第3話 ここにいてはいけない
木下が大学に入ると、すぐに連れができた。
名前は今では定かではない。
S君とする。
ファッションが好きそうな人物で、勉強ができた。
木下はハッキリ言って、やる気がなく、しかも大学が理系であったから、すぐに勉強に着いていけなくなった。
木下はS君のおかげで、何とか授業に参加出来ていたが、それも半年で限界が来た。
数度、大学仲間の飲み会に参加したが、麻雀をやって酒を飲むだけの会で、木下には退屈だった。
加えて、興味のない勉強は、もう続けられない。
また大学の教授たちは大抵、自尊の精神が強く、生徒を馬鹿にしているような気がしていた。なかには良さそうな教師もいたが、それは木下が大学生活を続ける理由にはならなかった。
木下は、とうとう単位のテストすらサボるようになり、そのまま勝手に大学の退学手続きを進めた。
短い大学生活だった。だから、S君のことすらろくに覚えてやしない。
退学することへの罪悪感はあった。
母親が、自分の将来を期待してくれており、そのことだけが、胸をえぐるような思いだった。
母親は、木下が大学を出て、まともな仕事に就いて、そして幸せになることを望んでいてくれていた。木下の両親はともに高卒だったから、学歴による子孫への弊害を意識していたのかもしれない。
高学歴の親の子は、高学歴になりやすい。
そうしたレッテル地味たものを、木下に打破して欲しかったに違いなかった。
--ごめんなさい、母さん
僕はもう、色々なことに疲れてしまって、勉強にやる気を見いだせないよ--
木下は思った。私立の大学だったから、費用も馬鹿にならない。そして、自分にはその価値はない。
もともと、遊ぶつもりで入った訳ではなかったが、その遊ぶ事すらも、木下には不可能だった。
合コン、麻雀、教授への悪口、女の話、酒の話、etc...
つまらない、つまらない、つまらない--
木下は、自室でベッドに腰を下ろし、何も無い壁をただ見つめていた。
外の世界は昼間だった。レースカーテンから通過した目の細かい明かりが、床を少し照らしている。
木下の高校の終わりくらいから手入れをし、真っ直ぐに伸ばしたストレートヘアは、肩まで伸びていた。その髪を、撫でたがる仲間が何人かおり、撫でさせた。そうされるのは気持ちが良かった。
やはり、自分はノーマルではないのだと木下は思った。女性に興味がない訳では無いが、自分から行くタイプではなく、求められるのが好みなのだと自覚した。ゲイなのか、バイなのか、それすらも怪しい。
そのとき、ふと、猫の鳴き声がしたかと思うと、カーテンの向こうに動きのある影が見えた気がした。
ああ、いっそ猫になってしまいたいな--
自己嫌悪、周囲との違和感、現実逃避。
それらが木下を苛んでいた。
今頃は、仲間が大学生活をしているはずだった。親は、働いているはずだ。一人いる妹もまた、充実した高校生活を送っているはずだった。
そんな中、自分は訳の分からない事を考えながら、壁を見つめている。
そう思うと、目からは涙が出てきた。
どの理由で泣いているのか、それすらもわからなかった。だが、おそらく全てに対してだろう。
なんて下等な生物なのか、自分は。
木下は自分をそう評していた。
裕福ではなかったが、優れた母親がいた。おかげで、人には優しい性格に育った自負はある。だが、それも裏を返せば優柔不断な流されやすい人間だったのだ。
この先、どうやって生きよう。
でも、とりあえず、今はとてつもなく眠い--
木下の脳は、それ以上考えることへの危険性を察知し、その司令を出したのかもしれなかった。
気を失うように、眠りについた。
それから、誰とも連絡を取らず、木下は2ヶ月ほど、ただただ引きこもっていた。
食事は2日に1回程度、近くのスーパーやコンビニで弁当を買って食べるだけだった。気がつくと、木下の高めの身長には不相応な少なすぎる体重になっていた。
その間、何もしなかった。毎日毎日、寝て過ごした。考え事で頭がぐるぐるし、起きていることが苦痛になった。寝起きでもすぐに寝れるように、アルコール度数の高い酒を常備し、それに頼って気を失うようにすらなっていた。
すでに廃人といえる生活だった。
他にしたことといえば、気晴らしに、通販で、ロープを買った。
それを部屋の外側のドアノブにかけ、扉の上を通して内側に入れた。そして先端に輪を作った。
パッと見、それはクリスマスのリースのようでもあった。
時々、木下はそこに首を通して、足の力を抜いた。
首吊りだ。
最初はものすごく苦しくて息が出来なかった。だが、水中で息を止める時間を伸ばすような感覚で、ときおり、その行為に及んだ。すると、その時だけ、生きている気がするようになった。
その状態のまま、わけもわからず自慰行為もした。文字どおり、死ぬほど興奮したのを覚えている。自分が集団に殴られてレイプされることを想像していた。それは異常な性癖といえた。劣悪な自分に相応しい報いを受けることに興奮を覚えるようになってしまったのだ。
だが、ある時ふいに、それをきっぱりとやめた。
一度、そのまま一瞬、失神したからだ。
その時ばかりは、死の恐怖がすごくて、気づいた時には一人で悲鳴をあげ、縄を外し、逃げ場もなく、扉から遠ざかって腰を抜かした。
床に崩れ落ちると、木下の頭には、母親の笑顔が浮かんだ。
情けなくて、涙がとめどなく溢れて、床に落ちた。
「だめだ、僕は--」
泣きながら、木下はひとり呟いた。
「完全に気が狂ってる、、、それに、死ねもしない」
おそらく母親の存在だけが、そのときの唯一の良心だった。
