらった場所をぶらぶら散歩したり、探検して先生も知らなかった場所やお店を発見したり、それをもとに、今までの私では書けなかった記事が書けたり、そこから思わぬ知り合いができたり、それを月代先生も本当に喜んでくれて、いいことがたくさんあった。


 けれど、先生の紅茶教室に参加するたび、説明のできない違和感、苦痛が積み重なっていたのは事実だった。


 誰にでも、なんにでも、よいところと悪いところがある。ただ、その違和感や苦痛は少し我慢すれば気にならなくなったり、あとで、なるほどと納得できるものではなく、我慢すればするほど、どんどんと膨れ、大きくなり、積み重なっていった。


 


 


 


 

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