1ー3 何もない雨

 雨音だけが道の先へと続く。


 その日は雨が降っていた。道中、雨が止む気配はなかった。たなびく雲に夕闇の影が差す前に、ミッコとエミリーは辿り着いた村で早めの休息を取ることにした。


 しかし村に人影はなかった。雨に濡れる石垣や木造の家々には確かな人の痕跡はあったが、しかし今は誰もいなかった。道や建物には草木が多い茂り、畑の作物も雑草の中で野生化していた。外縁はほとんど春の緑に呑まれていた。


 人気のない村を前に、エミリーが不安そうな表情を見せる。

「もしかして道を間違えた? 地図と違う村に来ちゃったんじゃない?」

「あー、一応確認しとくか」

 ミッコは馬を降りると家の軒下で地図を開いた。二人で何度も確認したが、場所に間違いはなかった。

「誰もいないのかしら……」

「ちょうどいいや。使えそうな物がないか漁ろう」

「ダメよ。もしかしたら今は出払ってるだけかもしれないでしょ?」

「いや、多分もう捨てられてるよ」

 扉の向こうに佇む静寂に目をやりつつ、ミッコは地図を片付けた。ミッコはエミリーに馬を預けると、いくつかの廃屋を漁った。荒らされている形跡はなかったが、最低限生活に必要な物はどこにもなかった。

 村はあるときを境にその流れを止めていた。恐らくは何らかの事情で廃村となったのだろう。北部は決して豊かではない。直接戦火に晒されなくとも、生活が立ち行かなくなることは往々にしてある。


 住人を失くした家屋は急速に朽ちる──扉の先の静寂を見るたび、ミッコはそんなことを思った。


 一通り物色を終えると、二人は雨露をしのげる場所を探した。すぐに〈神の依り代たる十字架〉が目に入った。村の中心に佇む木造の教会は、信仰という名の寄付が絡んでいるだけあってか、他の廃屋よりもしっかりした造りだった。

「ごめんください。誰かいますか?」

 エミリーは教会の扉を叩いたが、反応する声はなかった。中に足を踏み入れても、聞こえるのは雨音だけだった。

 カビの生えた十字架を前に、苔の生えた〈神の奇跡〉の伝承の絵画を前に、エミリーがところなさげに立ち尽くす。その横でミッコはゲーフェンバウアーとアルバレスの二頭を引っ張り、教会の中へと入れた。

「え、ちょっと中に入れても大丈夫なの?」

「外じゃ濡れちまうだろ。それに獣に襲われるかもしれないし」

 ミッコは布切れでエミリーの髪や顔を拭くと、それで馬の体や蹄鉄を拭くよう促した。


 教会の中も探索したが、やはり人はいなかった。二人は教会内の廃材で火を焚くと、礼拝者の長椅子に腰を下ろし、雨宿りを始めた。


 いつものように、二人と二頭が焚き火を囲む。静かなときの中、雨の残響だけが小さな火の色に溶けては消えていく。

「ねぇ、初めて出会った日のこと覚えてる?」

「あぁ。社交界のときだろ。あのときもこんな雨の日だったっけ」

「そうそう。それでこうやって馬も一緒で……」

「確かにゲーフェンバウアーはいたよな。あのときはパーティの主賓がうまやなんかで何やってんだよって思ったよ」

 二人が顔を見合わせる──出会いは今でも覚えている。あのとき、雨に濡れた深緑の瞳の色はどこかに駆け出したい衝動に駆られていた。同じような気持ちだったミッコには、それが痛いほどにわかった。


 戦争終結後、〈教会〉と〈帝国〉の王侯貴族の間では盛んに縁組が行われた。多くは両国の講和派が主導するもので、平和をより強固なものにするための政略結婚だった。

 当時、〈教会〉の騎士であるウィルバート・ソドーの娘と、〈帝国〉の騎士殺しの黒騎士と呼ばれた将軍の息子との間に縁談が持ち上がっていた。親世代は遺恨のある相手同士だったが、それでも平和は二人を結びつけた。


