◇始まりはここから その1

 いつものように上方に向って泳いでいくと、目立ってしまうため見つかるかもしれない。ともなれば、と私は一つ心当たりのある場所へ向かった。


 間もなく、目前には中央に大きな穴の開いた岩が見えてきた。ここをくぐり抜ければ、グレーネの外に出られる、まあ抜け道のような場所だ。幼いころから探検してきたのだから、その辺は熟知している。こんな夜更けに外を泳ぎ回っているような人魚はいないため、外へ出てしまえばこっちのものだ。私は見つからないうちに、とはやる気持ちを抑えきれずに岩をくぐり抜けようとした。


「――あ」


 ちょうどグレーネに入ってこようとした人魚とばったりと出くわしてしまい、思わず気の抜けた声が出る。逃げようにも抜け道は狭く、隠れることもままならない。


「……あ」


 が、それは相手も同じだったようで、大きな図体にはそぐわない、ぱっちりとした大きな目をますます大きく見開いている。

 見たことのない青年人魚だ。濃い茶色の短髪にがっしりとした体躯。グレーネの王女であるゆえ、私自身はそこに住む人魚からの認知度は高いが、こちらから他の人魚についてはほとんど知らないことが多い。


「……ローネ姫?」


 やはり向こうは私を知っているようだ。父様は私が謹慎中だと言うお触れは出しているのだろうか、とどうごまかすべきか悩む。案の定、彼はすぐに怪訝な表情になった。


「失礼ながら、こんな夜更けにどこへ行かれるんですか~?」

「え、えっと……ちょ、ちょっと散歩に……」

「いい夜ですもんね~。……で、本当は?」


 やはり父様の根回しは完璧だったようだ。私はため息をついた。本当のことを言ったら見逃してもらえたりは……しないだろうな、と思いつつもダメもとでお茶を濁す。


「えっと。ちょっと人に会いに……」

「人……と言うと、この方角ならもしや海の魔法使いですか~?」


 すぐさま言い当ててられてしまい、私は言葉に詰まった。


「ま、まあ……その……」

「ほお~? ふんふん、なるほど~」


 王女の優位に立てているのが嬉しいのか、青年人魚はしたり顔でにんまりと笑った。ころころと表情を変える姿は見ていて何ともせわしない。


「な、なにかしら?」

「いや、あいつも隅に置けないなあ、と思いまして~。」

「……? ユリウスのことを知っているの?」


 そういえば彼について他人から聞くのはなかなかに珍しいことだ。この人魚の言い分だと、ユリウスのことはそこまで悪く思っていないようだ。むしろ仲のいい友人のような物言いに驚き、意外に思う。そして、ふとユリウスは私以外の人とはどうやって接するのだろう、と気になってくる。


「まあ、ただの腐れ縁と言うやつですよ~。そっか……よかったなあ。」


 一人でうんうんとうなずきながらにんまりしている青年人魚を見つめて、私は唖然とした。


「え、えっと……?」

「まあ、これも乗り掛かった舟と言うやつです。僕はここでは何も見なかったことにしますから、他の奴が来る前に早く行ってください~。」


 どうやら見逃してくれるらしい。欲を言えばユリウスのことを詳しく訊きたかったが、どうやらその時間もないようだ。


「あ、ありがとう! 恩に着るわ」

「いえいえ~。またいずれ。……あいつを幸せにしてやってくださいね。」


 振り返った時には、彼はもう泳ぎ去っていた。

 とりあえず助かった、と私はほっと胸をなでおろすと、改めて魔法使いの住処へと急いだ。

 



                 ***




 ここは、海の底。目前に見えてきたのは真っ黒なフジツボとイソギンチャクで彩られた、難破船の端切れで作られた小屋。何かおどろおどろしい文字が書かれた板切れが看板のように掛けられていて、読めないのは相変わらずである。こうしてまたここに戻ってくるのは三度目になるだろうか。


 私の運命を悟った場所。その運命が変えられるのか、そうでないかもわからないまま巻き込まれていった始まりの場所だ。入口に近づくと、ひとりでに扉が開く。あの時と同じように水の力で引き込まれたわけでもないのに、吸い寄せられるのはどうしてなのだろう。


 ほのかな薬品の香りが漂うと、ほんの少しの時間しかいたことはないはずなのに、妙に懐かしい心地がした。部屋の中央では、ぼんやりと光る水泡の水晶が明かり代わりに辺りを照らし出している。本来ならこの泡のように……いや、もっと小さくてか弱くて、すぐに弾けてしまうような泡となって消えてしまってもおかしくなかった。もっと言えば、ここに閉じ込めてやるなどと冗談交じりに言われたこともあったな、と今更ながら思い出して苦笑する。


 ふと、私の手元にある小瓶も淡い輝きを放っていることに気付いた。小瓶の中の雫は、水泡の光を反射するように、透明から虹色の煌めきへと変わっていく。


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