第三章 魅せるもの、魅たいもの、魅せたいもの

3-1 塔の女王の使者グレタ

 ポツリと、何か冷たいものが触れた気がした──。


 目覚めたとき、空は揺れていた。

 背中越しに、車輪の揺れ、木の軋み、馬蹄を感じた。ミッコは馬車の荷台に横たわっていた。

 ほとんど止んでいるが、まだ雨は降っている。しかし馬車には天蓋もほろもなく、ミッコは荷台で雨ざらしにされている。


「流れ風よ、目覚めたか」

 頭上から声がした。ミッコは体を起こそうとしたが、動かなかった。視界はやはり左半分が抉れていたが、しかし目だけは動いた。周囲の様子を探ると、視界の隅に人影が見えた。

 手綱を握り馬車を操るその影は、不思議な背中をしていた。その姿は、幼い子供にも、妙齢の乙女にも、くたびれた老婆にも、見ようによっては男にすら見えた。


 女はグレタと名乗り、自らを塔の女王の使者であると言った。


「できる限り治療はしたが、まだ体は痛むか?」

「えぇ……。助けてくれてありがとうございます」

「気にするな、ミッコ。私は女王陛下の命令に従ったまでだ」

「あの、何で俺の名前を知ってるので?」

「女王陛下に助けを依頼してきた者たちが、お前のことをそう呼んでいた。だから知っている」

 グレタは何でもないことのように返事をしたが、しかし誰が助けを依頼したのか、ミッコには見当が付かなかった。いくら東が先祖の故郷とはいえ、こんな辺境に知り合いはいない。つい最近、旅の道中で新たに知り合った者たちも、恐らく多くは死んでいる。

 女王と聞いて、ミッコはデグチャレフ村で出会ったマルーン神父が、〈塔の国〉とそれを治めていた塔の女王に傾倒していたことを思い出した──フーに敗れ、エミリーを奪われたあの日……。あのあと、マルーン神父はどうなったのだろうか……? メイジは、ハンターは、エミリーは無事だろうか……? 狼王の遺児フーは、エミリーを奪いどこに行ったのだろうか……?

「フー? 誰だそいつは? 〈東の覇王プレスター・ジョン〉の仲間か?」

 ミッコが過去を思い出していると、何も言っていないのに、グレタは独り喋り始めた。

「お前とその連れ合いも、〈東の覇王プレスター・ジョン〉によって悲しき過去を背負ってしまったのだろう……? あの忌まわしき東の野蛮人ども……! 奴らのせいで国は滅び、多くの命が奪われてしまった! 奴らが多くの塔を焼いたことで、生き残った我らの祈りも神に届かなくなってしまった! しかし女王陛下は諦めていない! 我らは必ずや奪われた領土を取り戻し、再び国を興す!」

 〈東の覇王プレスター・ジョン〉の名を口にするたび、グレタは独りで勝手に怒りを爆発させていた。親でも殺されたのだろうか、その憎悪は何も知らぬミッコから見ても凄まじかった。

「我らは今、反攻のための軍勢を集めている。いずれも古今東西の戦場で名を轟かせた、勇猛果敢な歴戦の猛者たちだ。彼らの力と、女王陛下の〈神の奇跡〉をもってすれば、いかに〈東の覇王プレスター・ジョン〉が強大であろうとも、〈塔の国〉の勝利は間違いない」

 〈神の奇跡〉──かつて〈東の覇王プレスター・ジョン〉とその軍勢を打ち払ったという、〈教会七聖女〉が顕在させし救国の大魔法──それについてエミリーと何か話していたことを、ミッコは思い出した。

「ちなにみ、その軍勢にいる一部の者たちが、君を助けてほしいと女王に頼んだ。それで、私が遣わされたというわけだ」

(何言ってんだコイツ……)

 ミッコは独りで勝手に盛り上がるグレタを横目に、呆れた。ミッコは同じようなことをのたまっていたマルーン神父を思い出した。マルーン神父もミッコから見れば大概な狂信者だったが、グレタは完全にその上を行っていた。

