第9話 「私は自分の味覚を愛しています」奥のドアから…

 月代先生の、自宅兼ティーハウスはびっくりするほど美しかった。そんなに大きくはないけれど、映画で観たヴィクトリア朝の探偵が訪れる部屋を思わせる厳かなインテリアで、個人が生けたとは思えない豪華な花がある。絵もなかなかのものだ。


 あらを探すつもりはないのだが、その花はよく見ると端が枯れかけていて、花びらが少し散っていた。

 こういう、利益をあまり重視していなさそうな店は、開けたり、閉めたりしていることがあるが、少なくとも今日は閉めていたのだろう。


「とっても素敵なお宅ですね」


「そうね。古いし、維持費が大変なんだけど……こういう建物は金食い虫よ」


「その人なりの悩みがあるんですね。こちらはお店でもあるんですよね?」


「ええ、私だけでやっているお店なの。たまに夫が手伝ってくれるんだけれど、仕事があるし、お茶は私が入れる方がおいしいから。……猫を入れてもいいかしら?あの奥が自宅なの」

 いいですと言うと、奥のドアから優雅な猫が入ってきた。白くて琥珀色の瞳が美しい、飼い主とどこか似ている猫である。


 その時、ドアにふっと近づいた。このティーサロンの部屋の壁は、美しい壁紙がはられて、傷ひとつないのだが、居住部分につながる奥のドアは、近くで見ると、ドアノブのあたりが傷だらけで、他にも大きな、切り傷があった。――まるで、ナイフで切りつけたような。


 壁紙がきれいだから変に目立って、どうしてここだけきれいにしないのだろうと思った。ただ、このお屋敷自体は古そうで、ドアも立派なものである。壁紙をはりかえるのは比較的簡単で安価でも、ドアは変えられなかったのだろう。長い間には、いろいろなことがあったのだろう。


 月代先生は紅茶を入れて下さった。ここのオリジナルの紅茶だ、ということだった。

「『先生』、どう?」

「おいしい、おいしいです!今まで飲んだ中で一番かも」

「どんな風に?」


「私もコーヒー派なんです。考えてみれば、去年は一度も、こういう本格的な紅茶を飲んでいません。……だからかな、凄くおいしいと同時に、この、あとにくる渋みが今、少し手ごわい感じ。ワインを飲みなれないと舌が未熟で分かるものと分からないものがあるっていいますけれど、お茶もそうなのかも」

「私、お酒はほとんど飲まないけれど、そうなのかもね。ワインはお詳しいの?」


 私は月代先生の目をぐっと見つめた。

 これから話すことは、「お客様」や同業の前では、あまり言わないようにしていることだ。

 うちあけるのは、ある種の賭け、小さな勝負だが、今は言った方が有利な気がした。

 なんておいしい紅茶だろう!この人と親しくなりたい、「味方」につけたい……。お酒はほとんど飲まない、と今、言ったし、この賭け、小さな勝負に勝つためには、自分の秘密をうちあけた方がいいんだわ、と私は思った。

 少し怖かったが、どうしても勝ちたかった。また、なんとなく勝てる気がしたので、こう言った。


「このことは、秘密にしておいていただきたいんですけれど、私、ワインはほとんど飲んだことがないんです。事情があって」

「えっ、グルメライターでしょ。ひょっとしたら未成年なの?」

「いえいえ、二十三歳です。食はそれなりの贅沢をしたかも。けれど、うちはワイン禁止の家なんですよ」

「どうして?」

「私の伯父はフランス料理店のシェフなんですが、ワインで借金を作ったことがあるんですよ。あと、ワインが好きすぎて一時病気になった人がいたので、私まで約束をさせられたんです。今は飲めますが、外でだけですね」


「そうなの」

「それでも、なんというか……人は自分の味覚を愛し、自信を持つべきですわ。お母さんだとか、家族だとか、その人を愛する人がくれたものなんですから。私、絶対にしたくないことがあるんです。他人がおいしいと思って食べているものを、『こんなものをありがたがって食べている』とけなすことです。それはかなりの侮辱なんじゃないでしょうか?うまくいえないけど」

「なんとなく、分かるわ」


「でもお客さんに『分からない』というのは禁句なので、取材にワインが絡みそうな時は調べてから行きます。今、勉強しているんですよ。紅茶のことも、中国茶のことも、詳しくなりたいです」

「本当。実は、あなたの書いたレストランの記事を読んだことがあるの。面白かったわ。きっと、味覚が鋭敏で、素直な方なのね。私達、お友達になりましょう。一緒にお勉強しましょう」


 月代先生は、そこで、猫をなでながら、

『ああ、私の小さな完璧な世界よ!……新しいお友達も来て下さって、今日は素晴らしい日』

 ということを、英語で言っていた。


 この部屋にいる月代先生はとてもいきいきしていてきれいで、その言葉も珍しいせいもあってよけい美しかった。


「イギリス英語、久しぶりに聞きました」

「発音だけはいいそうよ。イギリスは階級社会だっていうわよね?その人の階級にふさわしい英語を話すって本当かしら?そうなら、私、この言葉がどの階級のものなのか、知らないの」


「イギリスには、時々いらっしゃるんですか?」


「紅茶の買いつけにね。一人か、夫と行くのよ。いつかご一緒できたらいいわね」(続く)

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