第3話
「お疲れ様です」
その日の見回りの兵が、何故か裏の遺体置き場に立っていた、本人いわく、「腹が立ったついでの気まぐれ」で来た客員の上官に敬礼と共に挨拶をした。
「御苦労さん。…ところで」
急に向き直った士官に目を丸くしていると、ドスの利いた声で問われた。
「お前、誰だ?」
「…じ、自分はっ…」
答えられなかった。顔をのぞきこまれ、逃がさないと鋭く光る眼光に捕えられたかのように動けなかった。まるでヘビに睨まれたカエル、猛禽に睨まれた鼠のようだ。
「見間違えじゃなければ、その階級章のヤツは本国の家族と再会してるはずなんだよな…。正体を現せ」
オリバーの時とは違う意味で観念した。押さえこまれていた呼吸が解放された瞬間のように大きく息を吐き、軍帽と外套を取り払った。
「…子供か?」
オリバーの時のように腕を掴まれているわけではないが、逃げられなかった。口調だけはのらりくらりとしているが、その眼光が猛禽のままだ。
「…で、ここで何をする気だった?ここには死体しかないぞ」
「…ミハエル兄さんの髪を…」
「髪?」
「髪だけでも、故郷の庭に…っ」
「…お前、少佐の何だ?」
「キリルくん!?」
「!」
キリルを呼ぶ声が聞こえた瞬間、呼ばれた本人の眼光が変わった。
「…きたな」
「お前がっ…」
「…昨日、来てはいけないと言ったのに、やはり来ていたんだね…」
キリルは処刑場で、オリバーがミハエルを撃つ瞬間を見たのだろう。ギラギラとした瞳から伺えるのは、明らかな敵意。
「上出来だったと思うぜ」
「…何の」
ことだ?と続く言葉は遮られ、ロバートは己の足元を指差した。遺体を本国に送り帰す際に使う、ナイロンの布に包まれた何かがそこにはあった。
「少佐はここだ」
「…気がついて?」
その言葉への答えの代わりに、ロバートは、今度は手にした何かをオリバーに向かって投げる。反射的にそれを受け止め、オリバーは見抜かれていたことを知る。
ロバートが投げて寄こしたのは長銃の薬莢だ。
「…弾、小さいやつに変えたな」
あと、火薬も減らしただろうと続けられた言葉に、無言で頷くオリバーと、ロバートのやり取りの意味が分からないキリルをよそに、
「まだ生きてるけど、時間が無い」
と続けられた会話に、堪らず疑問の声を投げる。
「説明は後でしてやる。…オレ一人で多少の時間稼ぎはするつもりだったのだけど、良い協力者が出来た」
キリルに向き直り、暫くオリバーでいてもらうと続けたロバートに、オリバーがキリルの身の安全を問うと、すかさず「保障する」と返された。
「…ただし、」
「ただし?」
「生きろ、オリバー。逃げて、逃げて、何処までも逃げて、生き延びろ。そして必ず、生きてまた会うと約束しろ」
頷き、抱きあい、ロバートに別れの挨拶と再会の約束をする。
「あぁ、必ずだ。約束する」
お互いに、いつ、何処でとも言わずに。
「…生きてるの…?」
足元のナイロン袋を確かめるように膝をついているキリルに、早く治療をして何処かで休ませないと危ないとだけ告げ、ロバートがキリルの肩を掴んだ。
「ロバート、私は行くよ。…感謝する。どれだけ感謝をしても足りないぐらいだ」
ナイロン袋に包まれたミハエルを抱きかかえ、オリバーが雪の中を走り出す。
「待って!」
呼びとめるキリルが早口で、それでも確かに伝わるように言った。
「兄さんを助けて、必ず!!」
「約束する。…そして、いつか必ず、レオーノフ少佐を君に会わせる」
オリバーが駆けだし、巻き起こった風が、積もった雪を散らしながら夕闇が二人の姿を攫う。 去った風の後に残った足跡。そして、ただ、何もなかったかのような静寂がやってくる。
「…いったな…。さ、お前さんには暫くオリバーでいてもらう。二人が国境を超えるぐらいの間、な。説明は中へ戻ってからだ」
その言葉に、キリルは力強く頷いた。
夜を超えるまで、ミハエルを放っておくわけにはいかなかった。
ナイロン袋を取り去り、ミハエルが処刑の時に着ていた軍服ではないことに驚き、再度ロバートに感謝した。