もしも、自分が死ねば、深く悲しみ、絶望するだろう。決して癒えない傷を負い、そして、自分を責めるだろう。それだけは、木下が、たとえ地獄に落ちるとしても出来ない事だった。
ここにいては、いけない--
木下は思った。
いつか、本当に死んでしまうぞ--
そらから、木下はすぐに荒縄のリースを処分した。部屋を引き払い、都心に近い、祖母の実家を頼ることにした。
祖母は、母親の母方だ。強烈な性格で、ものすごくお節介なタイプである。
祖母は、木下を喜んで受け入れてくれた。
また、何も聞かなかった。
勿体ないことをしたとは言ったものの、それ以上は何も言わなかった。
祖母は、そのとき、木下に必要な人物かもしれなかった。
祖母の家に引っ越して1週間程度が経つと、祖母に促され、木下は仕事を探し始めた。
それは夜間業務だった。物流会社で、荷物の仕分けなどを行うもので、面接には若さだけで受かった。契約社員の雇用形態だった。
木下は、昼間に表に出ることが辛かった。街ゆく人間たちがキラキラしているように見えて、そして自分だけが汚れた存在に思えたからだ。
初めて社会に出て、木下は少し成長した。
そこにはあらゆる年齢層の人間がいたし、業種と特性上、わけアリの人間も多く、また嫌な奴や、しがらみも多く存在した。
そこで、自分の特性が少し理解出来た。三国志のような人間関係の中で、木下はうまく立ち回ることができ、ほぼ、誰からも好まれる印象を持つことが出来た。
おしゃべりの口の悪いお婆さんとよく話す中になり、人に仕事を押し付ける言い訳の多いおじさんの悩みの相談に載った。同年の知的障害の子と友達になり、明るくもふとしたことに落ち込みやすい彼を尊敬することができた。
20歳以上、年上の女性に告白され、丁重に断った。男性社員に何度かセクハラまがいのスキンシップをされたが笑顔で対応した。その後、しつこく飲みに誘われたので、酒が飲めないと断った。それは、すぐに嘘だとバレた。なので、貴方が気持ち悪くて仕方がないと伝えることにした。それはその人物を数日ダウンさせ、部署すらも移動させる効果があった。
やがて、シフトを昼に戻し、外にも出歩けるようなった。体重も正常に戻った。
上長からは頼りにされていた。それが何より嬉しくて、よく無理をして働いた。
木下は、社会人として、ようやく、スタートラインに立てた気がした。
だが、それも転機が訪れようとしていた。
3年ほど経つと、人間関係がうるさくなってきたのだ。付き合ってきた人物は、どこか癖のある変わった人間が多かった気がする。自分の内面の成長につれ、彼らと関わることに嫌悪、哀れみ、そして疲れを抱くようになってしまっていた。
その理由もあって、木下はとうとうその会社を辞めた。
--休日によくしていたことがある。
恋人探しだ。
当時は、インターネットの掲示版をあさったりし、気になる人物にアポを取って出会った。
まだ木下は20歳を迎えたばかりで、若さゆえにやはりモテた。
木下は、自分の性癖を確かめようともしていた。試しに、年上年下の男女とそれぞれ関係を持ってみることにした。
年下の男性とだけ、そうすることに失敗した。出会ってデートしたものの、自己中すぎたため、木下は途中で何も言わずにそのまま帰ってしまった。
年上の男性とは、新宿のその筋のバーで知り合った。それなりに身を立てていて、食事を奢ってくれたし、話術に長けていた。そして何より、肉体経験が豊富で、初めて身を任せるには十分な人物といえた。
嫌悪感はなかった。だが、その人物は性欲に支配されていた。複数人で行為を行う提案をなされたので、それ以来、拒絶反応が起き、彼とは連絡を取ることをやめた。
また木下は、女性ともした。やはりそれなりに興奮はしたし、その子を果てさせることで征服欲が満たされるのを感じた。年上の女性は自分をリードし、甘えさせてくれたし、年下の子は可愛かった。
だが、木下は、彼彼女らの誰とも付き合いたいとは思わなかった。
もちろん、楽しかったし、癒される気持ちはあった。だが、別に常にないといけないものでもなかったし、何より、ひとりで読書をしたりして物思いに耽けることが好きだった。色々な人物の考えに触れることが好きだった。いちいち人間関係を増やすくらいなら、本の方が手っ取り早いと思えてしまった。
--恋ってなんなんだろうな。
恋愛小説を読みながら、当時、木下はよく考えた。
気になる子とセックスするまでの過程を楽しむのが恋なのか。その子が笑う姿を守りたいと思うことが恋なのか。
そもそも、結局、男と女のどちらが好きなのだろうか。
答えは未だ出ず、また、当面はしなくても良いという方針になった。
今はまず、様々な本を読もう。外へ出て、刺激を受けよう。そして、人生を捧げるべき興味のあることを見つけ、身を立てよう。
木下には、その思いがあった。
自分が正常な人間でないことには諦めがついていたが、正常を装って楽しく生きることは、木下のポテンシャルでは可能そうだと思った。
だから、せいぜい、楽しもう。
それが自分の人生だ。
木下は、それから職を転々とし、友達を増やし、一見して充実した日々を送っている人間を装うことができた。
装うという表現をしたのは、木下が、まるで木下自身の振る舞いを少し後ろから客観視しているようなスタンスでいたからだ。
「ハハハ--」
飲み会の席では、木下はよく笑う。
「楽しいね--」
笑いすぎて涙が滲むほど、些細なことで、とにかくよく笑った。
ねえ、楽しいかい--?
木下が、後ろから自分の心に声をかける。
まともな人間の木下くん--
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