◇種族の境界 その1
ふらふらとあてもなく泳ぐ。幼いころから幾度も冒険を重ねてきた見覚えのあるサンゴ礁に海底火山。なじみのある地形を目にして、ふとグレーネの近くまで来ていることに気付いた。途端に、ちょっとした罪悪感のようなものが芽生える。
誰にも何も言わず姿を消してしまったのだ。私を知る人魚たちは今頃心配しているに違いない。エリーネだけは事情を知っているものの、彼女にも無事に人魚に戻れたことは伝えられずにいた。
少しだけ顔を見せようか、と思いついたところでユリウスはそろそろ目覚めただろうかと考える。ちゃんと身体は休めているだろうか。少しは傷が良くなっているだろうか。そういえば集めた食材も持って行かなくては。やっぱり先にあの住処へ戻って、ここへは改めて心の準備をしてから来ることにしよう。そう決めたところで、聞き覚えのある懐かしい声が耳に届いた。
「ローネ……?」
はっとして視線を上げると、小魚の群れの向こうから一人の人魚の姿が垣間見えた。大人びた面立ちに、肩まで切りそろえられた赤茶の髪。思わず息を呑む。あれは確か、舞踏会の後にユリウスによって会わせてもらったのが最後だっただろうか。
「エリーネ姉さま……?」
「本当にローネなのね! 無事でよかった……本当に良かった!」
彼女は勢いよく泳いでくると、私をぎゅっと両腕で強く抱きしめた。短くなった髪が肩へ触れる感触に、何とも言えない気持ちになる。
「ずっと心配してたのよ。あれからどうなったか……」
「うん……ごめんね。」
「人魚に戻れたってことは、王子を殺せたのね。良かったわ、あの外道魔法使いに唆されて、おぞましい人間界に放り込まれたときはどうなるかと思ったけど……」
「あ、あはは……」
どうやら激しい誤解をしているようだ。かと言って、おそらくユリウスに敵意を抱いているであろう彼女にありのままを話したら、卒倒してしまいそうなので、ここは様子を見ながら少しずつ説明を試みることにする。
「えっとね、姉さま。私、実は……王子を殺してはないの。その、とある人から真実の愛を手に入れて、よくわかんないけど泡を免れて、人魚に戻れたと言いますか……」
我ながら何とも要領を得ない、意味不明な説明だ。案の定、エリーネはハトが豆鉄砲を食らったようにぽかんとした顔をしている。
「え。どういうことなの? 人間から愛を得て、泡にならずに済んだのなら……人魚には戻らず、人間のままなのかと思っていたけれど」
「ええと……そこは海の魔法使いのコウイと言いますか、何と言いますか……」
厚意、もとい好意だが、間違ったことは言っていないので少し濁しておく。歯切れの悪い私に姉は怪訝そうな顔をしていたが、それよりも今無事でここに居ることの方が大事と考えたのか、それ以上は深く追及しようとしなかった。
「ふ~ん。まあ……話しづらいなら今度でいいわ。それより、お父様もグレーネのみんなもそれはもう心配していたんだからね。早く顔を見せて安心させてあげなきゃ」
「そ、それもそうね」
そして手を取られ、有無を言わせない態度でグレーネの方へと泳ぎ出す。私もユリウスのことは気になるものの、問答無用で連れて行こうとするエリーネに引っ張られるがままに泳ぐことになる。
「あなたが何も言わずにいなくなってからと言うものの、お父様は大層気が気じゃなかったのよ。ずっと、前……私たちが生まれるよりずっと前に、同じことがあったらしいから、それの二の舞になるんじゃないかって嘆いていたわ」
「そ、そうだったの……」
昔も今も人間に興味を持つ人魚がいたのは変わらないらしい。そういえば、似たような話をどこかで聞いたことがあったような気がするが、どこでだっただろうか。
***
グレーネに入ると、途端にあちこちに人魚の姿が見受けられる。なんだか妙に懐かしくて、何か大きな忘れ物をしているような焦燥感はあるのに、どこか落ち着いてしまう。人魚たちは急いで泳いでいく私たち姉妹の様子を不思議そうに見守っている。
洞窟のように広がった岩でできた空洞の中央には、色とりどりのサンゴ礁やイソギンチャクで彩られた高台がある。そこには、長い白髪とあごひげをたくわえた壮年の男人魚が待ち構えていた。険しい顔には深いしわが刻まれ、頬が少しこけているせいもあり、心なしかやつれて見えた。
「――遅かったな。」
それでも、海がとどろく様に水が揺れる荘厳さは相変わらずだ。周りに仕える人魚たちはびくりと震えている。
「も、申し訳ありません……お父様。」
「聞けば、危険な目に遭ったそうじゃないか。海の魔女……今は、魔法使いだったか。魔族と取引して人間になったのか?」
「そ、そうです」
やはり、父を前にすると何も隠しごとなどできそうにない。言われるがままに答えていくと、突然彼は語気を強くした。
「あれほど海の魔族と関わるなと言ってきたではないか!」
父が私を心配して言ってくれているのもわかる。だが、成人した私に自由を与え尊重してくれていたとも思っていただけに、もどかしさを覚える。
父はそこで強く言いすぎたことに気付いたのか、あわてて咳払いした。
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