撃ち抜かれた、実際には撃ち抜いたとみせかけた左胸に布が押しあてられ、焼け石に水程度かもしれないが、止血の痕があった。
今、この国で、この国の士官服であればそれだけで追われる。ミハエルが着ているのは飾り気のないブラウスと黒のパンツだが、長身のミハエルが無理なく着ているのと材質を見ると、これはロバートの服だろう。
夜中であることもあり、街まで出ても簡単に休ませられる場所も、手当が出来る場所も見つけられなかったが、教会が解放している施設で手当てだけは受けさせられた。
手当をした医者から何の怪我かと問われたが、何かの事故らしく、詳しくは知らないと誤魔化した。突っ込んで聞かれなかったのはオリバーが勝国の軍服であったからだろう。恐れが半分、関わり合いになりたくないのが半分といったところだろうか。
手当はしてもらえたが、満床で人手も足りないからと早々に追い出された。 手当といっても止血だけ。栄養状態は 最悪であり、衰弱しきった体が朝まで持つか分からない。暖かい場所で休ませて様子を見る以外にないと言われたが、暖かい場所と言うこと自体が今は問題だ。
風と雪が防げるだけましというだけの、打ち捨てられた、恐らくは馬小屋に身を隠す。
氷のように冷たいミハエルの体から服を取り去り、己の体からも服を取り去る。強く抱きしめた後で、お互いの体に自分の軍服を巻き付け、藁の中へ身を寄せた。
夜が明けてもミハエルの体は冷たいままだが、僅かな呼吸音に安堵する。
小屋の外に積もる雪で乾きを凌ぎ、それ以外は、オリバーはずっとミハエルを抱きしめていた。
微かに、本当に微かに聞こえたミハエルの呼吸に、ただ、死なないでくれと願った。
その二日後、うっすらと目を開けてくれた奇跡に感謝した。
割れた唇が僅かに動いたが、乾ききった喉から声は出なかった。
ナイロン袋に一緒に入れられていた軍用食を与えようかと思ったが、干した果実と肉、それから乾パンなど食べられはしないだろう。
だが、他に食べ物などない。聞こえているかは分からないが、これで我慢して欲しいと伝えて、オリバーは干した果実を口に含んで咀嚼する。飲み込んでくれることを祈りながら、そのままミハエルの口をふさいでそれを与え、長い時間をかけて、数回にわたってゆっくりと嚥下されたのを認めると、今度は同じように、雪を溶かした水を与える。
その軍用食も尽きるころに、何とか声だけは出せるようになったミハエルが、最初に言ったのは、何故を問う言葉だった。
時間はミハエルの処刑命令がオリバーに渡された頃まで遡る。
ミハエルを処刑しないですむ方法を模索し続けたオリバーだったが、生きたままミハエルを連れて出るには、この厳しい土地と、本国の兵達が行きかうようになった国ではリスクが高過ぎ、見つかれば即座にミハエルは殺されてしまう。
そんな中で連れて逃げるのであれば、本人の「逃げて生き延びたい」という思いは最低限として必要であるが、ミハエル本人からはそれを望めない。
そこでオリバーが取った手段は、飛び切り危険かつ、無謀な賭けだった。
兵の前で一度ミハエルを処刑し、遺体置き場から連れ去るというものだが、ロバートが寄こした通り、ミハエルを撃ち抜いたと見せたのは火薬を減らし、音だけを上げる配分にし、弾は実際の弾よりも五分の一程度の大きさで発射されている。著しく殺傷能力に欠けるそれはオリバーからミハエルの左胸に直線で結ぶように高速の回転を保ったまま発射され、ドリルが板を穿つかのように、ミハエルの胸の肉を裂き、それが肋骨にかかるか否かのあたりで止めた。
実際に人間の、ましてや肉の薄いミハエルの内臓にどの程度で達するかなど予想もつかない状態の一発勝負だったが、このまま処刑されて確実な死を待つより、賭けることをオリバーは選び、結果として、これを成功させた。
脈を取った兵が、脈の停止を伝えたのは、瞬間的な出血で著しく脈が弱くなったことと、確認した兵士の興奮状態が原因だろう。
違う場所で、ロバートに最初からオリバーが仕組んでいたと聞かされたキリルは違う疑問を持った。