「はぁ!? 何がコイツだ! 愚かな若輩者め! 助けてやったというのに、よくもそんなことが言えるな!」

 ミッコが内心ぼやいていると、突如、グレタは怒った。ミッコは何も言っていなかったが、しかしミッコが何か思うたび、グレタは口汚くミッコを罵倒した。

 ミッコはいよいよ自分の頭がおかしくなったと思った。マルーン神父も話の噛み合わない人だったが、少なくとも同じ時代には生きていた。しかし、〈東の覇王プレスター・ジョン〉への憎悪と〈塔の国〉の再興をしきりに口にするグレタは、どう考えても違う時代を生きているとしか思えなかった。

「なぜこんな奴を助けねばならんのだ、まったく……。陛下も甘すぎる……。味方とはいえ、所詮はどこの馬の骨とも知れぬよそ者……。あいつらも陛下の足下を見て増長しおってからに……」

 ぶつくさと文句を垂れるグレタは、馬と話し始めていた。馬はパーシファルと呼ばれていた。


 何か思うだけで罵倒されるので、ミッコは考えることを止めた。そして目を閉じ、音に耳を傾けた。


 小さな雨音。ぬかるんだ馬蹄。回る車輪と馬車の軋み。グレタと名乗る女の独り言と、それに反応する馬の鼻息。そして僅かな風の声──。


 しばらくの間、ミッコはまた眠った。



*****



「着いたぞ」

 どれほどの時間が経ったのだろうか。馬車は止まっていた。ただ、グレタの声はまだ怒っていた。

「どこにって、我が故郷に決まってるだろう! 女王陛下の前でそんなふざけたことを訊くんじゃないぞ!」

 どこに──と、訊く前に、グレタは釘を刺してきた。


 ミッコは目を開け、頭上を眺めた。

 雨は止んでいた。灰色の空には、無数の光る虫が舞っていた。そびえ立つ石造りの塔の先端は、雲に隠れていた。

 油のような黒い液体が滴る石壁のところどころには、〈神の依り代たる十字架〉を掲げるガーゴイルの石像が飾られていた。コウモリのように羽根を広げ、がに股で鎮座するその像は、どれも目を塞がれていた。それらには乳房があり、そしてどれも女の顔をしていた。

 それがずっと遠くから眺めていた〈塔の国〉の影であることに、ミッコはしばらくしてから気付いた。


 ここが本当に〈塔の国〉なのだとすれば──……二百年前、かつては文明の最東端と呼ばれ栄えていたとされる〈塔の国〉は、ミッコからすれば完全に異国だった。少なくとも、〈教会〉が布教した神と同じものを信仰しているようにはとても思えなかった。


 動けず、ただぼんやりと空を眺めるミッコをよそに、グレタはパーシファルを馬車から外すと、どこかへ連れて行ってしまった。

 しばらくの間、ミッコは独り荷台に取り残された。

 何もできないのでまた寝ようかと思っていたとき、唐突に声をかけられた。

「よぉミッコ。久しぶり」

 それはグレタの声ではなく、男の声だった。そしてどこか聞き覚えのある声だった。

「でかくなったな」

 ミッコを覗き込むその顔にも、見覚えはあった。しかし誰なのか、ミッコはやはりわからなかった。


 声も、顔も、覚えはあった──帝国騎士を示す竜の徽章。ミッコの被っていたものと同じ型落ちの皿形兜ケトルハット。腰に佩く騎兵用のサーベル。騎馬民の用いる弓と矢筒。並みの大人よりも大きな体躯。まだ髭の生え揃わぬ、しかし明らかに戦士である横顔──……。


 そして思い出した。目の前にいるのは、ミッコの兄だった。


(あぁ、とうとう俺は死んだのか……)


 自分よりも若い姿の兄を見ながら、ミッコは思った。

 最後に長兄を見たのは、五歳くらいのときだっただろうか……。北風の騎士は、十年以上も前、〈帝国〉と〈教会〉が全面戦争に突入した開戦初期に死んでいる。

「ベッドに連れて行ってやる。今は体を休めるんだ。体が動くようになったら、グレタさんと一緒にに来い。みんな待ってる」

 そう言って、北風の騎士はミッコに微笑んだ。

 視界の左半分は抉れていたが、しかしその笑顔は、最後に見たときと同じだった。それは立派な戦士のものであると同時に、少年のように幼かった。


 自分が生きているのか死んでいるのか、ミッコにはよくわからなかった。


 死んだ兄とエミリーと歩んだ旅路が、重なり、繋がる──亡霊にでもなって化けて出れば、またエミリーに会えるだろうか──ぼんやりと、ミッコはそんなことを思った。

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