 ミッコは所属していた騎兵隊の上官であるオジアス・ストロムブラードに従い〈教会〉の社交界に赴いた。内心は白けていた。社交界とは名ばかりの、政略結婚の打ち合わせなど茶番にしか思えなかった。そのことはエミリーにもよく話していた。

「そっちだって警備サボってブラブラしてたんでしょ」

「まぁそうだけどさぁ。わざわざ〈教会〉まで来て、つまんねぇパーティでオジアスの奴のお守りなんざやってられっかっての」

「そんな不良兵士みたいなこと言って、もし上官に何かあったらどうしてたわけ?」

「もう何かあっただろ?」

 ミッコが鼻で笑うと、エミリーも鼻で笑った。それに反応したのか、二頭の馬も鼻を鳴らした。

「あのときさ、俺とオジアス比べてどう思った?」

「ミッコのことはねぇ、何このガラの悪そうな大男って思った。鎧も着崩してて、腕の刺青いれずみもやたら見せつける感じで……。でも声はすごく優しかったのを覚えてる。オジアスの方はあんまり印象に残ってない」

「印象がないなんて可哀そうなこと言うなよ。元婚約者なのに。実際そうだけどさ」

「ミッコと違って、好きとか嫌いとかを感じる以前の問題だったってこと。お父様が勝手に決めた縁談だったし、あのときは裏切られた気持ちの方が大きかったのよ」

「そんなもんかね。ま、俺は今でもあいつのこと嫌いだけど」

「でもオジアス本人はともかく、そのお父上にはお世話になったんでしょ? 恩人の結婚相手を奪うなんて、やっぱり悪い奴じゃない」

「確かに前の上官には恩義はあるけど……。それとこれとは話が別だよ。オジアスになんか世話になってねぇし」

 いつ思い返してもオジアスのことは全く気に入らなかった。戦場に出たこともない年下への嫌悪感は凄まじかった。騎兵隊の新任隊長になったのも、縁談前の箔付けであることは明白だった。そもそもオジアスはその出自からして怪しかった。騎士殺しの黒騎士と呼ばれた男は最期まで実子に恵まれなかった。にも関わらず、突如その家名を名乗り現れた存在は厳然たる異物でしかなかった。そして微かに父親の面影を残しているところもまた腹が立って仕方なかった。


 気分直しにミッコは酒を煽った。その後、エミリーもそれを飲んだ。すぐに体は温かくなり、嫌なことも酔いの隅に消えた。

「……ねぇ、あのときミッコは私のことをどう思ったの?」

 肩を寄せ、エミリーが訊ねる。焚き火の色が、その深緑の瞳の奥で小さく揺らめく。

 ミッコはエミリーの金糸の長髪を撫でた。その感触は今も昔も変わらなかった。

「今も昔も変わんねぇよ……」

 ミッコが微笑むと、エミリーは嬉しそうにはにかんだ。ただ、その瞳にはどこか後ろめたそうな色が浮かんでいた。お互い、戦争で多くを失った。しかしミッコと違い、エミリーにはまだ家族が残っていた。言葉では捨てるものなどなかったとは言っても、本当に捨てるものなどなかったミッコとではそこが決定的に違っていた。


 いつしか会話は途切れていた。しばらくの間、二人は焚き火の色を眺めながら抱き合った。

 気付くとエミリーは眠っていた。ミッコはエミリーを毛布で包むと、装具を身に着け、雨具を羽織った。そして黒塗りの弓とウォーピックを手に取った。ゲーフェンバウアーとアルバレスは顔を上げたが、ミッコが静かにするよう合図するとまたくつろぎ始めた。


 ミッコは教会の内外をぶらつき始めた。


 時の止まった廃墟を、ただ独り影が行く。雨音に潜むその足取りは軽く、夕闇滲む空を見上げるその瞳はどこか楽しそうだった。

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