「…どうして…その…敵のはずじゃ…」
ぶかぶかのオリバーの軍服を着て、執務室に居るだけという協力者が、たどたどしく紡いだ疑問はもっともだろう。どうして敵であるミハエルをオリバーが処刑せず、自らの危険を冒してまで生かそうとするのか。
その問いにロバートは不敵に笑い、そして言った。
「…戦争なんて馬鹿げてる。皆、恋をして、愛する人を見つけて、幸せになればいい。…そうだろう?」
返された言葉に同意は覚えるも、それが何故答えなのかと首をかしげるキリルをロバートは面白そうに見ていた。
一方で、オリバーから経緯を聞き終わったミハエルが呟いた言葉に愕然とした。
「…死ねなかった」
彼は確かにそう言った。死ねなかったことに落胆していた。
「…貴方の手にかかって死ねる…そう思ったのに…」
それは、オリバーの行動全てを否定する言葉。
「嫌だ…。嫌だよ。君を殺すなんて、私は嫌だっ…たとえそれで君が楽になれるのだとしても、私は苦しい…ずっと苦しいまま、生き続けなきゃいけない…君を手に掛けたことを、愛した人を殺した自分を呪いながら…っ!!」
ミハエルを抱きしめて涙を流しながら告げられた言葉を、ミハエルが理解するまで数秒の時間を要した。
「…愛…?私を…?」
敵国の人間を?貴方の同胞を殺した自分を?
…言葉として続かなかった二つの問いの答えは、いつかオリバーから聞いていたが、今はそれを思いだせなかった。
分からない事が沢山あった。とりわけ、自分の身に何が起こったのかは、オリバーが処刑から自分を助けたこと以外に分からないが、思考は巡らない。
だが、泣きながら想いのたけをぶつけてくるオリバーに、ただ、泣かないで欲しいと思いながら、ミハエルは再び眠りに落ち、次に目覚めた時は、何処か違う場所にいた。
ぼんやりする視界と意識の向こうで、最悪の峠は越えたようだとオリバーが嬉しそうに言ったのが聞こえた。
戦争で、いくつも打ち捨てられた小屋や家屋があった。ここは恐らく、攻撃され、村ごと捨てられた場所だろうと、オリバーが言った。
何処からか探して来た僅かな野菜くずを、雪を溶かした水で煮る。味のないスープを飲みほすと、オリバーは再び腕の中にミハエルを抱いた。
「…明日、国境を越えよう」
…取りあえず今はオリバーに任せてみようと、ぼんやりする頭では思考すら億劫だと考えることを放棄した。
海側から国境を越えるのは遠回りだと言いかけて、やめた。
オリバーには言うだけ無意味なのはもう知っている。
何より、海側を越える方が見つけられる可能性は格段に低い。されるがままにオリバーに連れて来られた形ではあるが、自ら死のうにも自力で立てない程に弱った体では自殺すら出来ないと諦めた。
それから、ミハエルからの抗議も否定もないことを是と取ったオリバーが向かったのは比較的温暖気候とされる海側の村だった。海側の国境は遙かに警備が手薄で、いる兵はといえば、警備という名目はあるものの、漁村の猛者と腕相撲やらカードやらにふけっているのが現状だった。荷馬車に乗せてもらうことも造作もなく、「荷馬車を改める」と言われた時にはどきりとしたが、本当に荷馬車を改めただけだった。酒でもあったら横取りする気だったのだろう。それに手伝って、ロバートとキリルが上手く細工をしてくれていて。オリバーがいなくなったことがバレていないことも大きい。何度かの荷馬車の乗り継ぎと、貨物を運ぶ汽車に密航した。雨風の凌げる場所で、家畜の餌と思われる籾殻や藁でミハエルを休ませられたのは大きい。ついでに、自分の上着を羽織らせ、その上からさらに荷を覆っていた麻布を引きはがして、ミハエルを包んだ。
下車して暫くミハエルを抱えて歩いていると、畑帰りと思わしき老人が荷車を引いているのと出会い、「奥さんが身重のなのか?」と尋ねられて、オリバーは慌てて首を振った。「怪我をしているから、休ませたい」と告げると。荷台を貸してくれた。村の様子を見れば、ここには戦火が及んでいないのだとすぐに知れ、逆に戦火から逃れるためにここに来たという者もいた。自分達も戦火で焼け出されたと告げると、荷台を引く老人は「そうかい」と告げ、田舎過ぎて捨てる者も多い土地だと呟いた。
