◇種族の境界 その3
暗い海には煌々と夜光のクラゲが漂い、規則正しく点滅を繰り返している。窓のように丸く開いた岩の穴から外の様子を見るともなしに見ていると、淡白い光からぼんやりと青に変わっていくようだ。その様子を尻目に、私はもう何度目になるのかもわからないため息をついていた。
岩で仕切られたこの空間は、その気になれば上の方へ泳いで逃げ出すこともできそうに見えるが、父様からの命令か、見張りの人魚が入り口付近にいるようだった。人間の時と同じようにまた自由が奪わるなんて、皮肉なものである。一か月もの間行方不明だった末っ子王女が戻ってきたというのに、この仕打ちは何なのだろう。
人間界でもうまくやっていくことができなくて、故郷に戻っても肩身が狭いなんて、いったい私の居場所はどこにあるのだろうか。
こんな時でも、いやこんな時であるからこそ思い浮かぶのは、切なげに細められた黒の双眸と頬をかすめた唇の熱。
今頃彼はどうしているだろうか。寝ている間に出て行ってしまったのだから、心配をかけているかもしれない。まあ、ユリウスのことだから文句の一つも言いに突然現れそうな気もするが……来ないということは、傷が痛んで魔法が使えないのだろうか。それともまだ目覚めていないだけだったり……?
そこまで考えて、思い出す。たった一言、名前を呼ぶだけでいい。それだけのことができなくなっているのは、以前満月の後に感じたような気まずさや恥ずかしさのせいではない。
私は……私自身は、ちゃんとユリウスの助けになれているだろうか。むしろ、いつも助けられてばかりではないだろうか。いつだって彼の魔法に頼ってばかりで、本当にいいのだろうか。私はユリウスを利用したいわけではない。
――いつまでも助けられるのをただ、待っているだけじゃだめだ。自分の力で彼に会いに行かなくては。
手のひらに収まっている小瓶を見つめる。昔の私が、ユリウスのために流したという涙の雫は、透明なのに虹色の光が反射しているようにキラキラと輝いていて、我ながらとても綺麗だった。
(私のすべてを、あなたに捧げますと言う証……)
今は私を勇気づけるように淡い光を放っているようで、同時になぜかこの場所に留まっているのが落ち着かなくなってくる。
――会いたい。
その言葉が浮かんだ時、やっと理解した。そうか。この気持ちを大事にしたかったから……だから、自分で抜け出さないと意味がないと感じたのだ。
目を閉じて水音に耳を澄ませる。もう夜更けだから、他の人魚たちは眠ってしまっている。近くにいる見張りさえやり過ごせば、誰にも見とがめられずに出ていくことができるだろう。できるだけ水音をたてないように、そろりと移動する。岩陰からゆっくりと顔を出すと、思っていたよりも近くに人魚の影があり私は慌てて引っ込んだ。
(び、びっくりした……)
しかし、人魚はすぐ横にいる私には気付かずに泳いでいき、そのままこちらに背を向けて通りすぎていった。唖然としている暇はない。この絶好の機会を逃すわけにはいかないだろう。
――今だ!
私はその場を飛び出すと、サンゴ礁の陰に身を隠した。人間だった頃は、たとえカイに泳がされていたとはいえ、もっと厳重な警備を潜り抜けたものだ。きっと大丈夫なはず……と、ちょうど交代の時間だったのか見張りの人魚はそのまま泳ぎ去って行った。ほっと胸をなでおろす。誰かに気づかれる前に、とっととここを出て行ってしまおう。
グレーネは国全体が眠っているかのような静寂に包まれていた。夜光虫が漂い揺らめていると、水音に混ざって寝息が聞こえてくるかのようだ。私が睨んだとおり、他に起きている人魚はいなさそうである。
ふと、これが最後かもしれないと思うと胸がチクリと痛んだ。しかし、感傷に浸っている場合ではない。
それにしても、魔族と人魚の確執がこれほど根深いものだとは知らなかったものだ。まるで人間における身分差のようで、ここでも「住む世界の違い」をまざまざと見せつけられてつくづく嫌気がさしてくる。
もちろん、はなから認めてもらえるなんて思っていたわけではない。ただ、この気持ちを私の物だと認めてもらえなくて、魔法のせいだと決めつけられ、騙されているのだと決めつけられたのが悔しかった。
私だってずっと悩んできた。勘違いだったらと頭の隅へ追いやってきた。それでも彼が命を賭して助けてくれたからこそ、この気持ちに気付いたのだ。
きっといつかは認めてもらえる。そう自分に言い聞かせて、そのままグレーネを後にしようと急いだ。
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