◇始まりはここから その2

 その透き通るような雫の向こう側に見えるのは、冷たいのにどこかあたたかな水晶の水泡。どこまでも透明なその色は鏡のようにきらきらと輝いていて綺麗で、ずっと見ていられるような気がした。


 私が雫から目を離せずにいると、急に影が落ちてきて、瓶にはほのかな闇色を映し出された。 


「――おかえり、姫さん」


 ふわりと包まれるような感覚とあたたかな温もり。待ち焦がれていた人と再会して安心するかと思いきや、その腕が思いのほかぎゅっと強く回されて驚きの方が勝る。


「……ごめんなさい、黙って出て行って。もう大丈夫なの?」

「ああ。久々に力を使い切ったから、ちょっと時間はかかったけど……もうすっかり元通りだよ。」

「よかった……」


 そのまま恨み言を述べるのかと思ったが、何も責める様子がないのに少し拍子抜けする。

 肩にさらさらとした黒髪が触れると、彼はいつもの余裕が感じられないほど焦っているのがわかった。


「もう、戻ってこないのかと思った」


 その瞬間、私ははっとしてユリウスの顔を覗き込んだ。そのいつもの剽軽な笑みがどこか寂しげで、ぎゅっと胸が痛む。私に触れる手が少し震えていることに気付くと、心配させて申し訳ないやら、そこまで想ってくれて嬉しいやらで複雑な気持ちが絡み合う。

 彼はその顔を見られまいとするかのようにもう一度私を抱きしめると、胸に押し付けられた耳にはどくどくと脈打つ鼓動が届いた。彼も緊張していることを少し意外に感じる。


「本当は自信がなかったんだ。あんたはもうあの王子様に未練はないのか、とか。人魚の家族にはきっと止められるだろうな、とか」

「……え?」


 海の魔法使いはかすれた声で呟く様に言うと、私の存在を確かめるように、背中から肩、頬から髪へと、優しい手つきで撫でた。


「ずっと考えてた。俺は姫さんと釣り合うのか。あんたを幸せにできるのか。……わからないんだ。あんたを誰にも渡したくない。独り占めしたいと思うのに……」


 父様も言っていた。違う種族同士では幸せになれない、と。

 でも、私は決めた。自分の幸せは自分で決めるものだ。正解なんてどこにもない。


「幸せにしてやる、じゃないわ。私はただ、ユリウスと一緒にいられればいいの」


 そう告げると、ユリウスは驚いたように大きな目を見開いていた。その様子が物珍しいようでおかしくて、くすりと笑ってしまう。

 そして、私はおもむろに手のひらの中にある人魚の涙の入った小瓶を差し出した。


「それは……」


 意味もわからずにあげてしまったあの時とは違う。今はただ、本当に捧げたいと思った自分の真実の気持ちだ。


「これが、私の気持ち。前とは違うわ。」

「……こんなにすぐに返ってくるとは思わなかったな。本当にいいの?」


 「私のすべてを貴方に捧げます」というその行為が意味することに思い当たると、なんだか恥ずかしくなり、私はそれ以上目を合わせられずにうつむいた。

 その間に、彼がぱっと指を鳴らすと水泡が近付いてきて、小瓶を包み込む。ぷかぷかと漂う瓶の中の雫は、灯のように輝きながら私たちを照らし出している。


「姫さん……ありがとう。こうしてあんたが自分で会いに来てくれた。それだけで俺には十分だよ」


 それからそっと頬に手を添えられると、否応にも彼と向き合う形になった。漆黒の双眸が刻一刻と近づいてくる。スローモーションのように広がっていく黒を眺めながら、私は呆けたように固まった。しなやかで優しい手に期待と驚きがないまぜになり、胸が高鳴っていく。


「さっき途中で終わっちゃったから、今度こそ……しよっか。」

「え?! な、なにを……」


 私が驚いてあたふたとしている間に、二人の距離はいつかのように息の触れ合うところまで近付いていた。ふっと彼が微笑む。切なげで優しいその表情に引き込まれると、いつのまにか鼻先が触れ合った。ほんの少しだけ冷たい他人の肌に、不思議な心地になる。

 もう目前の人物以外は視界に入らなくなる。何も考えられなくなる。そのままどちらからともなく目を閉じると、かすかに唇に柔らかな感触が触れた。それから、ゆっくりと確かめるようにもう一度。今度は角度を変えて深く、互いの唇の形を確かめ合うように重なり合う。


「好きだ。ローネ」

「私も……あなたが好きよ。ユリウス」


 愛の言葉を交わすほど、触れ合えば触れ合うほど温度は上がっていく。熱に浮かされたようにぼうっとした頭で彼を見上げると、どちらも頬が緩んでいた。



 運命の巡り合わせと悪戯で私たちは今ここに居る。だが、ひょっとすると初めから海の魔法使いという未知のルートを選んでいたら、案外筋書きは今と同じだったのかもしれない。


 それでも、これから進むルートは一つだけ。そこにどんな出来事が待ち受けているのかは未知の領域で、あらすじもなければ選択肢もないのは一緒だ。

 もう迷わない、と断言できるほど成長できたわけではないけれど、私はもう一人で見えない何かと戦う必要はない。それは確かだ。


 そして私は、エンディングを迎える――。



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