その言葉通り、如何せん田舎過ぎるということもあり、捨て荒れた空家には困らなかった。
家主が既にいないことを確認し、比較的修繕も可能だろうと踏んだ家をさも当たり前のように頂くことに決めたオリバーに驚く。
勲章を砕いて砂銀と砂金に変え、中央を飾っていた石はそのまま売ってきた。
「これで、暫くは生活できる」
軍人の誉れをあっさり捨てた男がそれと引き換えてきたのは、毛布と、食糧だった。
散乱していた適当な板木を組んで、離れの小屋に放置されていた藁を敷く。二枚ある毛布のうちの一枚を藁の上に敷いて、簡易ベッドの出来上がり。
ミハエルをその上に寝かせ、残りの端材を暖炉に放り込んだ。
「結構暖かいね」
パチパチと燃える暖炉の前で笑うオリバー。
軍人の誉れを砕いて買ってきたものを麻の袋から取り出して、ミハエルに笑いかける。
小麦と芋、チーズと塩漬けの肉。高価であるチョコレートもあった。チョコレートはミハエルが好きだと言っていたから、見かけた時につい買ってしまったと照れくさそうに言った。それと、ブリキ缶。その中身は紅茶だという。蓋を開けて、その香りをかぐ。葉はブロークン。ミハエルが収容所の執務室に置いていたのとは比べ物にならない程の荒茶だ。
少佐の見よう見真似だけど。と、前置きしてオリバーがその紅茶を淹れ始めた。歪なアルミのカップに入れられたそれは、自分の淹れ方をどう真似すればこんなに渋くなるのかと思う程に渋味が出ていたが、ゆっくりと身体の芯を温めてくれるようだ。
「…美味しい…」
御世辞にも程がある程に御世辞だが、思わず、そう口から出たのだから仕方がない。
オリバーが飲んでいないことに気がついて問うと、カップが一つしかないからと返された。
「なら、交代で」
飲み掛けのカップを差し出すと、何故か顔を赤らめたオリバーが、おどおどとそのカップを受け取った。
一口飲んで、少佐が淹れてくれたのと全然違うと顰めた顔に苦笑した。
二枚の毛布を二枚ともミハエルが使っていることに気がついて、ベッドを空け渡そうとすると、ごく普通に拒否されたが、その後で当たり前のように服を脱ぎ、自分を抱きしめて一枚の毛布を巻きつけるようにして横になったことに目を丸くし、そうゆうことかと溜息をついた。
「…貴方の地位なら、こんな手の込んだ事をせずとも、相手など居るでしょうし、買えるでしょう?」
「?」
溜息をついた後で続いた言葉に、今度はオリバーが目を丸くする。何を言われているのか分からない。そんな顔だ。
「…?…嫌かもしれないけれど、せめて傷が癒えるまではこうさせて欲しい。眠っている間に体温が低下すれば、命に関わる」
「性処理の相手に、不自由などないでしょうと言ったのです。あの収容所ならともかく、本国に戻れば貴方は英雄だ。貴方が望まずとも、そう祭り上げて貰えるでしょう。こんな手間をかけてまで、いちいち私を飼う必要が?」
「飼う?私が?少佐を?」
「…」
他に誰がいると言いかけて、やめた。ここまで言って、理解できない愚か者と言葉を交わすだけ無意味だ。
自分の外見を褒めそやかし、手を伸ばしてきた人間は数多にいた。性処理に体を提供し、閨でねだられるままに睦言の一つも囁いてやれば、勘違いをし、「全てを捨てて一緒に逃げよう」と言って手を引いてきた輩など何人もいた。
トチ狂った上に勘違いをし「命がけの恋」とやらを勝手に妄想して暴走した同軍の輩ならばいざ知らず、他国で英雄となった男なら、この程度の外見など、選び放題だろう。自分でなければならない理由などない。その上で全てを捨てた「命がけの恋」に酔っているのなら始末におけない。
「…今なら、まだ資金をお持ちでしょう。私の事は捨て置けばよろしい。山にでも捨てておけば、明日には鳥の餌です」
「少佐っ! ! !」
ミハエルの言葉に、瞬時に顔を真っ赤にしたオリバーが思わず怒鳴る。それをミハエルは冷えた目で見ていた。
