3-2 死した瞳は明日を語らぬ
塔を吹き抜ける風は、泣いているように聞こえた。
ミッコはしばらく寝たあと、グレタに連れられ、上に行った。いや、正確には行ったというよりも、気付いたらグレタと一緒に上にいた。
今、遥か塔の上から眺める下は、真っ黒に塗り潰され、何も見えない──そして塔にはまだ上がある。いくつかある別塔の一つだが、石畳みの通路と階段はそちらにも続いている。下と同様、上もまた暗く、空は見えない。
塔を吹き抜ける風は冷たい。宙を舞う光る虫が何なのかはわからないが、すでに夏の虫は去り、今は微かに秋の虫の音が聞こえるのみである。
燭台を手に通路と階段を進むグレタに続き、ミッコは歩いた。ところどころに焚かれた篝火、燭台の灯には、光る虫が群がっているが、しかしどこも薄暗かった。かつての栄華を誇るようにして飾られる様々な石像は、どれも壁から漏れ出す油のような黒い液体に塗れていた。そしてガーゴイルの像だけはどれも目を潰された女の顔をしていた。
体はまだ痛かったし、包帯を巻かれた左目の視界が失われているせいもあって、足下は覚束なかった。なぜかところどころ崩落している箇所もあり、足を踏み外しそうにもなった。
「グレタさん。神々の集会所で何するんでしたっけ?」
「女王陛下へ謁見する前に、まず神々の集会所で祝杯を挙げる。古今東西の英雄たちとともに祝杯により身を清め、松明を持ってそれに意志を込め、空に唱える。それから女王の間へと移動し、陛下と誓約を交わす。そのぐらい覚えろ」
(だから何だよそれ……)
会話が一方通行になるたびにミッコは呆れたが、グレタの方は怒るのに飽きたのか、説明する気もなさそうだった。
グレタはやはり不思議な女だった。何もないときは妙齢の乙女に見えたし、光る虫を手で撫でるときは幼い子供に見えたし、怒っているときは男に見えた。そして、時折、窓の外を覗くときはくたびれた老婆に見えた。
「着いたぞ」
そう言うと、グレタは大きな扉の前で止まった。
「何が始まるので?」
「いいから入れ。失礼のないようにな」
グレタは声を怒らせながら、男のような腕力で扉を開けた。
扉が開くと同時に、盛大な拍手が湧き起った。
篝火に照らされた暗闇には、無数の影がいた。
「待ちくたびれたぞ! さぁ、こっちだ!」
見覚えのある男がやってくる。北風の騎士──ミッコよりも幼い姿をした兄──はミッコの肩を抱くと、人垣の中央へと誘った。
これまでの通路と同じように、広間にも無数の篝火が焚かれていたが、それらはやはり薄暗く、壁に飾られた絵画までは見えなかった。しかし、今ここにいる者たちの表情はよく見えた。
みな、知った者たちだった。みな、笑顔だった。
「おぉ! お前、左目やられたのか! いい傷だな! 似合ってるぞ!」
後方任務を担当していたときに何かと気をかけてくれた酔っ払いの輸送業者は、杯を掲げると、それを一気に飲み干した。
「なぁ、次の戦いには参加するんだろ? またよろしく頼むよ」
戦場でたまたま知り合った年長の帝国軍の兵士は、少し頬を緩めながら、握手を求めてきた。
「ミッコ! 俺のこと覚えてるか? 久しぶりに一緒に歌おうぜ!」
「よっしゃあ! みんな歌おうぜ! 女王陛下の
〈
状況の呑み込めぬミッコの周りで、酒宴が勝手に盛り上がっていく。
いろんな人間がいた。騎馬民、帝国人……。同じ軍団だった者、他の軍団だった者……。歩兵、騎兵、砲兵……。
「みんな静かにしてくれ! そろそろ女王陛下に会う前の儀式を始めよう!」
北風の騎士の一声で、場が静まる。騒めきが静まると同時に、場の視線がミッコに集まる。
「さぁ、この杯を掲げ、飲むんだ」
