◇種族の境界 その2

「すまない。こうして無事に戻ってきただけでもありがたいというのに……つい、昔の記憶と重なるところがあってな。」

「昔の、記憶……」


 エリーネが先ほど「昔同じことがあった」と口にしていたが、そのことだろうか。妙な既視感に戸惑いながら、私は居住まいを正した。これはきっと、過去に私と同じように人間に憧れて海の魔女の元へと赴いた者がいた、ということなのだろう。


「お前の母親に妹がいたのは知っているな。」


 そういえば、と思い返してみる。亡くなった母は六人姉妹の五番目だった。叔母に当たるたった一人の妹は、私と同じ末っ子。奇しくも私と通ずるところのある境遇だ。

 父様はこめかみを押さえながら、思い出すのも辛いのか、ため息混じりに切り出した。


「あの子もお前と同じように好奇心旺盛だった。人間の王に恋をして、海の魔女と取引して人間になり、そのまま帰ってこなかった。それだけなら、恋が成就したと喜ぶべきだったのだろうが……数年後、海辺で彼女によく似た人間の死体が見つかった。報告を受けただけだから、本当にあの子だったかはわからないが……」


 父様の悲痛な面持ちに、聞いているこちらまでぐっと胸が詰まるような気がする。そして同時に脳裏をよぎったのは、なぜか悲しげな歌に乗せられたピアノの調べだった。


「叔母さまは……どんな方でしたか?」

「姉妹の中では一人だけ、燃えるような赤毛だった。ああ、それから……とても歌が上手だったな。」


 なぜ、今そんなことが気になったのだろう、と自分でもよくわからずに首をかしげる。

 いつかの王宮でラウニが奏でてくれた音楽が耳に残っている。今となっては歌詞の詳細までは思い出せないのに、鮮明に心に焼き付いて離れない曲調。あの歌の通りなら、彼女はきっと……と思いをはせたところに、次の一言で現実に引き戻された。


「結局、種族の違う者同士は幸せになれないのだ。以来、人魚たちには海の魔族とも人間とも関わることを禁止してきた。人魚には人魚、人間には人間、魔族には魔族と互いの境界を守った方が互いのためになる。だから、お前は普通の人魚と幸せになりなさい」

「――え?」


 突如、頭を金づちで殴られたようなショックを受けた。あたかも、私がユリウスを好きだという気持ちも許さないと言われたような気がして。何も知らないくせに、とふつふつと静かな憤りが腹の底から込み上げてくる。気づけば私は息まいていた。


「確かに……確かに、心配をかけたことは謝るわ! でも、そんなにいけないこと? 私はもう大人なのよ。自分のことくらい自分で決める。誰を好きになろうが、私の勝手じゃない!」


 しかし、私がいくら泣こうがわめこうが、人魚の王の決意は固く、聞き入れてもらえるはずもなかった。彼は腕を組んだまま静かに首を振っている。


「ローネ。私たちはお前の幸せを願っている。人魚なら、ここグレーネでなくても誰を選んでもいい。現に上の姉さんたちもそうやって幸せになっている。だから、お前も――」

「いやよ! 幸せになれない、なんて誰が決めたの? そんなの、父様の押しつけじゃない!」


 子供のように駄々をこねたところで何が変わるわけでもない。それでも、自分の気持ちも、人間になったことすらも丸ごと否定されたみたいで、悔しさに唇を噛み締める。

 私たちの様子をあたふたと見守っていたエリーネは、ふと私の両肩に手を置くと、心配そうな面持ちで顔を覗き込んだ。


「ねえ、ローネ。まさかとは思うけれど。あなた……人間の王子じゃなくて、あの魔法使いのことが好きなの?」

「っ?! それは――」


 魔法使いである彼のことを否定されるのは目に見えている。それでも嘘をつくことはできずに私がかぶりを振ると、彼女ははっと息を呑んだ。


「まあ……」

「なっ……?!」


 これには父様も予想外だったのか、驚愕のあまり呆然としている。


「……これは、人間よりたちが悪いかもしれないな。いいかい、ローネ。よく聞きなさい。魔族は人魚たちの敵だ。甘い言葉で惑わしたとて、奴らの目的は人魚の鱗や涙。金のことしか頭にない、汚い連中だ。早く、目を覚ましなさい!」


 また、この話かとうんざりする。こうなったら説得は無理だとあきらめるほかない。


「魔族魔族って、彼個人については何も知らないでしょ? 私は……彼に助けられて、それで――」

「もしかして、魔法にかけられておかしくなったのか? 数か月前に惚れ薬なるものを所持している人魚がいる、と報告があったが……まさか。」


 この人はいつもそうだ。自分が思ったことを曲げずに、偏見で物を語る。もはや私が何を言おうと、まるで聞き入れる気がないことに苛立ちを覚え始める。


「本当に、違うの! これは私の本当の気持ちよ。人の心を操ることができたとしてもそれは一時的なものだって――」

「もうよい。誰に似たのか、本当に頑固者だ。私は警告したからな!」


 父様は険しい表情を崩さないまま、話はこれまでと言わんばかりに切り上げようとする。言いたいことを一方的にぶつけられるやるせなさを感じながら、私は諦念と共にため息をついた。


「別に、良いわよ。私の幸せは、私が決める。頼むから、もう放っておいて!」


 売り言葉に買い言葉でそう答えると、お互いにそれ以上は言っても無駄だと悟ったのか、しばしの沈黙が流れた。


「……そうか」


 私を大切に思うが故の言葉だと頭では理解しているだけに、自分が大人げないのはわかっていた。私がさっさと出ていこうとすると、すぐさま自室に戻る様に促される。


「しばらく頭を冷やしなさい。」


 どうやら、謹慎ということらしい。こういう時は思いっきり海を泳ぎ回るのに限るのに、この行き場のないもどかしさはどうすればいいのだろうか。

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