「…怒鳴って、すまない。…君が嫌なら、傷が癒えた後でここから出て行けばいい。…好きな所に行けばいい」
本国に制圧と処刑の証として送ったミハエルの階級以外の勲章は、オリバーが持ってきたらしい。それを返すから資金にするといい。そう続けられた。
「…死にゆく人間には無用なもの。貴方がお使いなさい」
「…少佐、この戦争で、私は生きたいと望みながら死んでゆく者を沢山見てきた。誰もが生きたいと、幸せな明日が見たいと望み、戦い、そして死んだ…。君は…その…」
「何故、死を望むか、ですか?」
寸分のためらいもなく紡がれた言葉に、オリバーは反射的に頷いた。
祖国の人間としての誇りか。軍人としての誇りか。敵の手に落ちるぐらいならばと、自ら死を選んだ人間も多い。
何があっても生き抜く素晴らしさを説いていた政治家と教科書は、戦争が始まれば一転し、祖国の人間として、誇りの為に死ぬことを賛美する。
だが、ミハエルはそのどちらでも無かった。
「…私は、軍に入ると同時に死んでいるからです。殺戮兵器であり、性処理の玩具である以外に、私に価値などありません」
「…玩…具…?」
淡々と、何の感情も温かみを感じさせない言葉が続けられ、その言葉にオリバーの顔が強張った。 知りたくないと思う反面、どうゆうことだと感情がひきつった声を出させた。
その言葉の意味を尋ねられているのだと捉えたミハエルが、先ほどと同じように、何の感情も温かみもない声音で答える。
「私は上層部の性処理の道具だったのですよ」
「 !!」
愕然としていた。もうひと押しで軽蔑を得られるだろう。そうすれば死を迎えられると思いつつ、自嘲気味に唇を歪ませる。
「一つ、下らない男の昔話をして差し上げます」
大国の王家に通じる家系に、ミハエルは生まれた。 そしてその時代、陸軍の大佐であり、数多の戦役で武勲を上げた英雄、国の守護神とも言われた男がいた。
十数年前にあった先の戦争で、国を上げて英雄に祭り上げられた彼が、老齢による減退を公表できるはずもなく、軍部は虚像の英雄として彼を飾り、象徴として立たせていたという。
「…それが、私の父です」
しかし、その男は己の限界と虚像として飾られるに己に悩み、酒に溺れ、妻子に暴力を振るうようになった。
ある日、母に暴力を振るう父を止めようと間に割って入り、結果としてミハエルは父の生命を奪った。
その後、すぐに軍部の人間が来たが、軍神の最後が妻子に暴力を振るい続けた末に息子に刺し殺されたなどとは公に出来ず、事故死として発表することで父の名誉を守り、それが原因で精神を病んだ母親への庇護を国が与えることと引き換えに、ミハエルは軍に入ることになった。
「私は士官学校へ入り、父の尊厳を守ること、母の庇護への見返りに、身体を要求され、応じました。軍籍に移っても、昇進と引き換えにそれは続き、応じ続けました。…あの収容所へ転任を希望したのは、母が亡くなったからです。軍籍にあり、家名の為に自殺は憚られましたので…。我が国が敗北することは分かっていましたから…確実に死ねそうな場所を、選んだ結果です」
軍も自国の敗北を目前にして、母親という人質をなくし、戦争と戦術の天才、悪魔とすら呼ばれたミハエルを押さえこむ自信も余裕もなく、極寒の僻地への希望は願ったりといったところだった頃だろう。
「…戦線で多くの人間を屠り、その戦場から戻れば、請われるままに身体を差し出す。…それが、私ですよ」
軽蔑し、殺すだろうか、捨てるだろうか。
そんなことを考えていたが、振るえるオリバーの肩に怒りはじめたかとぼんやりと思う。
命がけでこんな男を助けたのだ。怒りに震えても無理はない。
「…辛かっただろう…っ」
可哀想に、可哀想に。何度も何度もそう言って自分を抱きしめ、髪を撫で続ける。
罵られることは多々あっても、辛かっただろう、だの、可哀想だのと言われたことは未だかつてない。
唖然とするミハエルの髪を撫でながら、大粒の涙を流してオリバーは言った。
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