戦争の終わり、最後の戦いで再び戦場に戻ってきた愚か者の騎士──北風の騎士の弟で、ミッコの次兄──が、杯の中身を飲むように促してくる。杯には、いつか飲んだ覚えのある、薄黄色の酷い臭いの酒が入っている。
愚か者の騎士のそばには、同じく最後の戦いを共にした皇帝の血濡れた手──北風の騎士の妹で、ミッコの姉──が、松明を手に立っている。いつも仏頂面だった姉の眼差しは、今は優しい。
どうするべきか、ミッコはグレタに訊ねようとしたが、いくら探してもグレタの姿はなかった。
どうすべきかわからず、場の視線に耐えられず、ミッコは流されるまま杯に口を付けようとした。しかしそのとき、またよく知っている声がそれを遮った。
「飲むな。戻れなくなるぞ」
その声でミッコは我に返り、飲むのを止めた。振り返ると、人垣と篝火の影にエミリーが見えた気がした。
その声はエミリーではなかったが、しかし流される前にミッコは踏み止まることができた。そして状況の異様さに改めて気付くことができた。
「どうした? 酒の匂いが気になるのか? 安心しろ、後味は悪くないし、すぐに酔える代物だ」
北風の騎士は気を遣ってくれているようだったが、その言葉は的外れだった。
「ミッコ。俺たちは女王陛下に選ばれたんだ。女王は偉大な意志を持っている。そして新たな戦場で俺たちを必要としている。だからお前にも来て欲しい」
ミッコは五歳で生き別れたこの兄のことをよく知ってはいない。しかし、こんな世迷言を垂れる人間でないことは知っていた。いや、信じていた。
「新たな戦場? 誰と戦う気なんだよ? 〈
北風の騎士は答えなかった。その瞳は、ミッコの問いを理解していないようだった。
「それでも
「そんなことはない! 俺たちはこの塔の上から、遥かなる地平線をちゃんと見ている!」
北風の騎士が声を荒げ反論する。堰を切ったように、みなが口々にミッコに反論する。
「地平線に死を! 転生者に祝福あれ!」
「そうだ! 敵は我らを待っている!」
「女王陛下の号令で、俺たちは地平線を蹂躙するんだ!」
「みんな、もっと飲んで酔っ払え!」
ぼやくミッコに、みなが声を上げた。しかしそのどれも、ミッコには響かなかった。この場にいる者たちはみな、過去の戦いを語ることはあっても、明日を語ることはなかった。
「うるせぇよ……」
何が転生だ。何が次なる戦いだ。何が新しい人生だ……。
「あんたらみんな、もう死んでんだろ……」
ミッコは声を絞り出し、吐き捨てた。
次の瞬間、全員が死んだような目でミッコを見てきた──北風の騎士は首を撃ち抜かれていた。愚か者の騎士は体中に弾痕があった。皇帝の血濡れた手は両腕を切り落とされ、首筋を切り裂かれていた──事実、この場にいる全員は死んでいた。
声なき者の声が、風に流れる。
ミッコは右目を閉じ、開けた。
先ほどまで人で溢れていた神々の集会所には誰もいなくなっていた。ただ、広間奥の玉座の前には、独り座り込む影があった。
そこには初老の黒騎士がいた。騎士殺しの黒騎士は、玉座の前であぐらをかきながら、退屈そうに篝火に薪をくべていた。
火の粉舞う暗闇で、ミッコと騎士殺しの黒騎士の視線が交わる。
「よぉ」
「お久しぶりです」
騎士殺しの黒騎士を見た瞬間、なぜか怒りが湧いた。
神々の集会所にただ独り残った騎士殺しの黒騎士──戦争の終わり、その最後の戦いで頭を銃弾に撃ち抜かれ戦死した上官、そしてエミリーの婚約者だったオジアス・ストロムブラードの父親──を前に、ミッコは明確な怒りを覚えていた。
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